放光寺 (甲州市)
放光寺(ほうこうじ)は、山梨県甲州市塩山藤木にある寺院。山号は高橋山。真言宗智山派に属する。本尊は金剛界大日如来。
放光寺 | |
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山門 | |
所在地 | 山梨県甲州市塩山藤木2438 |
位置 | 北緯35度44分3.9秒 東経138度42分49.2秒 / 北緯35.734417度 東経138.713667度座標: 北緯35度44分3.9秒 東経138度42分49.2秒 / 北緯35.734417度 東経138.713667度 |
山号 | 高橋山 |
院号 | 多聞院(前身) |
宗旨 |
新義真言宗 天台宗(前身) |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 大日如来 |
創建年 | 寿永3年(1184年) |
開基 | 安田義定、賀賢(開山) |
正式名 | 高橋山放光密寺 |
別称 | 高橋山多聞院法光寺(前身) |
札所等 |
甲斐百八霊場8番 甲州東郡七福神(大黒天) |
文化財 |
金剛界大日如来坐像、木造不動明王立像ほか(重要文化財) 銅鐘・紙本墨書大般若経(県指定文化財) |
法人番号 | 5090005003910 |
沿革
編集『甲斐国志』に拠れば、放光寺の前身は山岳仏教の盛んな平安時代に大菩薩山麓の一ノ瀬高橋に建立されていた天台宗寺院・高橋山多聞院法光寺であるという。平安後期には甲斐源氏の一族である安田義定(遠江守)が牧荘や八幡荘を本拠とし、寿永3年(1184年)に法光寺は義定の屋敷地に近い山梨郡藤木郷へと移転され、安田氏の菩提寺としたという。開山は賀賢上人。
『吾妻鏡』に拠れば、義定は反逆の疑いで建久5年(1194年)8月19日に梟首されているが、『鎌倉大草紙』に拠れば義定は当寺で自害したとされる。『甲斐国志』によれば、放光寺が所蔵する義定位牌にも「法光大禅定門」と記載される。
建久2年(1191年)に義定が寄進した梵鐘銘に拠ればこの頃には「法光寺」表記であり(『国志』)、「放光寺」表記の初見は戦国期の天文17年(1548年)の寺領証文において見られる。
弘治元年(1555年)12月には、武田晴信(信玄)による藤木郷の棟別改めが行われ、この時に諸役免除の庇護を受けている。永禄11年(1568年)3月、武田氏が越後侵攻を行った際には放光寺のほか慈眼寺(笛吹市一宮町末木)、法善寺(南アルプス市加賀美)はじめ11か寺に戦勝祈願を行わせている。
『甲斐国志』によれば、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、この時に放光寺本堂も焼失している。同年6月の甲斐・信濃を巡る天正壬午の乱を経て甲斐は三河国の徳川家康が領し、『甲斐国志』によれば放光寺は家康の庇護を受け、寺領として小曽郷を安堵されている。天正17年(1589年)には徳川家臣・伊奈忠次による検知が行われ(『放光寺文書』)、恵林寺郷にも寺領を与えられている。豊臣政権時代には、慶長3年(1598年)には浅野幸長から禁制を受けている。
江戸時代初期の慶長8年(1603年)には御屋敷内への寺領寄進が行われており(『同前』)、寛文年間(1661年 – 1673年)には幕府作事奉行保田宗雪(若狭守)により本堂再建が行われ、寛文19年(1642年)に将軍徳川家光から朱印地として賜り安堵された。保田宗雪は中興開祖と位置づけられている。
江戸期には甲斐国談林7か寺に数えられ、藤木村の龍光院のほか徳和村の吉祥寺(山梨市三富徳和)、下小和田村の福蔵院(甲州市塩山下小田原)、室伏村の円照寺(山梨市牧丘町室伏)などの7寺の門徒寺を抱えた。山内には12坊を擁していたが、文化年間(1804年 – 1818年)には廃絶している(『国志』)。『本末帳集成』に拠れば延宝年間(1673年 – 1681年)に山城国醍醐寺報恩院末となり、明治27年(1894年)に智山派に改めている。
文化財
編集重要文化財
編集- 木造大日如来坐像
- 木造不動明王立像
- 平安時代の不動明王像。平安後期に多く作られた十九観様の像。
- 木造愛染明王坐像
- 木造金剛力士立像
- 鎌倉時代(12世紀)の金剛力士像[2]。木造・檜材の寄木造[2]。彩色[2]。像高は阿形像が263.0センチメートル・吽形像は264.0センチメートル[2]。仁王門に安置される[2]。
- 放光寺が創建された元暦元年(1184年)頃の造立と考えられている[2]。本像は大仏師・成朝の作と考えられている[2]『吾妻鏡』によれば、成朝は文治元年(1185年)5月から10月にかけて源頼朝の依頼で鎌倉の勝長寿院の本尊である阿弥陀像を建立し、少なくても翌文治2年(1186年)3月までは東国(鎌倉もしくはその近辺)にいたことが判明するため、その時期に造立したのではないかとする説もある[3]。頭体幹部は中心線に沿って四材を矧ぐ寄木造とし、内刳りを施す。阿形・吽形両像とも上半身、腕、脚などの筋肉の表現を強調し、腰を外側に引き内側の足を踏み出す典型的な仁王像であるが、鬢髪を束ねて髷を結い、両耳前にもみあげが表現されているところが特色であり、奈良県の東大寺戒壇厨子扉絵の仁王像吽形に類似することが指摘される[2]。
山梨県指定有形文化財
編集甲州市指定文化財
編集- 毘沙門天立像
- 平安後期・鎌倉期の毘沙門天像。像高は147.8センチメートル。毘沙門堂に開祖像として安置されており、『甲斐国志』によれば安田義定に関係する像であるとされる。
- 甲冑姿で別材の兜が付けられている。左手は掲げられているが持物は亡失しており、右手は垂下して逆手で宝棒を持っている。全体が鮮やかに彩色されており、江戸時代の寛文5年(1665年)に施されたという。
その他
編集放光寺にはまた、嘉永5年(1852年)に浄土宗の僧・養鸕徹定(うがいてつじょう)により模写が行われた法隆寺金堂壁画(法隆寺金堂壁画阿弥陀浄土図模写」が所蔵されている。徹定は嘉永5年に法隆寺古写経の調査を行い、阿弥陀浄土図の模写を行っている(「法隆寺金堂壁画佛像記」)。
放光寺所蔵模写の裏書によれば、徹定は放光寺へ川上冬崖「五百羅漢像」の寄進を行った山梨郡中萩原村(甲州市塩山中萩原)出身の幕臣・真下晩菘(ましたばんすう)の発願に感銘し、慶応3年(1867年)に放光寺へ模写を寄贈したという。晩菘は幕末期に蕃書調所勤番を務め、冬崖は同所画図調役を務めている縁がある。
放光寺所蔵の壁画模写は現存する最古の模写として注目されており、敷き写しの手法により原画の欠損部分も復元して描かれている。