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「鳥羽藩」の版間の差分

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2006年3月11日 (土) 01:00時点における版

鳥羽藩とばはん)は、志摩国(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した

藩史

織田信長に仕え、当時最強と言われた毛利水軍をわずか数隻の鉄甲船で打ち破ったことで有名な織田水軍の将・九鬼嘉隆を藩祖とする。慶長5年(1600年)嘉隆は西軍に、子の九鬼守隆は東軍に与して関ヶ原の戦いを戦った。これは、父子対立というよりはどちらが勝利しても九鬼家が存続できるように嘉隆が図ったものと言われている。しかし守隆は戦後、父の助命を徳川家康に嘆願して認められていたが、それを報せる前に嘉隆は自害してしまった。

守隆は戦後、2万石を加増され、大坂の陣でも戦功により1000石を加増されて5万6000石の大名となった。寛永9年(1632年)に守隆が死去すると、九鬼氏の間で家督争いが起こり、幕府の裁定の結果、家督は守隆の五男・九鬼久隆が継いで摂津国三田藩へ移封。三男の九鬼隆季丹後国綾部藩に2万石で移封となり、九鬼氏は分裂した上、水軍力を失った。

翌年、常陸国内で2万石を領していた内藤忠重が3万5000石で入る。その後、内藤忠政、そして内藤忠勝と継がれたが、延宝8年(1680年)に忠勝は芝増上寺において第4代将軍・徳川家綱の法会の席上で、私情から永井尚長を殺害したために切腹・改易となり、鳥羽藩はその後8ヶ月、天領となった。ちなみにこの忠勝、後の浅野長矩の縁戚に当たる。

天和元年(1681年)、下総国古河藩から土井利益が7万石で入る。しかし元禄4年(1691年)、肥前国唐津藩へ移封。入れ替わりで松平乗邑が6万石で入るが、これも宝永7年(1710年)に伊勢亀山藩へ移封。入れ替わりで板倉重治が5万石で入るが、これも享保2年(1717年)、再び亀山へ。代わって山城淀藩から松平光慈が7万石で入るが、これも享保10年(1725年)に信濃国松本藩へというように、藩主家が安定しなかった。

代わって稲垣昭賢下野国鳥山藩から3万石で入り、ようやく藩主家が定着した。その後、稲垣氏は8代にわたって鳥羽を支配した。明治4年(1871年)の廃藩置県で鳥羽藩は廃藩となって鳥羽県、さらに度会県を経て三重県に編入された。

歴代藩主

九鬼(くき)家

3万5000石→5万5000石→5万6000石。外様

  1. 九鬼嘉隆(よしたか)
  2. 九鬼守隆(もりたか)<従五位下。長門守>
  3. 九鬼久隆(ひさたか)<従五位下。大和守>

内藤(ないとう)家

3万5000石。譜代

  1. 内藤忠重(ただしげ)<従五位下。志摩守>
  2. 内藤忠政(ただまさ)<従五位下。飛騨守>
  3. 内藤忠勝(ただかつ)<従五位下。和泉守>

土井(どい)家

7万石。譜代。

  1. 土井利益(とします)<従五位下。周防守>

松平(大給)(まつだいら(おぎゅう))家

6万石。譜代。

  1. 松平乗邑(のりさと)<従四位下。和泉守。侍従>

板倉(いたくら)家

5万石。譜代

  1. 板倉重治(しげはる)<従四位下。近江守>

松平(戸田)(まつだいら(とだ))家

7万石。譜代。

  1. 松平光慈(みつちか)<従五位下。丹波守>

稲垣(いながき)家

3万石。譜代。

  1. 稲垣昭賢(あきかた)<従五位下。信濃守>
  2. 稲垣昭央(てるなか)<従五位下。対馬守>
  3. 稲垣長以(ながもち)<従五位下。摂津守>
  4. 稲垣長続(ながつぐ)<従五位下。対馬守>
  5. 稲垣長剛(ながかた)<従五位下。対馬守>
  6. 稲垣長明(ながあき)<従五位下。摂津守>
  7. 稲垣長行(ながゆき)<従五位下。摂津守>
  8. 稲垣長敬(ながひろ)<従五位下。対馬守>

関連項目