大柳英雄
日本の騎手 (1934-1955)
大柳 英雄(おおやなぎ ひでお、1934年1月15日 - 1955年12月24日)は、日本の元騎手。
大柳 英雄 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 北海道苫前郡羽幌町 |
生年月日 | 1934年1月15日 |
死没 | 1955年12月24日(21歳没) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会 |
所属厩舎 | 清水茂次 |
初免許年 | 1954年 |
免許区分 | 平地・障害 |
騎手引退日 | 1955年 |
重賞勝利 | 1 |
通算勝利 |
333戦64勝 (平地48勝、障害16勝) |
略歴
編集北海道苫前郡羽幌町出身。上村大治郎厩舎に見習騎手として入り、短期騎手講習を3回受講し[1]、後に清水茂次厩舎に移って1954年に騎手免許を取得した。
騎手デビュー戦は昭和29年第2回京都競馬2日目(1954年3月21日)の第7競走にてツルマツに騎乗し、7着であった[1]。初年度は64戦7勝に終わったが、デビュー2年目の1955年に頭角を現し、トサモアーでの阪神3歳ステークス勝利を含む、平地42勝、障害15勝の合計57勝を挙げ、若手の成長株となった。
しかし、12月24日の阪神競馬場(第4回阪神競馬第7日第6競走)でのアラブ障碍特別(2,600m、ハンデキャップ戦)でフライヤー(初勝利を挙げた馬でもあった)に騎乗してのレース中、襷コースに入って最初の障害(生籬障害)を飛越の際、着地時に蹉跌転倒して落馬、直ちに救護室に運ばれたが、頭蓋骨骨折による脳内出血により、まもなく息を引き取った[2]。
大柳の葬儀は、日本中央競馬会葬として、1955年12月27日に阪神競馬場で執り行われた[1]。
この年の最終的なリーディング順位は全国7位、連対率は0.374に達していた。
戦績
編集- 通算333戦64勝利
- 平地:48勝
- 障害:16勝