1965年の野球(1965ねんのやきゅう)では、1965年の野球界における動向をまとめる。
1965年 日本シリーズ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
|
10月30日(土) |
第1戦 |
読売ジャイアンツ |
4 - 2 |
南海ホークス |
大阪球場
|
10月31日(日) |
第2戦 |
読売ジャイアンツ |
6 - 4 |
南海ホークス
|
11月1日(月) |
移動日
|
11月2日(火) |
第3戦 |
雨天中止 |
後楽園球場
|
11月3日(水) |
南海ホークス |
3 - 9 |
読売ジャイアンツ
|
11月4日(木) |
第4戦 |
南海ホークス |
4 - 2 |
読売ジャイアンツ
|
11月5日(金) |
第5戦 |
南海ホークス |
2 - 3 |
読売ジャイアンツ
|
優勝:読売ジャイアンツ(2年ぶり7回目)
|
- 5月1日 - 広島カープが川崎球場での対大洋1回戦で2-1と勝利し、球団創設以来初めてセ・リーグの単独首位に立つ[7]。
- 5月2日
- 5月7日 - 巨人対国鉄の試合が後楽園球場で行われ、巨人は3回裏に王貞治が5号本塁打を放ち、これで巨人は球団創設以来チーム本塁打2000本を記録[10]。
- 5月9日 - 中日の中暁生が広島市民球場での対広島4回戦の5回表に三塁打を放ち、プロ通算1000安打を達成[11]。
- 5月10日 - 国鉄は午前11時より東京・麹町の弘済会館にて臨時株主総会を開き、サンケイ新聞社への経営譲渡と球団名を「サンケイ・スワローズ」への変更を決定[12]。
- 5月11日 - 巨人の瀧安治が兼六園野球場での対広島戦で、瀧が放った打球が投手安仁屋宗八の膝を直撃、跳ね返った打球を捕手久保祥次が直接捕球し投触捕直(投手に打球が接触した後の捕手へのライナー)となる(記録上では投直で捕手に刺殺がつく)[13]。
- 5月19日 - 巨人の吉田勝豊が後楽園球場での対サンケイ戦の4回裏に代打で出場し、プロ通算1000試合出場を達成[14]。
- 5月31日 - 巨人の長島茂雄が中日球場での対中日8回戦の1回表に7号本塁打を放ち、プロ通算200本塁打を達成[15]。
- 9月4日 -巨人の金田正一が多摩川で行われたイースタン・リーグの対東映フライヤーズ戦のダブルヘッダー第一試合に先発し6回を投げ被安打3、与四球2、3三振、生涯唯一の二軍での調整登板となった。事前に登板が報道されたこともあり、二軍では異例の3000人の観客となった[35][36]。
- 9月5日 - 大洋の小野正一が川崎球場での対中日ダブルヘッダー第二試合の20回戦に先発して勝利投手となり、プロ通算150勝を達成[37]。
- 9月8日 - 巨人の金田正一が後楽園球場での対サンケイ21回戦に先発し、三回表先頭打者の杉本公孝を三振に打ち取り、プロ野球史上初の5000イニング投球を達成、またこの試合で完投勝利を収め、プロ通算350完投を達成[38]。
- 9月11日 - 大洋の近藤和彦が中日球場での対中日21回戦に先発出場し、プロ通算1000試合出場を達成[39]。
- 9月12日 - 南海の野村克也が大阪球場での対近鉄ダブルヘッダー第二試合の24回戦の六回裏に38号本塁打を放ち、山内一弘の持つ日本プロ野球最多本塁打の記録を更新する通算312号本塁打となる[40]。
- 9月12日 - 【MLB】サンフランシスコ・ジャイアンツのウィリー・メイズがヒューストン・アストロズ戦で47号本塁打を打ち、メジャー通算500本塁打を達成[41]。
- 9月19日 - 巨人の王貞治が川崎球場での対大洋20回戦の九回表に30号2点本塁打を放ち、プロ通算200本塁打を達成[42]。
- 9月26日 - 南海対東映のダブルヘッダー21回戦、22回戦が大阪球場にて行われ南海がそれぞれ6対1、4対2と連勝し、パ・リーグ優勝を達成[43]。
- 9月30日 - プロ野球実行委員会が午後1時より銀座・日生会館にて行われ、1938年の巨人の中島治康が達成した打撃三冠王が公式に認定される[44]。
- ^ “タイガースヒストリー 1965-1969”. 阪神タイガース公式サイト. 2015年11月23日閲覧。
- ^ 毎日新聞1965年4月5日1面「岡山東商が初優勝 センバツ高校野球 市和商を延長で破る」毎日新聞縮刷版1965年4月p101
- ^ 毎日新聞1965年4月10日夕刊7面「待望のプロ、六大学 野球の春プレーボール」毎日新聞縮刷版1965年4月p241
- ^ 読売新聞1965年4月23日8面「プロ野球"ドラフト制度"を実施 新人採用をプールで きょうから個別契約認めぬ」読売新聞縮刷版1965年4月p564
- ^ 読売新聞1965年4月24日8面「国鉄、球団手放す サンケイ・スワローズ 経営一本化して新発足」読売新聞縮刷版1965年4月p590
- ^ 読売新聞1965年4月27日夕刊9面「国鉄監督に砂押氏」読売新聞縮刷版1965年4月p685
- ^ 読売新聞1965年5月2日9面「広島(結成以来)初の単独首位 興津1号 稲川を長打でつぶす」読売新聞縮刷版1965年5月p37
- ^ 読売新聞1965年5月3日9面「杉浦が奪千五百三振 14安打 南海、新安打で返礼」読売新聞縮刷版1965年5月p61
- ^ 読売新聞1965年5月3日9面「吉田(阪神)千五百本安打」読売新聞縮刷版1965年5月p61
- ^ 読売新聞1965年5月2日9面「巨人、王で2千本塁打を記録」読売新聞縮刷版1965年5月p165
- ^ 読売新聞1965年5月10日9面「中(中日)が千本安打」読売新聞縮刷版1965年5月p215
- ^ 読売新聞1965年5月11日9面「サンケイスワローズ 国鉄、きょうから新発足」読売新聞縮刷版1965年5月p238
- ^ 週刊ポスト2012年8月3日号
- ^ 読売新聞1965年5月20日9面「吉田(巨人)が千試合出場」読売新聞縮刷版1965年5月p465
- ^ 読売新聞1965年6月1日9面「長島、待望の通算二百号 中山、小川健(中日)をKO 終回の反撃、宮田で断つ」読売新聞縮刷版1965年6月p9
- ^ 読売新聞1965年6月8日9面「サンケイ球団社長に友田氏」読売新聞縮刷版1965年6月p183
- ^ 読売新聞1965年6月17日8面「東京 本堂監督が休養 代理監督に濃人コーチ」読売新聞縮刷版1965年6月p410
- ^ 読売新聞1965年6月17日9面「吉田勝百号達成」読売新聞縮刷版1965年6月p411
- ^ 読売新聞1965年6月29日9面「バッキー 無安打無得点 巨人をたった3走者 10勝一番乗りをかざる」読売新聞縮刷版1965年6月p739
- ^ 読売新聞1965年7月1日9面「SBO クジラと少年 古沢 主演はなんと17歳」読売新聞縮刷版1965年7月p5
- ^ 読売新聞1965年7月3日9面「小玉、千五百試合出場」読売新聞縮刷版1965年7月p65
- ^ 読売新聞1965年7月4日9面「山内、四人目の千打点」読売新聞縮刷版1965年7月p93
- ^ 読売新聞1965年7月16日8面「小山 無安打無得点のがす 阪急 9回、二死からテキサス」読売新聞縮刷版1965年7月p406
- ^ 読売新聞1965年7月17日9面「米田(阪急)が奪三振二千 五人目」読売新聞縮刷版1965年7月p443
- ^ 読売新聞1965年7月24日9面「白石監督(広島)が休養 監督代行に長谷川コーチ」読売新聞縮刷版1965年7月p611
- ^ 読売新聞1965年7月26日9面「巨人、2000勝(新記録)の偉業」読売新聞縮刷版1965年7月p653
- ^ “【7月25日】1965年(昭40) 東大卒初のプロ、「南氷洋に行ったつもりで」1年目に初白星”. スポーツニッポン (2008年7月24日). 2015年11月23日閲覧。
- ^ 読売新聞1965年7月30日9面「大和田(広島)千試合出場」読売新聞縮刷版1965年7月p747
- ^ 読売新聞1965年8月9日9面「野村通算三百号 第2 逆転2ランで飾る」読売新聞縮刷版1965年8月p187
- ^ 読売新聞1965年8月9日9面「米田が五百試合登板」読売新聞縮刷版1965年8月p187
- ^ 読売新聞1965年8月18日9面「山本八が百号本塁打」読売新聞縮刷版1965年8月p393
- ^ 読売新聞1965年8月19日9面「長島千試合出場」読売新聞縮刷版1965年8月p417
- ^ 読売新聞1965年8月20日9面「嵯峨、91打席打席目に安打」読売新聞縮刷版1965年8月p441
- ^ “【8月19日】1965年(昭40) 90打席、506日もヒットが打てなかった男”. スポーツニッポン (2007年8月11日). 2015年11月23日閲覧。
- ^ 読売新聞1965年9月5日9面「金田、7日から登板か」読売新聞縮刷版1965年9月p109
- ^ “【9月4日】1965年(昭40) 通算“401勝” カネやん生涯唯一の2軍登板”. スポーツニッポン (2007年8月20日). 2015年11月23日閲覧。
- ^ 読売新聞1965年9月6日9面「小野が通算百五十勝」読売新聞縮刷版1965年9月p129
- ^ 読売新聞1965年9月9日9面「金田、完投でカムバック 日本タイの三百五十完投を達成」読売新聞縮刷版1965年9月p203
- ^ 読売新聞1965年9月12日9面「近藤和が千試合出場」読売新聞縮刷版1965年9月p281
- ^ 読売新聞1965年9月13日9面「野村が37・38号放つ 通算312本 最多本塁打の日本新」読売新聞縮刷版1965年9月p301
- ^ 読売新聞1965年9月13日9面「メイズ通算吾百号 大リーグ5人目」読売新聞縮刷版1965年9月p352
- ^ 読売新聞1965年9月20日9面「王30号 早くも200本目 ハイペースの記録達成」読売新聞縮刷版1965年9月p477
- ^ 読売新聞1965年9月27日1面「南海、二年連続優勝 パ・リーグ」読売新聞縮刷版1965年9月p623
- ^ 読売新聞1965年10月1日11面「三冠王1号は中島(元巨人) プロ野球実行委 公式記録に認定」読売新聞縮刷版1965年10月p11
- ^ 読売新聞1965年10月3日9面「外木場(広島)が無安打無得点 今季二人目 初勝利での快挙」読売新聞縮刷版1965年10月p61
- ^ 読売新聞1965年10月4日11面「並木(阪神)が千試合出場」読売新聞縮刷版1965年10月p87
- ^ 読売新聞1965年10月6日15面「スペンサー骨折 オート接触転倒」読売新聞縮刷版1965年10月p143
- ^ 読売新聞1965年10月7日11面「古賀、S・Fジャイアンツへ 教育リーグに参加」読売新聞縮刷版1965年10月p163
- ^ 読売新聞1965年10月15日1面「巨人優勝きまる セ・リーグ 結成以来18回目」読売新聞縮刷版1965年10月p355
- ^ 読売新聞1965年10月22日11面「野村、三冠王を達成 ロイ(西鉄)ら逆転は不可能」読売新聞縮刷版1965年10月p543
- ^ 読売新聞1965年10月25日10面「パ・リーグ 全日程終わる」読売新聞縮刷版1965年10月p618
- ^ 読売新聞1965年10月22日11面「セ・リーグも全日程終わる」読売新聞縮刷版1965年10月p701
- ^ 読売新聞1965年10月29日11面「阪神監督に杉下昇格 藤本は総監督」読売新聞縮刷版1965年10月p727
- ^ 読売新聞1965年10月29日11面「本堂監督と三コーチを解任 東京オリオンズ」読売新聞縮刷版1965年10月p727
- ^ 読売新聞1965年10月29日11面「村山(阪神)に沢村賞 2度目」読売新聞縮刷版1965年10月p727
- ^ 読売新聞1965年11月5日夕刊1面「巨人、選手権を獲得 日本シリーズ 南海に4勝1敗で」読売新聞縮刷版1965年11月p117
- ^ 毎日新聞1965年11月6日13面「巨人、七度目の王座」
- ^ 毎日新聞1965年11月7日13面「『南海をやめる』と鶴岡 監督20年、いい区切り プロ野球生活は続ける」毎日新聞縮刷版1965年11月p165
- ^ 毎日新聞1965年11月12日13面「慶大野球部 新監督に近藤氏」毎日新聞縮刷版1965年11月p285
- ^ 読売新聞1965年11月14日8面「蔭山監督に本きまり 南海」読売新聞縮刷版1965年11月p336
- ^ 読売新聞1965年11月15日11面「プロ野球最優秀選手きまる セリーグは王 パリーグは野村」読売新聞縮刷版1965年10月p389
- ^ 読売新聞1965年11月15日11面「藤尾、町田が任意引退」読売新聞縮刷版1965年10月p389
- ^ 読売新聞1965年11月17日夕刊9面「蔭山南海監督が急死 過労、眠れなかったここ数日」読売新聞縮刷版p429
- ^ 読売新聞1965年11月18日11面「初の新人選択会議ひらく 巨人、堀内(甲府商)らに交渉権」読売新聞縮刷版1965年10月p441
- ^ 毎日新聞1965年11月21日15面「鶴岡氏、南海復帰を発表」毎日新聞縮刷版1965年11月p519
- ^ 読売新聞1965年11月22日10面「サンケイ監督 飯田氏きまる」読売新聞縮刷版p544
- ^ 読売新聞1965年11月26日11面「東京監督に田丸氏(二軍監督)」読売新聞縮刷版1965年11月p650
- ^ 読売新聞1965年11月26日「広島は長谷川氏 石本氏がヘッドコーチ」読売新聞縮刷版1965年11月p650
- ^ 読売新聞1965年12月7日11面「関根外野手(巨人)が引退」読売新聞縮刷版1965年12月p171
- ^ 読売新聞1965年12月15日11面「村上、南海と契約 保有権問題にケリ」読売新聞縮刷版1965年12月p389
- ^ 読売新聞1965年12月18日11面「島野、杉本交換成立」読売新聞縮刷版1965年12月p473