「セリム2世」の版間の差分
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'''セリム2世'''([[1524年]]-[[1574年]])は、[[オスマン朝]]の第11代[[スルタン]]。第10代スルタン・[[スレイマン1世]](大帝)の子(在位:[[1566年]]-1574年)。 |
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1566年、父・スレイマン1世が[[ハンガリー]]遠征中に陣没したため、父の晩年における政争で唯一生き残っていたセリム2世が、その後を継いでスルタンとして即位した。しかし軍事においても政治においても優秀であったスレイマン1世と較べるとまではいかなくても、彼は酒に溺れる無能な人物で、『泥酔者』とまで蔑まれた。だが、無能なセリム2世に代わって名宰相である[[ソコ |
1566年、父・スレイマン1世が[[ハンガリー王国|ハンガリー]]遠征中に陣没したため、父の晩年における政争で唯一生き残っていたセリム2世が、その後を継いでスルタンとして即位した。しかし軍事においても政治においても優秀であったスレイマン1世と較べるとまではいかなくても、彼は[[酒]]に溺れる無能な人物で、『泥酔者』とまで蔑まれた。だが、無能なセリム2世に代わって名宰相である[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が政治を取り仕切ったため、国内政治が乱れることは無かった。 |
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しかし、大帝と恐れられた父の死と、無能なセリム2世が後を継いだことは、ヨーロッパ諸国に大きな反攻の契機を与えた。それが[[1571年]]、 |
しかし、大帝と恐れられた父の死と、無能なセリム2世が後を継いだことは、[[ヨーロッパ]]諸国に大きな反攻の契機を与えた。それが[[1571年]]、オスマン海軍がコリント湾内で[[スペイン]]の艦隊に大敗するという結果で現れたのである([[レパントの海戦]])。このとき、セリム2世は「この敗戦など痛くも痒くもない。異教徒が我が国の髭を焼いたに過ぎぬ」とうそぶいたと言われているが、確かにその後も帝国の[[大国]]としての勢威や、ヨーロッパ諸国に対する優位は揺るがなかった。オスマン艦隊は直ぐに再建され、1572年に[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]から[[キプロス島]]を割譲したほどである。しかしこの[[海戦]]の敗退は、オスマン帝国の動揺を現す端緒になったのも確かであった。スレイマン1世の後、有能なスルタンは殆ど現われなくなり、後の帝国衰退の原因もこのセリム2世の時代に始まったとも言える。父スレイマン1世は、無能なセリムが後継者になることを一番恐れていたが、危惧は現実に帰したのである。この後、帝国の政治は大宰相と[[官僚]]に握られ、スルタンの権威は地に落ち、帝位は飾り物と化した。 |
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1574年、51歳で死去。後を子の[[ムラト3世]]が継いだ。 |
1574年、51歳で死去。後を子の[[ムラト3世]]が継いだ。 |
2005年5月7日 (土) 17:17時点における版
セリム2世(1524年-1574年)は、オスマン朝の第11代スルタン。第10代スルタン・スレイマン1世(大帝)の子(在位:1566年-1574年)。
1566年、父・スレイマン1世がハンガリー遠征中に陣没したため、父の晩年における政争で唯一生き残っていたセリム2世が、その後を継いでスルタンとして即位した。しかし軍事においても政治においても優秀であったスレイマン1世と較べるとまではいかなくても、彼は酒に溺れる無能な人物で、『泥酔者』とまで蔑まれた。だが、無能なセリム2世に代わって名宰相であるソコルル・メフメト・パシャが政治を取り仕切ったため、国内政治が乱れることは無かった。
しかし、大帝と恐れられた父の死と、無能なセリム2世が後を継いだことは、ヨーロッパ諸国に大きな反攻の契機を与えた。それが1571年、オスマン海軍がコリント湾内でスペインの艦隊に大敗するという結果で現れたのである(レパントの海戦)。このとき、セリム2世は「この敗戦など痛くも痒くもない。異教徒が我が国の髭を焼いたに過ぎぬ」とうそぶいたと言われているが、確かにその後も帝国の大国としての勢威や、ヨーロッパ諸国に対する優位は揺るがなかった。オスマン艦隊は直ぐに再建され、1572年にヴェネツィアからキプロス島を割譲したほどである。しかしこの海戦の敗退は、オスマン帝国の動揺を現す端緒になったのも確かであった。スレイマン1世の後、有能なスルタンは殆ど現われなくなり、後の帝国衰退の原因もこのセリム2世の時代に始まったとも言える。父スレイマン1世は、無能なセリムが後継者になることを一番恐れていたが、危惧は現実に帰したのである。この後、帝国の政治は大宰相と官僚に握られ、スルタンの権威は地に落ち、帝位は飾り物と化した。
1574年、51歳で死去。後を子のムラト3世が継いだ。