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鈴木 東民(すずき とうみん、1895年〈明治28年〉6月25日 - 1979年〈昭和54年〉12月14日)は、日本のジャーナリスト労働運動家政治家岩手県出身。

生涯

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1920年に第二高等学校を卒業[1]後、東京帝国大学経済学部に進み、卒業する。1923年(大正12年)に大阪朝日新聞に入社するが、日本電報通信社 (電通の前身、通信社) の海外留学生募集に応じて1926年(大正15年)に同社のベルリン特派員として渡独[2]。帰国後、1935年(昭和10年)に読売新聞社へ移り、読売新聞の外報部長兼編集委員を務めた[3]。反ナチスの論陣を張り、当時の駐日ドイツ大使オイゲン・オットから危険視されて休職。郷里の岩手県に帰郷した。

第二次世界大戦の終戦と同時に上京し、読売新聞社に復帰。社内改革を目指して正力松太郎社長など幹部の退陣を要求したが、反撃を受け解雇されたため従業員組合を結成。組合長として第1次読売争議を指導。この後、正力がA級戦犯容疑者に指名され、巣鴨拘置所に収監されたゆえ、鈴木の解雇は撤回された。

読売新聞編集局長に就任したが、1946年(昭和21年)6月にGHQの勧告により再び解雇。第2次読売争議を指導したが、敗北した。

その後、自由懇話会理事長や民主主義擁護同盟常任委員を務める。日本共産党に入党し、衆院選や参院選に出馬したが落選、その後離党し、労働者農民党に移籍。1955年(昭和30年)に釜石市長に当選。1967年(昭和42年)の落選まで3期務めた。落選直後に釜石市議選に出馬し、市議を1期務めた。市長在職中の1958年に、市内を流れる甲子川上に日本で唯一無二の橋上市場(→橋#特殊な動線による分類)を建設した。

エピソード

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  • 在京中の1921年、宗教上の対立で実家から家出同然に上京していた宮沢賢治と同じ謄写版印刷の職場に在籍していたことがあり、戦後になって当時の様子を「筆耕のころの賢治」[4]として記している。

脚注

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  1. ^ 第二高等学校編『第二高等学校一覧 自大正9年至大正10年』第二高等学校、1920年、p.285
  2. ^ 鎌田慧『反骨 鈴木東民の生涯』(1989年、講談社)115頁
  3. ^ 法廷証番号150: 鈴木東民(読売新聞記者)宣誓供述書(GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section = 連合国最高司令官総司令部国際検察局文書 ; Entry No.327 Court Exhibits in English and Japanese, IPS, 1945-47)”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2017年7月3日閲覧。
  4. ^ 『宮澤賢治全集』(1958年、筑摩書房)別巻『宮澤賢治研究』

参考文献

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  • 鎌田慧『反骨 鈴木東民の生涯』(1989年、講談社) ISBN 4062038145
    • 鎌田慧『反骨のジャーナリスト市長 鈴木東民の闘争』(2012年、七つ森書館)