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アバハイ

太祖の4番目の正妃。ウラナラ氏出身。

アバハイ満洲語ᠠᠪᠠᡥᠠᡳ、転写:abahai、漢字表記:阿巴亥、1590年-1626年10月1日)は、後金の太祖ヌルハチ1559年 - 1626年)の配偶者。女真満洲人)の正白旗中国語版八旗の一つ)に属するウラナラ氏(Ula nara hara)出身。孝烈武皇后(こうれつぶこうごう)とされた。

太祖アバハイ皇后
孝烈武皇后 烏拉那拉氏
太祖アバハイ皇后

全名 ウラナラ・アバハイ
(烏拉那拉 阿巴亥)
別称 孝烈恭敏献哲仁和讚天儷聖武皇后
出生 万暦18年(1590年
吉林省吉林市[疑問点]
死去

1626年10月1日(1626-10-01)(35歳没)

(天命11年8月12日)
盛京皇宮(瀋陽故宮
埋葬 福陵遼寧省瀋陽市):殉葬
配偶者
ヌルハチ
(結婚 1601年; 死別 1626年)
子女 アジゲ中国語版
ドルゴン
ドド中国語版
家名 ウラナラ氏(生家)
アイシンギョロ(愛新覚羅)氏(婚家)
父親 マンタイ(満泰)
母親 ウラ外姑
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生涯

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親族的背景

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万暦年間

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万暦29年(1601年)の11月か12月に、ウラナラ氏出身のアバハイは叔父ブジャンタイのはからいにより、後金の太祖ヌルハチと結婚し、複数の妻のうちの一人となった[注釈 1]。満11歳であった。ヌルハチより31歳年下であった。1603年10月31日孝慈高皇后[注釈 2]の死後、ウラナラ夫人アバハイはヌルハチの第一夫人に昇格した[注釈 3]。彼女は1605年8月28日にヌルハチの12番目の息子アジゲ中国語版を、1612年11月17日に14番目の息子ドルゴンを、そして1614年4月2日に15番目の息子ドド中国語版を出産した。

天命年間

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後金天命5年(1620年)、礼親王ダイシャン中国語版[注釈 4]との微妙な関係をヌルハチに伝える者があり、それを機に収賄の嫌疑も受け、それ以降ヌルハチはアバハイを「裏切り者で偽善的である」と非難して第一夫人の地位を廃し、共に暮らすこともなくなったという。ただし、彼女の子アジゲ、ドルゴン、ドドはのちにヌルハチ直属の両黄旗を相続している[1]。アバハイがヌルハチの愛妻であったことは、このことからも疑いえないとする見方がある[1]

天命11年8月11日(1626年9月30日)、夫ヌルハチが没し、翌8月12日(1626年10月1日)、アバハイはヌルハチに殉死した[注釈 5]。当時の記録には、ホンタイジを含む義理の息子たちによって殉死を余儀なくされたと記している[注釈 6]。これについて、次のように伝えている[1]

(大妃は)容姿秀麗なるも心根悪しく、ハンをつねに嘆き怨ませていた。いかに奸智に長け口先が巧みであろうと、ハンの英明に遮られて過ごした。太祖ゲンギェン=ハンはその妃の様子を知って、後に残せば国政に乱れとなりはしまいかと、ハンはその身が崩じた後、必ず殉じさせよと予め書を作り、ベイレらに与えておいた。衆ベイレは太祖ゲンギェン=ハンの遺書の言をもって大妃に「ハンなる父は、妃なる母は必ず殉じよと言っていた」と人を遣るので、大妃はその言に「我は従わぬ」と言い抜けても、衆ベイレの言うには「母よ、汝が辞退したとて、我らは(この世に)留めはしない」ときっぱり言うので、妃は朝服を着て金・東珠で身を飾り、衆ベイレに向かって泣きつつ言うには「我はハンなる夫に十二歳にして連れ添い、珍奇な衣を着、種々の糧を食べ、二十六年過ごして離れ難いので殉ずる。我が二人の幼子ドルゴン、ドドをよろしく慈しみ養え」と言った後、衆ベイレは皆ともども泣きつつ答えるには「我らが二人の幼弟を慈しまぬなら、ハンなる父を忘れたということであるぞ。慈しまない道理があろうか」と言った後、それから大妃は十二日に、辛亥の日の辰の刻に殉じた。三十七歳であった[1]

この記述について東洋史学者増井寛也は、諸文献を検討するとアバハイを取り囲む客観的状況は、彼女は殉死を志願する要件をむしろ満たしており、そこに際だった違和感はなく、逆にもし、殉死が強要されたものであったなら、彼女は婢妾も同然の屈辱的で非礼な扱いを甘んじて受けたことになり、不自然であると指摘している[1][注釈 7]

順治年間

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順治帝治世の初期、アバハイの息子ドルゴンは未成年の皇帝の摂政を務めた。順治7年(1650年)、ウラナラ夫人は「孝烈武皇后」に昇格したが、ドルゴン死後の順治10年(1653年)、順治帝はウラナラ夫人アバハイの死後の称号を取り消した。

称号

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  • 万暦帝(在位:1572 - 1620)の治世中:
  • 順治帝(在位:1643 - 1661)の治世中:

男子

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映画・テレビドラマにおけるアバハイ

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年份 影视剧名称 演员
1986 ヌルハチ中国語版 傅藝偉中国語版
1987 満清十三皇朝中国語版 黎燕珊中国語版
1989 庄妃軼事中国語版 蔡隐珠
1992 一代皇后大玉兒中国語版 孔蘭薫
2003 孝庄秘史中国語版 斯琴高娃
2005 太祖秘史中国語版 程莉莎中国語版
2005 明末風雲 周躍芳
2005 大清風雲中国語版 陶慧敏中国語版
2015 大玉児伝奇中国語版 惠英紅
2017 独歩天下中国語版 陳欣予中国語版

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時、満洲貴族は一夫多妻制(蓄妾制)であり、親王や郡王の妻は一律に福晋中国語版と呼ばれた。
  2. ^ 葉赫那拉氏出身
  3. ^ 清史稿』の記述による。後世の編纂による『愛新覚羅宗譜中国語版星源集慶』も同様の見解である。
  4. ^ ヌルハチの次男、代善
  5. ^ 女真族のあいだでは殉死の風習が広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4名の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にもアバハイと2人の側室が殉死した[2]。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されず、彼の死去の際には近侍2名が殉死した[2]康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の霊魂を祭ることとなった[2]
  6. ^ 当時の4大ベイレはダイシャン、アミン中国語版マングルタイ中国語版、ホンタイジの4人であった。
  7. ^ 『太祖武皇帝実録』収載のアバハイ殉死記事に酷似した記録があり、これをもってアバハイの殉死が周囲から強制されたものであったことを補強、『絶域紀略』の殉死にまつわる記録が女に対するものであることを考慮すると、まるでアバハイのものであるかのようにみられ、アバハイをそこに看取することができる[1]。女真の人びとにとって、感謝の気持ちの対象となったのである[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 増井寛也ヌルハチ大妃ウラ=ナラ氏〈殉死〉考略」『立命館東洋史學』第37、立命館東洋史學會、2014年7月、doi:10.34382/00006205ISSN 1345-10732022年9月25日閲覧 
  2. ^ a b c 李鴻彬・劉小萌(1996)pp.175-180

参考書籍

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