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| 氏名 = 生駒一正 |
| 氏名 = 生駒 一正 |
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| 生誕 = [[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]]) |
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| 別名 = 一雅、三吉 |
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| 別名 = 一雅、三吉 |
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| 戒名 = 玉龍院殿前讃州大守四品安岫崇泰大禅定門 |
| 戒名 = 玉龍院殿前讃州大守四品安岫崇泰大禅定門 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])、[[織田氏]]の家臣・生駒親正の長男として誕生。 |
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初め[[織田信長]]に仕え、[[紀伊国|紀伊]][[雑賀衆|雑賀]]攻めなどで活躍した。信長死後は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕えて数々の合戦に参加する。[[天正]]19年([[1591年]])、[[従五位|従五位下]][[讃岐国|讃岐 |
初め[[織田信長]]に仕え、[[紀伊国|紀伊]][[雑賀衆|雑賀]]攻めなどで活躍した。信長死後は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕えて数々の合戦に参加する。[[天正]]19年([[1591年]])、[[従五位|従五位下]]・[[讃岐国|讃岐守]]に叙任される。[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]にも参加し、[[蔚山城の戦い]]などで活躍した。 |
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[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、父・親正の代わりに会津出兵に参加し、そのまま東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げた。父の親正は西軍に加わっていたが一正の功により罪を問われず、1万5千石の加増となった。慶長6年([[1601年]])、家督を継ぐ。慶長8年([[1603年]])、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜されている<ref>{{Cite journal|和書|author=村川浩平|title=羽柴氏下賜と豊臣姓下賜|year=1996|journal=駒沢史学|issue=49号}}</ref>。 |
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慶長13年([[1608年]])、妻子を江戸屋敷に居住させたため、その忠義を[[徳川秀忠]]より賞された。 |
慶長13年([[1608年]])、妻子を江戸屋敷に居住させたため、その忠義を[[徳川秀忠]]より賞された。 |
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慶長15年([[1610年]])、死去。[[法泉寺 (高松市)|法泉寺]]に葬られた。家督は長男の正俊が継いだ。 |
慶長15年([[1610年]])、死去した。[[法泉寺 (高松市)|法泉寺]]に葬られた。家督は長男の[[生駒正俊|正俊]]が継いだ。 |
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== 系譜 == |
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'''父母''' |
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* [[生駒親正]](父) |
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* [[高木正資]]の養女(母) |
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'''正室''' |
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* [[堀秀重]]の娘 |
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'''側室''' |
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* 於夏 ー 山下氏 |
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'''子女''' |
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* [[生駒正俊]](長男)生母は正室 |
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* [[生駒正房]](末男)生母は於夏(側室) |
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* [[生駒正信]] |
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* [[入谷盛之]] |
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* 山里 ー [[猪熊教利]]室後に[[津守氏]]に再嫁後に[[生駒将監]]に再嫁 |
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* [[近藤政成]]正室後に[[佐々木高和]]室 |
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'''養女''' |
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* [[園池宗朝]]室 ー [[生駒将監]]の娘 |
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== 出典 == |
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* [[臨済宗]] [http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/NAIYOU/21kei/kakuron/15ban/15ban.htm 龍松山 法泉寺] - 一正、正俊の菩提寺(香川県高松市) |
* [[臨済宗]] [http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/NAIYOU/21kei/kakuron/15ban/15ban.htm 龍松山 法泉寺] - 一正、正俊の菩提寺(香川県高松市) |
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{{高松藩主|生駒家|2代|1600年 - 1610年}} |
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2022年11月29日 (火) 11:37時点における最新版
生駒一正像(龍源寺蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 弘治元年(1555年) |
死没 | 慶長15年3月18日(1610年5月11日) |
別名 | 一雅、三吉 |
戒名 | 玉龍院殿前讃州大守四品安岫崇泰大禅定門 |
墓所 |
香川県高松市の法泉寺 京都府京都市の妙心寺塔頭玉龍院(臨済宗) |
官位 | 従五位下讃岐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 |
藩 | 讃岐高松藩主 |
氏族 | 土田生駒氏 |
父母 | 父:生駒親正、母:高木正資の養女 |
兄弟 | 一正、村越直吉継室 |
妻 |
正室:堀秀重の娘 側室:於夏 |
子 |
正俊、山里、近藤政成正室、正信、入谷盛之、正房 養女:生駒将監の娘 |
生駒 一正(いこま かずまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、第2代高松藩主。生駒親正の長男。
生涯
[編集]弘治元年(1555年)、織田家の家臣・生駒親正の長男として誕生した。
初め織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどで活躍した。信長死後は羽柴秀吉に仕えて数々の合戦に参加する。天正19年(1591年)、従五位下・讃岐守に叙任される。朝鮮出兵にも参加し、蔚山城の戦いなどで活躍した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父・親正の代わりに会津出兵に参加し、そのまま東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げた。父の親正は西軍に加わっていたが一正の功により罪を問われず、1万5千石の加増となった。慶長6年(1601年)、家督を継ぐ。慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されている[1]。
慶長13年(1608年)、妻子を江戸屋敷に居住させたため、その忠義を徳川秀忠より賞された。
慶長15年(1610年)、死去した。法泉寺に葬られた。家督は長男の正俊が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 堀秀重の娘
側室
- 於夏 ー 山下氏
子女
養女
出典
[編集]- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。