林忠英
林 忠英(はやし ただふさ)は、江戸時代後期の旗本、譜代大名。将軍徳川家斉の寵臣として若年寄にすすみ、上総貝淵藩の初代藩主となった。
林忠英像(個人蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 明和2年4月29日(1765年6月17日) |
死没 | 弘化2年5月8日(1845年6月12日) |
改名 | 藤助(幼名)、忠勝(別名)→忠英 |
墓所 | 東京都港区愛宕の青松寺 |
官位 | 従五位下、出羽守、筑前守、肥後守 |
幕府 | 江戸幕府 若年寄、ほか |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 上総国貝淵藩主 |
氏族 | 林氏 |
父母 |
父:林忠篤 母:植村恒朝の娘(水野勝前の養女) |
兄弟 | 忠英、奥山良恭 |
妻 | 正室:神保茂清の娘 |
子 | 忠起、忠旭、忠交、娘(中野晴茂養女) |
生涯
編集明和2年(1765年)、旗本・林忠篤(3000石)の長男として生まれる。天明元年(1781年)4月、小納戸。天明7年(1787年)に第11代将軍に就任した家斉の寵愛を受けて小姓役を務めた。寛政元年(1789年)、従五位下出羽守に叙任。
寛政8年(1796年)7月3日に家督を相続する。寛政9年(1797年)2月に小姓頭取、享和元年(1801年)には小姓番組頭格・御用取次見習、文化元年(1804年)に御側御用取次など、数々の幕府要職を歴任した。文化10年(1813年)12月に1000石、さらに文政5年(1822年)3月には3000石を加増される。
文政8年(1825年)4月には若年寄、勝手掛・表大奥に任じられ、新たに3000石を加増されて計1万石を領し大名に列した。天保5年(1834年)12月に3000石、天保10年(1839年)3月には江戸城修築などの功により5000石を加増され、計1万8000石を領する。しかし、天保12年(1841年)1月に将軍家斉が死去すると、第12代将軍家慶や老中水野忠邦の粛清を受け、4月17日に8000石召し上げ、さらに若年寄を罷免されて失脚した。同年7月には、老齢を理由に強制隠居となり、家督を次男の忠旭に譲った。
弘化2年(1845年)5月8日に死去した。享年81。
系譜
編集父母
正室
- 神保茂清の娘
子女
関連項目
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