後ウマイヤ朝
- 後ウマイヤ朝
- الخلافة الأموية في الأندلس
-
←
←756年 - 1031年 →
後ウマイヤ朝の領域-
公用語 アラビア語 首都 コルドバ - アミール
-
756年 - 788年 アブド・アッラフマーン1世 - カリフ
-
1027年 - 1031年 ヒシャーム3世 - 変遷
-
建国 756年 アブド・アッラフマーン3世がカリフに即位 929年 滅亡 1031年
後ウマイヤ朝(こうウマイヤちょう、756年 - 1031年)は、イベリア半島に興ったウマイヤ朝の再興王朝。756年から1031年までの24代 (19人)の君主のうち16人がウマイヤ家出身であったため、日本では中国史の用語法を借用して[1]後ウマイヤ朝と通称される[2]。この呼称は日本だけの慣用であり[3]、史料ではアンダルスのウマイヤ朝[4]、コルドバのウマイヤ朝[3][4]などと呼ばれる。カリフ称号を用いた929年から1031年までについては、コルドバ・カリフ国 (Caliphate of Córdoba) 、西カリフ国、西カリフ帝国とも呼ばれる。
歴史
編集ウマイヤ朝の再興
編集750年のアッバース革命でアッバース朝がウマイヤ朝を滅ぼすと、アッバース朝の残党狩りは執拗を極めた。ただ一人生き残ったウマイヤ家の王族アブド・アッラフマーン1世は身につけていた貴金属を逃走資金に変え、アフリカ大陸に入りアフリカ西北部のベルベル人に保護された。彼の母親はベルベル人であり、その容姿を受け継ぎ、金髪で瞳が緑色であった彼はベルベル人に温かく迎えられたばかりか、ウマイヤ朝再興の足がかりを築くことができた。彼はジブラルタル海峡を越えてアンダルスに逃れ、756年にムサラの戦いに勝利してコルドバにウマイヤ朝を再興した。
アブド・アッラフマーン2世(在位:822年 - 852年)の治世には、バグダードからコルドバの宮廷によばれたズィルヤーブはウードの演奏や歌手として名声を博し、バグダードの優雅な文化をコルドバにもたらした。彼がもたらしたものは、例えば、フランス料理の原型となった料理コース、ガラス製の酒杯、衣服を季節ごとに着替える習慣、髪の手入れ、白髪抜き、歯磨きの使い方などである。
コルドバは洗練した文化の都ともなり、クリスタル・ガラスの製法は9世紀後半にコルドバで生まれ、金銀細工の技術も発達した。
アッバース朝に匹敵する繁栄
編集8代目のアミール・アブド・アッラフマーン3世の統治の下で後ウマイヤ朝は経済的発展を成し遂げた。929年にアブド・アッラフマーン3世はカリフを称し、イスラム世界ではアッバース朝と後ウマイヤ朝の二人のカリフが並立することになった。アブド・アッラフマーン3世とその息子ハカム2世の下で文化的な発展を経て、後ウマイヤ朝はアッバース朝に匹敵するほどの繁栄の時代に達した。10世紀の地理学者イブン・ハウカルは、当時(アブド・アッラフマーン3世治世期)のコルドバはバグダードには敵わなかったが、エジプト、シリア、マグリブのどの都市よりも大きかったと伝えている。10世紀のコルドバは世界でも有数の大都会であり、史料によると人口は50万を下らなかったと推測されており、西欧で最大の都市であった。10世紀半ば、コルドバの西北7キロメートルの小高い丘にザフラー宮殿(花の宮殿の意味)が建造され、大理石だけでも4000本が使われ、宮中には40万巻の書籍が集められた。統治下で、さまざまな宗教や民族が共存しえたことは、この王朝の繁栄に大きな貢献をもたらした。
続くヒシャーム2世(在位:976年 - 1009年/1010年 - 1013年)の時代には、宰相でかつ名将であったアル・マンスール・ビッ・ラーヒ(アラビア語: المنصور بالله al-Manṣūr bi-llah、スペイン語: Almanzor)が、985年にカタルーニャまで攻め込み、997年にはガリシアの一部まで占領する勢いを示した。
一部のキリスト教徒は移住したが、大部分はイスラムの支配下で信仰の自由を許されて暮らした。ユダヤ教徒も、西ゴート王国時代には冷酷な扱いを受けることが多かったが、イスラム支配下では自由と繁栄を享受した。また、イスラム文明が極めて高度な文明であったので、それを土着のイベリア人が進んで受け入れたことも、安定した社会構造を形成した理由だろう。
衰退から滅亡へ
編集アル・マンスール・ビッ・ラーヒが1002年に死ぬと、息子たちの宰相位争いや、アラブ系の豪族とベルベル系の豪族によるカリフ位の擁立合戦、継承争いで29年の間に10人のカリフが即位するという内憂によって衰退し、アラゴン王国・カスティーリャ王国に圧迫されるという外患(レコンキスタ)の末、1031年に最後のカリフ、ヒシャーム3世の廃位、追放が大臣たちによる「評議会」によって決定されて滅亡した。
影響
編集追放されたヒシャーム3世は、トゥデラの太守であったフード家のスライマーン・イブン・フードによって庇護され、レリダに住まいし1036年に死亡した[5]。以後は、各地の豪族たちが独立し、26とも30とも言われるタイファと呼ばれる諸侯たちとなって分裂割拠する時代となる。
歴代アミール
編集アミール | 在位 |
---|---|
アブド・アッラフマーン1世 | 756年5月15日 – 788年9月30日 |
ヒシャーム1世 | 788年10月6日 – 796年4月16日 |
ハカム1世 | 796年6月12日 – 822年5月21日 |
アブド・アッラフマーン2世 | 822年5月21日 – 852年 |
ムハンマド1世 | 852年 – 886年 |
ムンジル | 886年 – 888年 |
アブド・アッラー | 888年 – 912年10月15日 |
アブド・アッラフマーン3世 | 912年10月16日 – 929年1月16日 |
歴代カリフ
編集コルドバのカリフ | |
後ウマイヤ朝のカリフ | |
カリフ | 在位 |
---|---|
アブド・アッラフマーン3世 | 929年1月16日 - 961年10月15日 |
ハカム2世 | 961年10月15日 - 976年10月16日 |
ヒシャーム2世 | 976年10月16日 - 1009年 |
ムハンマド2世 | 1009年 |
スライマーン | 1009年 - 1010年 |
ヒシャーム2世 | 1010年 - 1013年4月19日 |
スライマーン | 1013年 - 1016年 |
アブド・アッラフマーン4世 | 1017年 |
ハンムード朝のカリフ | |
アリー・イブン・ハンムード・アル=ナースィル | 1016年 - 1018年 |
カースィム・マアムーン・ブン・ハンムード | 1018年 - 1021年 |
ヤフヤー・アル=ムタリ | 1021年 - 1023年 |
カースィム・マアムーン・ブン・ハンムード | 1023年 |
後ウマイヤ朝のカリフ (再興) | |
アブド・アッラフマーン5世 | 1023年 - 1024年 |
ムハンマド3世 | 1024年 - 1025年 |
ハンムード朝のカリフ (空位時代) | |
ヤフヤー・アル=ムタリ | 1025年 - 1026年 |
後ウマイヤ朝のカリフ (再興) | |
ヒシャーム3世 | 1026年 - 1031年 |
滅亡 |
系図
編集Aはアミール、Cはカリフ。
アブド・アッラフマーン1世A1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヒシャーム1世A2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハカム1世A3 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アブド・アッラフマーン2世A4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムハンマド1世A5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムンジルA6 | アブドゥッラーA7 | オネカ (パンプローナ王フォルトゥン・ガルセス娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムハンマド | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アブド・アッラフマーン3世C1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハカム2世C2 | アブドゥル・ジャバール | スライマーン | アブドゥル・マリク | ウバイド・アッラーフ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヒシャーム2世C3 | ヒシャーム | アル・ハカム | ムハンマド | アブド・アッラフマーン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムハンマド2世C4 | アブド・アッラフマーン5世C7 | スライマーンC5 | アブド・アッラフマーン4世C6 | ムハンマド3世C8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヒシャーム3世C9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ 佐藤健太郎「イスラーム期のスペイン」関哲行・立石博高・中塚次郎編『スペイン史 1-古代~近世―〈世界歴史大系〉』山川出版社、2008年7月31日 1版第1刷発行、ISBN 978-4-634-46204-5、133頁。
- ^ 花田宇秋「こうウマイヤちょう 後ウマイヤ朝」『世界大百科事典 20 ケマ―コウヒ』平凡社、2007年9月1日 改訂新版発行、253頁。
- ^ a b 嶋田襄平「歴史の中のイスラム教徒―イスラム帝国の分裂―カリフの鼎立」『新イスラム事典』2002年3月11日 初版第1刷発行、ISBN 4-582-12633-2、21頁。
- ^ a b 私市正年「後ウマイヤ朝」『日本大百科全書 20 け―こうの』小学館、1989年7月1日 初版第六刷発行、ISBN 4-09-526008-4、522~523頁。
- ^ 余部 (1992)、p.185
参考文献
編集- 余部福三『アラブとしてのスペイン』第三書館、1992年。ISBN 4-8074-9216-0。
- マリア・ロサ・メノカル 『寛容の文化―ムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒の中世スペイン』 足立孝訳、名古屋大学出版会、2005年
- 佐藤次高、鈴木董・編 『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』 講談社現代新書、1993年
- 島崎晋 『目からウロコの世界史』 PHP文庫、2006年