龍造寺氏
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龍造寺氏(竜造寺氏; りゅうぞうじうじ)は、肥前の東部(現在の佐賀県)を中心に九州の北西部を支配した戦国大名。
出自には諸説があって定かにされていないが、鎌倉時代の初めに藤原秀郷の後裔秀家が、肥前国小津郡龍造寺の地頭となり、地名をとって龍造寺を称したのに始まるという。のちに数家に分かれたが、水ケ江城によった水ケ江龍造寺氏がもっとも力をもった。
室町時代に肥前の守護で北九州に勢力を張った少弐氏の被官となったが、1530年、水ケ江城主龍造寺家兼が田手畷の戦いで周防の大内氏を破ってから少弐氏からの自立が進み戦国大名としての道を歩み始めた。1535年に大内義隆に通じて少弐氏没落に荷担し、勢力を拡大したが、1544年に龍造寺氏の拡大を恐れた馬場頼周に敗れ、一族の多くを殺害されて、龍造寺氏の勢力は壊滅した。
筑後に逃れた家兼は再起をはかると、1546年、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興した。同年、93歳の高齢で家兼が死去し、曾孫の龍造寺隆信が後を継いだ。隆信の時代に龍造寺氏は北九州に勢力を広げて戦国大名としての最盛期を築き、九州北東の雄大友氏を圧倒するに至るが、1584年に沖田畷の戦いで島津氏に敗れ、隆信も戦死した。
隆信の死後、鍋島直茂が豊臣秀吉の承認のもと国政を代行し、隆信の子龍造寺政家にかわって軍役を担当して事実上の肥前東部の領主となっていった。1607年、政家の遺児高房が病死すると龍造寺氏の本家は断絶し、鍋島氏が完全に龍造寺の遺領を継承した。
龍造寺本家の断絶後も龍造寺氏の諸分家は存続し、鍋島氏の佐賀藩に仕えた。