徳川斉敦
一橋徳川家3代。徳川治済の六男。従三位・左近衛権中将、民部卿、参議贈権中納言
徳川 斉敦(とくがわ なりあつ)は、江戸時代後期の武士。御三卿の一つである一橋家第3代当主。
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 安永9年11月21日(1780年12月16日) |
死没 | 文化13年9月4日(1816年10月24日) |
改名 | 好之助(幼名)、斉敦 |
戒名 | 厳恭院 |
官位 |
従三位・左近衛権中将、民部卿 参議贈権中納言 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 一橋徳川家 |
父母 | 父:徳川治済、母:於富(岩本氏、慈徳院) |
兄弟 |
家斉、治国、黒田斉隆、雄之助、斉匡、 斉敦、松平義居、久之助、本之丞 |
妻 | 正室:二条治孝の娘・二条保子 |
子 |
備千代、斉礼、信之助、 幹姫(有馬頼徳正室)、 英姫(島津斉彬正室)、国子(奥平昌暢正室) |
生涯
編集安永9年(1780年)11月21日、第2代当主・治済の六男として生まれる。寛政5年(1793年)4月8日に一橋家の世子だった兄・治国が死去したため、同年6月6日に代わって世子となる。同日に元服し、兄の第11代将軍・家斉から偏諱を受けて斉敦と名乗り、従三位・左近衛権中将兼民部卿に叙任される。
寛政10年(1798年)11月23日に左大臣二条治孝の娘・保子と婚姻する。寛政11年(1799年)1月27日に父・治済の隠居を受けて家督を相続する。文化5年(1808年)12月1日に参議に任じられた。
文化13年(1816年)9月4日に死去した。享年37。法号は厳恭院。文政5年(1822年)8月9日に権中納言が追贈された。跡を次男・斉礼が継いだ。
趣味は絵画で、その作品が今も現存している。
家族
編集- 正室:二条保子(?- 享和3年4月26日(1803年6月15日))
- 長男:備千代(享和3年4月24日(1803年6月13日)- 文化元年6月20日(1804年7月26日))
- 側室:野尻氏お美須(?- 天保14年6月22日(1843年7月19日))
- 次男:徳川斉礼(享和3年10月3日(1803年11月16日)- 文政13年6月19日(1830年8月7日))- 一橋家第4代当主
- 側室:中川氏(? - ?)
- 三男:信之助(文化10年7月19日(1813年8月14日)- 文化11年9月5日(1814年10月17日))
- 生母が不明の子女
- 長女:樹姫(寛政10年3月21日(1798年5月6日)- 寛政11年4月12日(1799年5月16日))
- 次女:幹姫(享和元年6月9日(1801年7月19日)- 文政7年9月7日(1824年10月28日))- 有馬頼徳正室
- 三女:英姫(文化2年1月23日(1805年2月22日)- 安政5年9月10日(1858年10月16日)) - 島津斉彬正室
- 四女:吉姫(文化3年8月11日(1806年9月22日)- 文化4年6月4日(1807年7月9日))
- 五女:榮姫(文化8年11月13日(1811年12月28日)- ?)- 奥平昌暢正室
- 六女:直姫(文化11年10月30日(1814年12月11日)- 文化12年2月5日(1815年3月15日))
出典
編集- 『徳川諸家系譜3』
外部リンク
編集- 一橋徳川家記念室展示 茨城県立歴史館