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「長楽寺 (京都市)」の版間の差分

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'''長楽寺'''(ちょうらくじ)は、[[京都市]][[東山区]]にある[[時宗]]([[時宗十二派|遊行派]])の[[寺院]]。[[山号]]は黄台山(おうだいさん)。[[洛陽三十三所観音霊場]]第7番札所。
'''長楽寺'''(ちょうらくじ)は、[[京都市]][[東山区]]円山町にある[[時宗]]([[時宗十二派|遊行派]])の[[寺院]]。[[山号]]は黄台山(おうだいさん)。[[本尊]]は[[准胝観音]]。[[円山公園 (京都府)|円山公園]]の東南方に位置する。かつての境内地は円山公園の大部分や[[真宗大谷派]]の[[大谷祖廟]](東大谷)の大半の境内地を含む広大なものであった。[[洛陽三十三所観音霊場]]第7番札所。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[円山公園 (京都府)|円山公園]]の東南方に位置する。かつての境内地は円山公園の大部分や[[真宗大谷派]]の[[大谷祖廟]](東大谷)の大半の境内地を含む広大なものであった。長楽寺は一説によれば[[延暦]]24年([[805年]])勅命により[[最澄]]が[[延暦寺]]の別院として創建したのに始まるという。『[[平家物語]]』「灌頂巻」によると、[[文治]]元年([[1185年]])には[[高倉天皇]]の中宮で[[安徳天皇]]の生母である[[平徳子|建礼門院]](平徳子)が[[壇ノ浦の戦い]]の後、この寺で[[出家]]したと伝えられる。
長楽寺は一説によれば[[延暦]]24年([[805年]])勅命により[[最澄]]が[[延暦寺]]の別院として創建したのに始まるという。『[[平家物語]]』「灌頂巻」によると、[[文治]]元年([[1185年]])には[[高倉天皇]]の[[中宮]]で[[安徳天皇]]の生母である建礼門院([[平徳子]])が[[壇ノ浦の戦い]]の後の5月1日に当に到来し、当寺の僧法然の弟子・阿証房印西(印誓)について[[出家]]したという。建礼門院は10月になると[[大原 (京都市)|大原]]の[[寂光院]]に入寺している。


[[法然]]の弟子、[[隆寛]]はこの寺に居住して多念義を唱えた。隆寛の系譜は寺院名をとって後に長楽寺義・長楽寺流・長楽寺派といわれ
[[法然]]の弟子、[[隆寛]]はこの寺に居住して多念義を唱えた。隆寛の系譜は寺院名をとって後に長楽寺義・長楽寺流・長楽寺派といわれている


[[至徳 (日本)|至徳]]2年([[1385年]])に[[時宗]]の僧[[国阿]]がこの寺に、時宗の寺に改められた。
[[至徳 (日本)|至徳]]2年([[1385年]])に[[時宗]]の僧[[国阿]]が入寺して中興し、時宗の寺に改められた。


[[延享]]2年([[1745年]])、[[江戸幕府]]第8代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]により1万坪もの境内地を没収された。没収された土地は長楽寺に隣接する真宗大谷派の大谷祖廟に寄進されている。
[[延享]]2年([[1745年]])、[[江戸幕府]]第8代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]により1万坪もの境内地を没収された。没収された土地は長楽寺に隣接する[[真宗大谷派]][[大谷祖廟]](東大谷)に寄進されている。


これ以降、寺勢は衰微しはじめ、[[文化 (元号)|文化]]年間([[1804年]] - [[1818年]])には[[養福寺]]に寺地の一部を譲って[[西山浄土宗|浄土宗西山派]]に改宗する。しかし、[[1870年]]([[明治]]2年)には[[時宗遊行派]]に改め。また、[[1871年]](明治4年)に[[上知令]]によって境内地を政府に没収された。没収された土地は[[1886年]](明治19年)に円山公園の一部とされた。
これ以降、寺勢は衰微しはじめ、[[文化 (元号)|文化]]年間([[1804年]] - [[1818年]])には[[養福寺]]に寺地の一部を譲って[[西山浄土宗|浄土宗西山派]]に改宗する。しかし、[[1870年]]([[明治]]2年)には[[時宗遊行派]]に改めている。また、[[1871年]](明治4年)に[[上知令]]によって境内地を政府に没収された。没収された土地は[[1886年]](明治19年)に[[円山公園 (京都府)|円山公園]]の一部とされた。


[[1906年]](明治39年)には、時宗遊行派の有力寺院である七条道場[[金光寺 (京都市下京区)|金光寺]]を合する。長楽寺が所蔵する[[重要文化財]]の時宗祖師像7躯([[慶派]][[仏師]]の作)は、金光寺から移されたものである。
[[1906年]](明治39年)には、時宗遊行派の有力寺院である七条道場[[金光寺 (京都市下京区材木町)|金光寺]]を合する。長楽寺が所蔵する[[重要文化財]]の時宗祖師像7躯([[慶派]][[仏師]]の作)は、金光寺から移されたものである。


[[2008年]]([[平成]]20年)、文化財を納めた収蔵庫が火災によりほぼ全焼した。この際、[[一遍]]木像(重要文化財)を始めとする全ての文化財は住職らによって火災直後に運び出されたため難を免れた。
[[2008年]]([[平成]]20年)、文化財を納めた収蔵庫が火災によりほぼ全焼した。この際、[[一遍]]木像(重要文化財)を始めとする全ての文化財は、消防隊員や住職らによって火災直後に運び出されたため難を免れた。


== 本尊 ==
== 本尊 ==
本尊の[[准胝観音]]は天皇即位時にしか開帳されない「勅封・厳秘」の本尊であり、玉躰護持と皇室安寧祈祷の本尊とされる。その姿は立像で1面3目18臂、二匹の龍の上に蓮台があり、その上に立っている。
本尊の[[准胝観音]]は天皇即位時にしか開帳されない「勅封・厳秘」の本尊であり、玉躰護持と皇室安寧祈祷の本尊とされる。その姿は立像で1面3目18臂、二匹の龍の上に蓮台があり、その上に立っている。


伝説によれば、伝教大師[[最澄]]が入唐の際に海難に遭遇したので三宝に祈願したところ、二頭の龍に跨がった准胝観音が顕れて最澄の衣に飛び移ると、たちまち波風が収まったといわれ、その姿を彫ったものであるという。
伝説によれば、伝教大師最澄が入唐の際に海難に遭遇したので三宝に祈願したところ、二頭の龍に跨がった准胝観音が顕れて最澄の衣に飛び移ると、たちまち波風が収まったといわれ、その姿を彫ったものであるという。


普段は厨子([[後水尾天皇]]の[[中宮]]・[[徳川和子|東福門院]]が寄進した「[[泰安]]の厨子」)の中に安置されている。また、御前立本尊となっている[[阿弥陀如来]]像([[阿弥陀三尊像]])は[[崇徳天皇]]念仏といわれる。
普段は厨子([[後水尾天皇]]の中宮・[[徳川和子|東福門院]]が寄進した「[[泰安]]の厨子」)の中に安置されている。また、御前立本尊となっている[[阿弥陀如来]]像([[阿弥陀三尊像]])は[[崇徳天皇]]念仏といわれる。


最新の開帳は[[徳仁|今上天皇]]の即位に伴う[[2019年]]([[令和]]元年)5月1日から6月16日までの開帳となる<ref>[https://www.sankei.com/west/news/190501/wst1905010016-n1.html 代替わりの年に開帳される観音像公開 京都・長楽寺] 産経新聞 2019年5月1日</ref>。
最新の開帳は[[徳仁|今上天皇]]の即位に伴う[[2019年]]([[令和]]元年)5月1日から6月16日までの開帳となる<ref>[https://www.sankei.com/west/news/190501/wst1905010016-n1.html 代替わりの年に開帳される観音像公開 京都・長楽寺] 産経新聞 2019年5月1日</ref>。
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== 境内 ==
== 境内 ==
* 本堂 - もとは[[安土桃山時代]]に建てられた[[伏見城]]の御殿の1つ。後に[[正伝寺]]に移築されて法堂となっていたものを、[[1890年]]([[明治]]23年)に当寺に移築。
* 本堂 - もとは[[安土桃山時代]]に建てられた[[伏見城]]の御殿の1つ。後に[[正伝寺]]に移築されて法堂となっていたものを、[[1890年]]([[明治]]23年)に当寺に移築した
* 鐘楼 - 梵鐘は[[1956年]]([[昭和]]31年)に造られたもの。
* 鐘楼
* [[建礼門院]]御塔 - 十一重石塔。建礼門院の毛髪を埋めているとされる。
* 十三重石塔「[[平徳子|建礼門院]]御塔 - 建礼門院の毛髪を埋めているとされる。
* 平安の滝 - [[相阿弥]]の築という。
* 平安の滝 - [[相阿弥]]の築という。
* 収蔵庫 - 宝物館。[[重要文化財]]の木造智真([[一遍]])立像などがある。
* 収蔵庫
* 尊攘苑 - 墓所。[[水戸藩]]の関係者などが祀られている。
* 尊攘苑 - 墓所。[[水戸藩]]の関係者などが祀られている。
** [[頼山陽]]の墓
** [[頼山陽]]の墓 - 思想家。
** [[頼三樹三郎]]の墓
** [[頼三樹三郎]]の墓 - 頼山陽の子。
** [[藤井竹外]]の墓 - [[漢詩人]]。
** [[松平昭訓]]の墓 - [[徳川慶喜]]の弟。
** [[松平昭訓]]の墓 - [[徳川慶喜]]の弟。
** [[鵜飼吉左衛門]]の墓
** [[鵜飼吉左衛門]]の墓 - 水戸藩士。
** [[鵜飼幸吉]]の墓 - 鵜飼吉左衛門の子。[[戊午の密勅]]を受け取って[[江戸]]にいる水戸藩主[[徳川慶篤]]に渡した。
** [[鵜飼幸吉]]の墓
** [[大場一真斎]]の墓
** [[大場一真斎]]の墓 - 水戸藩家老。
** [[原市之進]]の墓
** [[原市之進]]の墓 - [[藤田東湖]]の従兄弟。
** [[鈴木松年]]の墓 - [[上村松園]]の最初の師匠。
** [[鈴木松年]]の墓 - [[上村松園]]の最初の師匠。
* 庫裏
* 庫裏
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* 庭園 - 相阿弥の作庭による池泉観賞式庭園。[[足利義政]]が東山山荘(後の[[慈照寺]])の庭園の試作として相阿弥に造らせたとされる。
* 庭園 - 相阿弥の作庭による池泉観賞式庭園。[[足利義政]]が東山山荘(後の[[慈照寺]])の庭園の試作として相阿弥に造らせたとされる。
* 茶室
* 茶室
* 客殿
* 客殿「雙龍舞閣」
* 山門
* 山門
* [[宿坊]]「遊行庵」 - 飛び地。[[八坂神社]]の前にある。
* [[宿坊]]「遊行庵」 - 飛び地。[[八坂神社]]の前にある。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
[[File:建礼門院徳子毛髪塔.JPG|thumb|十重石塔建礼門院徳子毛髪 2012年3月28日撮影)]]
[[File:建礼門院徳子毛髪塔.JPG|thumb|十重石塔建礼門院」(2012年3月28日撮影)]]
[[File:頼山陽墓.JPG|thumb|頼山陽の墓(2012年3月28日撮影)]]
[[File:頼山陽墓.JPG|thumb|頼山陽の墓(2012年3月28日撮影)]]
[[File:頼三樹三郎墓.JPG|thumb|頼三樹三郎の墓(2012年3月28日撮影)]]
[[File:頼三樹三郎墓.JPG|thumb|頼三樹三郎の墓(2012年3月28日撮影)]]
=== 重要文化財 ===
=== 重要文化財 ===
* 木造時宗祖師像 7躯
* 木造時宗祖師像 7躯
** 智真([[一遍]])立像 - 像内に[[応永]]二十七年([[1420年]])二月、康秀作の銘がある
** 木造智真([[一遍]])立像 - 像内に[[応永]]27年([[1420年]])2月、康秀作の銘がある
** [[他阿|真教]]倚像 (附:木造五輪塔1基 地輪に大上人の銘がある)
** 木造[[他阿|真教]]倚像 (附:木造五輪塔1基 地輪に大上人の銘がある)
** 一鎮坐像 - 像内に[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])六月、檀那与阿弥陀仏、[[康俊 (東寺大仏師)|幸俊]]等の銘がある
** 木造一鎮坐像 - 像内に[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])6月、檀那与阿弥陀仏、[[康俊 (東寺大仏師)|幸俊]]等の銘がある
** 尊明坐像 - 像内に応永十四年([[1407年]])二月、金光寺第十三代、康祐法印、康秀法橋等の銘がある
** 木造尊明坐像 - 像内に応永14年([[1407年]])2月、金光寺第13代、康祐法印、康秀法橋等の銘がある
** 太空坐像
** 木造太空坐像
** 尊恵坐像 - 像内に応永二十八年([[1421年]])十二月、七条仏所等の銘がある
** 木造尊恵坐像 - 像内に応永28年([[1421年]])12月、七条仏所等の銘がある
** 暉幽坐像
** 木造暉幽坐像
* 遊行歴代他阿弥陀仏書状類(24通)23巻(附:寛永三年歴代他阿上人書状目録)
* 遊行歴代他阿弥陀仏書状類(24通)23巻(附:寛永三年歴代他阿上人書状目録)


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; [[洛陽三十三所観音霊場]]
; [[洛陽三十三所観音霊場]]
: 6 [[金戒光明寺]] - '''7 長楽寺''' - 8 [[大蓮寺 (京都市)|大蓮寺]]
: 6 [[金戒光明寺]] - '''7 長楽寺''' - 8 [[大蓮寺 (京都市)|大蓮寺]]
; 京都七福神([[布袋尊]])
; [[京都七福神]]([[布袋尊]])


== 住所 ==
== 住所 ==
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* [http://www.kyo-yado.com/yugyo-an/top.html 長楽寺宿坊遊行庵]
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2024年11月17日 (日) 23:10時点における最新版

 長楽寺
 山門(2019年6月撮影)
 山門(2019年6月撮影)
所在地  京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626
位置 北緯35度0分9.3秒 東経135度47分0.5秒 / 北緯35.002583度 東経135.783472度 / 35.002583; 135.783472座標: 北緯35度0分9.3秒 東経135度47分0.5秒 / 北緯35.002583度 東経135.783472度 / 35.002583; 135.783472
山号 黄台山
宗派 時宗遊行派
本尊 准胝観音
創建年 延暦24年(805年
開山 最澄
中興年 至徳2年(1385年
中興 国阿
正式名 黄台山長楽寺
札所等 洛陽三十三所観音霊場第7番
京都七福神布袋尊
文化財 木造智真(一遍)立像、木造真教倚像、木造一鎮坐像ほか(重要文化財
公式サイト 京都東山 平家物語ゆかりの寺 長楽寺
法人番号 8130005002343 ウィキデータを編集
長楽寺の位置(京都府内)
長楽寺
長楽寺
長楽寺 (京都府)
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長楽寺の位置(日本内)
長楽寺
長楽寺
長楽寺

長楽寺(ちょうらくじ)は、京都市東山区円山町にある時宗遊行派)の寺院山号は黄台山(おうだいさん)。本尊准胝観音円山公園の東南方に位置する。かつての境内地は円山公園の大部分や真宗大谷派大谷祖廟(東大谷)の大半の境内地を含む広大なものであった。洛陽三十三所観音霊場第7番札所。

歴史

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長楽寺は一説によれば、延暦24年(805年)に勅命により最澄延暦寺の別院として創建したのに始まるという。『平家物語』「灌頂巻」によると、文治元年(1185年)には高倉天皇中宮安徳天皇の生母である建礼門院(平徳子)が壇ノ浦の戦いの後の5月1日に当寺に到来し、当寺の僧で法然の弟子・阿証房印西(印誓)について出家したという。建礼門院は10月になると大原寂光院に入寺している。

法然の弟子、隆寛はこの寺に居住して多念義を唱えた。隆寛の系譜は寺院名をとって後に長楽寺義・長楽寺流・長楽寺派といわれている。

至徳2年(1385年)に時宗の僧国阿が入寺して中興し、時宗の寺に改められた。

延享2年(1745年)、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗により1万坪もの境内地を没収された。没収された土地は長楽寺に隣接する真宗大谷派大谷祖廟(東大谷)に寄進されている。

これ以降、寺勢は衰微しはじめ、文化年間(1804年 - 1818年)には養福寺に寺地の一部を譲って浄土宗西山派に改宗する。しかし、1870年明治2年)には時宗遊行派に改めている。また、1871年(明治4年)に上知令によって境内地を政府に没収された。没収された土地は1886年(明治19年)に円山公園の一部とされた。

1906年(明治39年)には、時宗遊行派の有力寺院である七条道場金光寺を合併する。長楽寺が所蔵する重要文化財の時宗祖師像7躯(慶派仏師の作)は、金光寺から移されたものである。

2008年平成20年)、文化財を納めた収蔵庫が火災によりほぼ全焼した。この際、一遍木像(重要文化財)を始めとする全ての文化財は、消防隊員や住職らによって火災直後に運び出されたため難を免れた。

本尊

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本尊の准胝観音は天皇即位時にしか開帳されない「勅封・厳秘」の本尊であり、玉躰護持と皇室安寧祈祷の本尊とされる。その姿は立像で1面3目18臂、二匹の龍の上に蓮台があり、その上に立っている。

伝説によれば、伝教大師最澄が入唐の際に海難に遭遇したので三宝に祈願したところ、二頭の龍に跨がった准胝観音が顕れて最澄の衣に飛び移ると、たちまち波風が収まったといわれ、その姿を彫ったものであるという。

普段は厨子(後水尾天皇の中宮・東福門院が寄進した「泰安の厨子」)の中に安置されている。また、御前立本尊となっている阿弥陀如来像(阿弥陀三尊像)は崇徳天皇念持仏といわれる。

最新の開帳は今上天皇の即位に伴う2019年令和元年)5月1日から6月16日までの開帳となる[1]

なお、本尊両脇には伝・最澄作の弁才天像と円爾(聖一国師)がインド中国日本の三国の土で作ったといわれる布袋尊像が安置されている。

境内

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文化財

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十三重石塔「建礼門院御塔」(2012年3月28日撮影)
頼山陽の墓(2012年3月28日撮影)
頼三樹三郎の墓(2012年3月28日撮影)

重要文化財

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  • 木造時宗祖師像 7躯
    • 木造智真(一遍)立像 - 像内に応永27年(1420年)2月、康秀作の銘がある
    • 木造真教倚像 (附:木造五輪塔1基 地輪に大上人の銘がある)
    • 木造一鎮坐像 - 像内に建武元年(1334年)6月、檀那与阿弥陀仏、幸俊等の銘がある
    • 木造尊明坐像 - 像内に応永14年(1407年)2月、金光寺第13代、康祐法印、康秀法橋等の銘がある
    • 木造太空坐像
    • 木造尊恵坐像 - 像内に応永28年(1421年)12月、七条仏所等の銘がある
    • 木造暉幽坐像
  • 遊行歴代他阿弥陀仏書状類(24通)23巻(附:寛永三年歴代他阿上人書状目録)

その他

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平家物語』ゆかりの寺であることから、安徳天皇画像、安徳天皇の衣をもって作ったと伝える幡、松久朋琳作の建礼門院彫像などがある。

行事

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  • 扇祈願会(もみじ祭) - 11月下旬。

前後の札所

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洛陽三十三所観音霊場
6 金戒光明寺 - 7 長楽寺 - 8 大蓮寺
京都七福神布袋尊

住所

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京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626

京都市営バス京阪バス祇園バス停から徒歩15分

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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外部リンク

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