木村荘十二
日本の映画監督
木村 荘十二(きむら そとじ、1903年9月4日 - 1988年8月10日)は東京府出身の映画監督。
きむら そとじ 木村 荘十二 | |
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世界映画社『日本映画』第2号(1953)より | |
本名 | 木村 荘十二 |
生年月日 | 1903年9月4日 |
没年月日 | 1988年8月10日(84歳没) |
出生地 | 東京府東京市芝区三田四国町(現・東京都港区芝) |
職業 | 映画監督・脚本家 |
著名な家族 |
木村荘平(父) 木村曙(姉) 木村荘太(兄) 木村マリニー(兄) 木村荘八(兄) 木村荘十(兄) |
人物
編集牛鍋チェーン店"いろは"経営者木村荘平の正妻の十二男として、東京市芝区三田四国町(現在の東京都港区芝)の"いろは"本店に生まれる。幼くして父を亡くし、4歳から二代目木村荘平夫妻に育てられる。小学校卒業後、奉公に出されたが、異母兄木村荘五に引き取られて教育を受け、荘五と共に新しき村に参加。
1924年に映画界入りを果たし、1930年『百姓万歳』で映画監督デビュー。1932年、新興キネマをストライキで解雇される。
1933年、自らの独立プロダクション音画芸術研究所とピー・シー・エル映画製作所(東宝の前身)の提携で、社会派映画『河向ふの青春』を作る。
以後はPCLに所属。軽喜劇『音楽喜劇 ほろよひ人生』(1933年)などを経て、1936年、室生犀星原作の『兄いもうと』や三好十郎原作の『彦六大いに笑ふ』で進境を示し、PCLの代表的監督と目されるに至った。
1941年、満洲映画協会に移り、当地で敗戦を迎える。戦後も大陸に残って中華人民共和国の文化工作に協力。1953年に帰国してからは、『森は生きている』(1956年)など児童映画や反核映画を作り、日本共産党に入党した。
異母姉木村曙や異母兄木村荘太、異母弟木村荘十はいずれも作家。異母兄木村荘八は画家。
妻は木村静江。1970年代以降は東京都江東区大島在住。地域の子供向けに、定期的に映画上映会を開催した。
監督作品
編集- 百姓万歳(1930年)
- 都会病患者(1931年)
- 沈黙の愛(1931年)
- 故郷(1931年)
- 陽気な食客(1932年)
- 笑ふ父(1932年)
- 河向ふの青春(1933年)
- 音楽喜劇 ほろよひ人生(1933年)
- 純情の都(1933年)
- 只野凡児 人生勉強(1934年)
- さくら音頭 涙の母(1934年)
- 続・只野凡児(1934年)
- エノケンの魔術師(1934年)
- 放浪記(1935年)
- 三色旗ビルディング(1935年)
- 都会の怪異七時三分(1935年)
- 女軍突撃隊(1936年)
- 魔術の女王(1936年)
- 兄いもうと(1936年)
- 母なればこそ(1936年)
- 彦六大いに笑ふ(1936年)
- からゆきさん(1937年)
- 日本女性読本(1937年)
- 新選組(1937年)
- 牧場物語(1938年)
- 揚子江艦隊(1939年)
- 海軍爆撃隊(1940年)
- 蘇少妹(1945年)
- 森は生きている(1956年)
- 長崎の子(1956年)
- うなぎとり(1957年)
- 千羽鶴(1958年)
- お母さんの幸福(1958年)
- 海ッ子山ッ子(1959年)
- 海の恋人たち(1960年)
- 暴れん坊大将(1960年)
- 未来につながる子ら(1962年)
外部リンク
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