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「三田藩」の版間の差分

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2006年3月11日 (土) 00:59時点における版

三田藩さんだはん)は摂津国有馬郡三田(現・兵庫県三田市)周辺を領有した。藩庁は当初、三田城のち三田陣屋

略史

三田藩の歴史は山崎片家(堅家)が天正10年(1587年近江国山崎城より三田城2万3千石の領主となったことに始まる。子の家盛慶長6年(1601年因幡国若桜藩に転封となった。

代わって播磨国三木より有馬則頼が2万石で入封した。慶長7年(1602年)則頼が没すると丹波国福知山藩6万石を所領していた嫡男の豊氏に三田2万石が併合され、一時廃藩となった。同時に三田城も破却された。

寛永3年(1626年松平重直出羽国上山藩より3万石で入封し三田藩が再興された。重直は寛永9年(1632年豊後国高田藩に転封となった。

代わって、志摩国鳥羽藩より九鬼久隆が入封し、以後、九鬼氏が明治維新まで統治した。父の守隆の死後、五男の久隆と三男の隆季との間に家督相続が起こった。幕府の仲裁により鳥羽藩旧領5万6千石のうち、久隆が3万6千石を領し、隆季は2万石で丹波国綾部藩2万石を与えられた。九鬼氏は豊後森藩に転封となった久留島氏と同じく、水軍で有名な大名であったが、幕府はこれを封じ込めるべく、内陸の三田に移封させた。

九鬼氏は石高にそぐわない多くの家臣団を召し抱えていたたため、財政は入封早々より行き詰まった。

2代隆昌の時代に藩の機構が整えられた。7代隆由寛保2年(1742年藩校「国光館」を開いた。8代隆邑安永9年(1780年)には増税により農民一揆が起こり、城下の商家数件が打ち壊しに遭った。

特筆すべきは10代藩主隆国である。文化年間(1804年1817年)に江戸城神田橋御門・常盤橋御門番を務めた功績により、天保10年(1839年)に城主格大名に引き上げられた。好学の名君であり文政元年(1818年)藩校である「国光館」を新たに「造士館」として発展させた。また洋学にも関心を示し、幕末に向け三田藩の近代化を推進する素地を開いた中興の祖である。

最後の13代隆義は藩政改革を行い、軍隊を洋式に改めた。慶応3年(1867年)藩論が倒幕に統一され、鳥羽伏見の戦いにおいても洋式軍隊を率い官軍方として参戦した。

明治4年(1871年廃藩置県により三田県となる。その後、兵庫県に編入された。
藩主家は明治17年(1884年子爵となり華族に列した。

歴代藩主

山崎(やまさき)家

外様 23,000石 (1600年~1601年)

  1. 家盛(いえもり)〔従五位下、左馬允〕

有馬(ありま)家

外様 20,000石 (1601年~1602年)

  1. 則頼(のりより)〔従五位下、中務少輔〕

松平〔能見〕(まつだいら〔のみ〕)家

譜代 30,000石 (1626年~1632年)

  1. 重直(しげなお)〔従五位下、丹後守〕

九鬼(くき)家

外様 36,000石 (1632年~1871年)

  1. 久隆(ひさたか)〔従五位下、大和守〕
  2. 隆昌(たかまさ)〔従五位下、長門守〕
  3. 隆律(たかのり)〔従五位下、和泉守〕
  4. 副隆(すえたか)〔従五位下、長門守〕
  5. 隆久(たかひさ)〔従五位下、大和守〕
  6. 隆抵(たかやす)〔従五位下、丹後守〕
  7. 隆由(たかより)〔従五位下、伊勢守〕
  8. 隆邑(たかむら)〔従五位下、長門守〕
  9. 隆張(たかはる)〔従五位下、長門守〕
  10. 隆国(たかくに)〔従五位下、和泉守〕
  11. 隆徳(たかのり)〔従五位下、長門守〕
  12. 精隆(きよたか)〔従五位下、長門守〕
  13. 隆義(たかよし)〔従五位下、長門守〕

関連項目