乳海攪拌
乳海攪拌(にゅうかいかくはん)は、ヒンドゥー教における天地創造神話。
概要
乳海攪拌の物語は、『マハーバーラタ』1・15-17(乳海攪拌)、『バーガヴァタ・プラーナ』、『ヴィシュヌ・プラーナ』[1]、『ラーマーヤナ』[2][注釈 1]などで語られている。
偉大なリシ(賢者)ドゥルヴァーサスは、非常に短気で怒りっぽく、礼を失した者にしばしば呪いをかけた[3] が、丁寧に接する者には親切であった。ある時、人間の王たちが彼から助言を受けるべく地上に招き、美しい花で造った首輪をかけて手厚くもてなしたところ、ドゥルヴァーサスはとても喜び、王と王国を祝福した。その後彼はこの美しい花輪を与えるべくインドラを訪ね、その首にかけて祝福した。インドラたちは彼を丁寧にもてなし滞りなく送り出した。その直後、インドラが乗る象が花輪に興味を示したため何気なく与えた。象が花輪を放り出すところをドゥルヴァーサスが見て激怒し、インドラたち神々に呪いをかけ、神々や三界が享受してきた幸運を奪ってしまった。三界の繁栄は陰り、植物は枯れ、人間の世界は堕落し、神々は力を失った[4]。
この機をとらえてアスラ(阿修羅)が天へ侵攻してきたが、超常の力を失った神々はなすすべがなかった[5][6]。インドラはシヴァ、ブラフマーに助けを求めたがドゥルヴァーサの呪いは彼らにも解けず、彼らはヴィシュヌを訪ねた[6]。ヴィシュヌは、不老不死の霊薬「アムリタ」を飲めば良いと言う。そこで、アムリタを作り出すために乳海攪拌を実行することにした[6][7]。これは神々だけでは不可能な作業でありアスラの協力も必要だった[6][8] ため、神々はアスラと和睦した[5][6]。アムリタを分け合うことを条件にアスラは協力に応じた[6]。
ヴィシュヌは多種多様の植物や種を乳海 (Kṣīra Sāgara) に入れた。続いて、化身巨大亀クールマとなって海に入り[注釈 2]、その背に大マンダラ山を乗せた。山に竜王ヴァースキを絡ませて、神々はヴァースキの尾を、アスラはヴァースキの頭を持ち、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた[7]。海に棲む生物はことごとく磨り潰され、大マンダラ山の木々は燃え上がって山に住む動物たちが死んだ。火を消すべくインドラが山に水をかけたことで、樹木や薬草のエキスが海に流れ込んだ[9]。ヴァースキが苦しんで口からハーラーハラという毒を吐いたが、シヴァがその毒を飲み干したため事なきを得た[10] が、シヴァの喉は毒によって青く変色した。
1000年間[2] 攪拌が続き、乳海からはさまざまなものが生じた。太陽、月、白い象アイラーヴァタ、馬ウッチャイヒシュラヴァス、牛スラビー(カーマデーヌ)、宝石カウストゥバ、願いを叶える樹カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ (Pârijâta)、アプサラスたち、酒の女神ヴァルニー[注釈 3]、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミー[注釈 4]らが次々と生まれた。最後にようやく天界の医神ダヌヴァンタリが、アムリタの入った壺を持って現れた[7][11][14]。
アスラはアムリタを要求し、神々との争いになった。アスラは一度はアムリタを手にしたが、機転を利かせたヴィシュヌ神が美女に変身して誘惑し、心を奪われたアスラたちはアムリタを美女に手渡した。その結果、アムリタは神々のものとなった。神々がアムリタを飲むさいにラーフというアスラがこっそり口にした。それを太陽神スーリヤと月神チャンドラがヴィシュヌ神に伝えたので、ヴィシュヌは円盤(チャクラム)でラーフの首を切断した[1][11]。ラーフは首から上だけが不死となり、頭は告げ口したスーリヤとチャンドラを恨み、追いかけて食べようと飲み込むが体がないためすぐに外に出てしまう(日食・月食の起源)[11]。ラーフはその体ケートゥとともに凶兆を告げる星となった(「ラーフ」を参照)。
その後、アスラは神々を激しく攻撃してきた。神々の側で戦うヴィシュヌ神が心に日輪のごとき武器を思い描くと、天からスダルシャナというチャクラムが現れた。ヴィシュヌ神や神々はアスラに勝利し、アムリタを無事持ち帰ったという[11]。
ギャラリー
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アンコールワットの浅浮き彫り(一部)
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同。ヴァースキを引っ張るアスラ
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同。ヴァースキを引っ張るアスラ達
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同。ヴァースキを引っ張る神々
脚注
注釈
- ^ 『ラーマーヤナ』では、聖仙ヴィシュヴァーミトラがラーマに乳海攪拌の経緯を説明している。クリタ=ユガの時代、ダイティヤ達とアーディティヤ達が不老不死を望み、乳海から「甘露の霊液(ラサ)」を作り出すことを思いついた。彼らはマンダラ山とヴァースキで乳海を一千年間かき混ぜたが、ヴァースキが猛毒ハーラーハラ(ハラーハラ)を吐き出し、これがアスラ達や神々だけでなく人間を含めて世界中を傷め始めた。神々がシヴァに助けを求めると、ヴィシュヌが現れ、彼らが最初に手に入れた毒を最初の供物として受け取るように、とシヴァを諭した。シヴァは「甘露を飲むかのように」毒を飲んでカイラーサ山へと戻り、ヴィシュヌもその場を去った。攪拌が再開されると、今度はマンダラ山が海底にめり込み始めたため、神々とガンダルヴァ達がヴィシュヌに助けを求めると、ヴィシュヌの化身の亀がその背に山を載せて支え、自身も山頂を手で支えつつ攪拌にあたった。攪拌が一千年間続くと、棒と水瓶を手にしたダンヴァンタリ(ダヌヴァンタリ)が出現した。続いて「水中(アプス)をかきまぜて生じた甘露の霊液(ラサ)」から6億ものアプサラスが生まれ出た。ヴァルナの娘ヴァールニー(ヴァルニー)、馬ウッチャイヒ=シュラバス、宝石カウストゥパも現れた。そうしてついに「不死の甘露の霊液」が出来たが、これを巡って、アスラ達と羅刹達が連合して神々と激しく戦った。しかしヴィシュヌが美女マーヤーに変身して甘露を奪取し、ヴィシュヌに抗った者達もことごとく戦死した。アーディティヤ達はダイティヤ達を殺し、その後インドラが王座に就いたという[2]。
- ^ 古い伝承では、亀の王アクーパーラがこの役目に当たっている[8]。
- ^ 酒の女神スラーとされることもある[8][11]。「スラー酒」も参照。
- ^ 『マハーバーラタ』ではここで生まれてきたのは女神シュリーとされている。古い時期にはシュリーはラクシュミーと共に共に太陽神アーディティヤの妻であったが、後にシュリーとラクシュミーは同一視された。『マハーバーラタ』では女神シュリーの美しさに惹かれたヴィシュヌが即座に自分の妻に定めている[12][13]。
出典
- ^ a b 松村 2013, p. 108.(ヴィシュヌ)
- ^ a b c ヴァールミーキ編著「第一篇 45 乳海攪拌の礼讃」『ラーマーヤナ』 1巻、岩本裕訳、平凡社〈東洋文庫 376〉、1980年4月、134-137頁。ISBN 978-4-582-80376-1。
- ^ 菅沼編 1985, p. 224.(ドゥルヴァーサス)
- ^ 沖田 2008, pp. 103-104.
- ^ a b 菅沼編 1985, p. 61.(ヴァースキ)
- ^ a b c d e f 沖田 2008, p. 104.
- ^ a b c 菅沼編 1985, p. 82.(ヴィシュヌ)
- ^ a b c 松村 2013, p. 107.(ヴィシュヌ)
- ^ 沖田 2008, pp. 100-101.
- ^ 沖田 2008, p. 106.
- ^ a b c d e 沖田 2008, p. 101.
- ^ 菅沼編 1985, p. 184.(シュリー)
- ^ 沖田 2013, pp. 266(シュリー), 563(ラクシュミー).
- ^ 沖田 2013, pp. 560-561.(ラーフ)
参考文献
- 沖田瑞穂「乳海攪拌神話とラグナロク」『明星大学研究紀要 日本文化学部・言語文化学科』第16巻、明星大学、2008年、99-108頁、NAID 110006966625。
- 松村一男他 編『神の文化史事典』白水社、2013年2月。ISBN 978-4-560-08265-2。
- 沖田瑞穂 「シュリー」 pp.266-267、「ラーフ」 pp. 560-561、「ラクシュミー」 p. 563。
- 松村一男 「ヴィシュヌ」、pp. 107-108.
- 菅沼晃 編『インド神話伝説辞典』東京堂出版、1985年3月。ISBN 978-4-490-10191-1。 ※特に注記がなければページ番号は本文以降
関連資料
- 高橋六二 「<文化と文学>「かきまわす」創世神話-カンボジア・アンコール遺跡群の浮彫「乳海攪拌」から-」『コミュニケーション文化』 第5号、跡見学園女子大学、2011年、p.63-69, ISSN 1881-8374。
- 瀧川郁久 「医学書の乳海攪拌神話」『東海大学紀要. 海洋学部「海 - 自然と文化」』 第8巻第1号、東海大学海洋学部、2010年4月20日、pp.35-41、NAID 110007591534。
- 田中於菟弥 「乳海のかきまわしと日食月食の起源」『インドの神話 - 今も生きている神々』 筑摩書房〈世界の神話 6〉、1982年10月、pp. 30-32。ISBN 978-4-480-32906-6。
外部リンク
- Internet Sacred Text Archive
- アンコール・ワット - 第一回廊の浅浮き彫り-乳海攪拌(アンコール遺跡群フォトギャラリー)
- アンコールワット~乳海攪拌ってどんな物語?(ピース・イン・ツアー)