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{{二十四史}}
'''范 曄'''(はん よう、[[398年]] - [[445年]])は、[[中国]][[魏晋南北朝時代]]の南朝[[宋 (南朝)|宋]]の[[政治家]]・[[文学者]]・[[歴史家]]にして『[[後漢書]]』の作者。[[字]]は'''蔚宗'''。先祖は[[南陽郡]][[順陽郡|順陽県]](現在の[[河南省]][[南陽市 (河南省)|南陽市]][[淅川県]])の出身であり、[[会稽郡]]山陰県(現在の[[浙江省]][[紹興市]][[柯橋区]])にて出生した。
 
==略歴==
范曄は士族の家に生まれた。祖先の范晷は[[西晋]]の[[雍州隆安]]2年([[刺史398年]]名門である范氏一族に生まれた。曾祖父の[[范汪]]は[[東晋]]の[[安北将軍]]・[[徐州|徐]][[兗州|兗]]二州刺史・[[武興県]]侯、祖父の[[范寧]]は臨淮郡[[太守]]・豫章郡太守で『[[春秋穀梁伝]]集解』の著者、父の[[范泰]]は宋の[[侍中]]・[[光禄大夫]]となり、死後は[[車騎将軍]]を追贈されている。范「博覧強記にして、道理に通ず」とあり、『[[書経|尚書]]大事』20巻・『東陽方』105巻などを著している。范寧は『[[春秋穀梁伝]]集解』12巻を著し泰の第四子で范泰も『古今善言』24巻を著したという。范曄は范昂范暠范晏と末范広淵がい
 
范曄は名門生まれであった幼名は「磚」というが、妾の生んだ庶子であった。これは范曄の母が彼を便所の中で生んだ時に彼の額が磚(レンガ)に当たって傷ついてしまったため、「磚」が范曄の小字なっから名づけられ{{sfn|吉川|2010|p=40}}。若くして学問を好み、経書とに広く通じ、文章を作るのが巧みであり、音律にも通じていた。[[420年]]、[[劉裕]]が東晋の禅譲を受けて宋を建国すると、范曄は劉裕の子、[[彭城]]王[[劉義康]]の冠軍参軍となり、尚書外兵郎・[[荊州]]別駕従事史・秘書丞・征南司馬領新蔡郡太守・司徒従事中郎・尚書吏部郎などを歴任かっ{{sfn|吉川|2010|p=40}}
 
[[420年]]、[[劉裕]]が宋を建国すると、范曄は劉裕の子の[[彭城]]王[[劉義康]]の冠軍参軍となり、尚書外兵郎・[[荊州]]別駕従事史・秘書丞・征南司馬領新蔡郡太守・司徒従事中郎・尚書吏部郎などを歴任した。
[[432年]]、范曄は劉義康の母の葬儀の最中、宴席を開いたことから劉義康の怒りを買い、宣城郡太守(現在の[[安徽省]])に左遷された。宣城在任中、志を得ずにいることから、それまでの史家たちが編纂した『後漢書』の記述を整理し、自ら『[[後漢書]]』を編纂した。数年後に許されて[[長沙]]王劉義欣の鎮軍長史・寧朔将軍、始興王[[劉濬]]の後軍長史・南下邳郡太守、さらに太子詹事などを歴任した。
 
范曄は、たびたび奇行を起こしたと伝えられている。[[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]8年([[431年]])、江州刺史の[[檀道済]]の属官であったとき、[[北魏]]軍を討つために北征の命令が下ったが、范曄は足の病と称して断った。しかし、[[文帝 (南朝宋)|文帝]]は許さず、范曄を物資輸送の監督に就かしめた{{sfn|吉川|2019|p=198-199}}。また、翌年、范曄は劉義康の母の葬儀に通夜の客として参列していたが、夜に弟の范広淵らとともに宴席を開いたことで劉義康の怒りを買い、宣城郡太守(現在の[[安徽省]])に左遷された{{sfn|吉川|2019|p=198-199}}。元嘉16年(439年)年、范曄が[[長沙王]]の[[劉義欣]]の長史であったときには、兄の范暠の任地で嫡母が危篤になったが、范曄はすぐに出発せず、後から妓妾を連れ立って現れて非難された{{sfn|吉川|2019|p=199}}。
当時、劉義康は[[文帝 (南朝宋)|文帝]]の弟として宰相の位にいて、内外の政務を取り仕切り、その権勢は皇帝の文帝を凌いでいた。[[440年]]、文帝は劉義康の腹心であった[[劉湛]]以下十数名を誅殺・流刑に処し、劉義康を[[江州 (江西省)|江州]]刺史に左遷した。[[445年]]、散騎侍郎の孔熙先は劉義康の復権と擁立を謀り、范曄にも謀議の参加を誘った。当初、范曄は孔熙先を軽んじていたため、謀議に荷担することを望まなかったが、結局は孔熙先らの謀議に加わった。11月、丹陽尹[[徐湛之]]の告発により孔熙先らの計画は発覚し、范曄は自身を含む一家全員が処刑された。享年48。末弟の范広淵も兄に連座されて処刑された。 
 
左遷されて宣城に在任していたとき、范曄は発憤し『[[後漢書]]』の編纂を開始した。范曄は、先行して存在した『[[東観漢記]]』や『[[後漢紀]]』、他の数種の『後漢書』を整理しながら、新たな後漢の歴史書を作り上げた。
{{See also|後漢書#成立までの経緯}}
 
=== 謀反事件 ===
[[文帝 (南朝宋)|文帝]]の弟である[[劉義康]]は、宰相として内外の政務を取り仕切り、その権勢は文帝を凌ぐものがあった。元嘉17年(440年)、文帝は劉義康の腹心であった[[劉湛]]以下十数名を誅殺・流刑に処し、劉義康を[[江州 (江西省)|江州]]刺史に左遷した。代わりに第二皇子の[[劉濬]]が揚州刺史として迎えられたが、劉濬は12歳と幼く、この時に州事を代行していたのが范曄である{{sfn|吉川|2019|p=205}}。范曄は、元嘉17年に宿営の衛兵を統括する左衛将軍、元嘉19年に東京の衆務を司る太子詹事を務め、順調に出世していた{{sfn|吉川|2019|p=205}}。
 
左遷された劉義康の配下にいたのが[[孔熙先]]で、彼は劉義康のために謀反を計画した。朝臣を抱き込むために范曄が必要であり、范曄の外甥の[[謝綜]]を通じて親交を持った{{sfn|吉川|2019|p=208-9}}。この謀反には、他に[[仲承祖]]・[[徐湛之]]・謝綜などが参加し、兵は[[臧質]]・[[蕭思話]]が準備する手筈になっていた{{sfn|吉川|2019|p=214-16}}。
 
しかし、元嘉23年([[445年]])、徐湛之の密告により孔熙先らの計画は露見した{{sfn|吉川|2019|p=223}}。范曄は、自身を含む一族全員が処刑され、ここに名門である范氏一族は途絶えた{{sfn|吉川|2019|p=233-234}}。
 
==無神論==
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*『百官階次』(現存しない)
 
== 伝記資料後世の評価 ==
清代の[[考証学]]者の[[王鳴盛]]は、『[[十七史商榷]]』で、『[[宋書]]』范曄の列伝は、著者である[[沈約]]によって故意に歪められたものであり、范曄は奇矯な人物ではなく、謀反においても無実であることを力説する。これに対し、[[吉川忠夫]]は、沈約の執筆態度に問題が多いことは確かであるが、范曄の奇行は同時代の資料からも認識されることであり、虚構とは言えないと指摘している{{sfn|吉川|2019|p=234-236}}。
 
== 参考文献 ==
=== 伝記資料 ===
*『[[宋書]]』巻69(列伝第29)
:*日本語訳 『中国古代の歴史家たち-[[司馬遷]]・[[班固]]・范曄・[[陳寿]]の[[列伝]]訳注』<br> ([[福井重雅]]編訳、[[早稲田大学]]出版部、2006年)
 
===日本語文献===
* {{Citation|和書|year=2010|last=吉川|first=忠夫|title=読書雑志 : 中国の史書と宗教をめぐる十二章|chapter=范曄と『後漢書』|ISBN=9784000241496|PUBLISHER=岩波書店}}
*[[ {{citation|和書|last=吉川|first=忠夫]]「|chapter=史家范曄の謀反」‐『[[|title=侯景の乱]]始末記 南朝貴族社会の命運』(|publisher=志学社選書|year=2019年)|isbn=4909868003}}
 
=== 評伝脚注 ===
{{脚注ヘルプ}}
*[[吉川忠夫]]「史家范曄の謀反」‐『[[侯景の乱]]始末記 南朝貴族社会の命運』(志学社選書、2019年)
<references />
 
==外部リンク==