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「生駒一正」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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m 戦国時代 (日本)|
Mnd (会話 | 投稿記録)
m 豊臣秀吉|、高松城 (讃岐国)|
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'''生駒 一正'''('''いこま かずまさ'''、[[1555年]]([[弘治]]元年) - [[1610年]][[5月11日]]([[慶長]]15年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[江戸時代]]の[[武将]](大名)で[[生駒親正]]の子。
'''生駒 一正'''('''いこま かずまさ'''、[[1555年]]([[弘治]]元年) - [[1610年]][[5月11日]]([[慶長]]15年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[江戸時代]]の[[武将]](大名)で[[生駒親正]]の子。


はじめ[[織田信長]]に仕え、[[紀伊国|紀伊]][[雑賀]]攻めなどで活躍した。信長死後は[[羽柴秀吉]]に仕えて数々の合戦に参加する。[[朝鮮出兵]]にも参加し、[[蔚山城]]の戦いなどで活躍した。
はじめ[[織田信長]]に仕え、[[紀伊国|紀伊]][[雑賀]]攻めなどで活躍した。信長死後は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕えて数々の合戦に参加する。[[朝鮮出兵]]にも参加し、[[蔚山城]]の戦いなどで活躍した。


[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では、父の親正は西軍に、自身は東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げたため、戦後、父から家督を譲られ、その所領である[[讃岐国]][[丸亀藩]]十八万石も安堵された。後に居城を[[丸亀城]]から[[高松城]]に移した。
[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では、父の親正は西軍に、自身は東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げたため、戦後、父から家督を譲られ、その所領である[[讃岐国]][[丸亀藩]]十八万石も安堵された。後に居城を[[丸亀城]]から[[高松城 (讃岐国)|高松城]]に移した。


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[[Category:戦国武将|いこま かすまさ]]
[[Category:江戸の大名|いこま かすまさ]]

2004年12月24日 (金) 09:57時点における版

生駒 一正いこま かずまさ1555年弘治元年) - 1610年5月11日慶長15年3月18日))は、戦国時代江戸時代武将(大名)で生駒親正の子。

はじめ織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどで活躍した。信長死後は羽柴秀吉に仕えて数々の合戦に参加する。朝鮮出兵にも参加し、蔚山城の戦いなどで活躍した。

1600年関ヶ原の戦いでは、父の親正は西軍に、自身は東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げたため、戦後、父から家督を譲られ、その所領である讃岐国丸亀藩十八万石も安堵された。後に居城を丸亀城から高松城に移した。