松平親忠
時代 | 室町時代中期 - 戦国時代 |
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生誕 | 永享3年(1431年)または永享10年(1438年) |
死没 | 文亀元年8月10日(1501年9月22日)70/63没 |
改名 | 竹千代(幼名、竹若丸とも)→親忠→西忠(法号) |
別名 | 次郎三郎、三郎(通称)、右京大夫 |
戒名 | 松安院殿太胤西忠大居士 |
墓所 | 愛知県岡崎市鴨田町の大樹寺 |
官位 | 従五位下、左京亮 |
氏族 | 松平氏 |
父母 |
父:松平信光 母:真浄院殿 |
兄弟 |
守家、昌龍、親忠、与副、光重、光英、忠景、光親、家勝、親正、親則、 戸田宗光室 |
妻 | 正室:鈴木重勝娘・閑照院殿 |
子 | 親長 、乗元、長親、親房、張忠、存牛、親光、長家、乗清 |
松平 親忠(まつだいら ちかただ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。松平信光の三男。
生涯
[編集]初め額田郡鴨田郷(現岡崎市鴨田町)を根拠地としていたが、長享2年(1488年)か長享3年(1489年)頃に、父が死去したために家督を継ぐ[1]。しかし、間もなく出家して西忠と号した。親忠自身の治績はあまり知られておらず、三男なのに本当に家督を継いだのかどうか、一部では疑問視されている。
『三河物語』では、父の信光は長男(名は記載なし)に惣領を譲ったとあり、親忠は分家的な存在に過ぎなかったとされている。だが後に安祥松平氏から清康・家康らが本家を簒奪したため、親忠が4代当主扱いされたと言われている。
応仁元年(1467年)8月、第一次井田野合戦で品野(瀬戸市品野町)や伊保(豊田市保見町)の軍勢を破る。親忠は戦死者を弔うため、現在の岡崎市鴨田町字向山の地に千人塚を築いた[2][3][4][注 1]。
文明2年(1470年)、松平氏の氏神として社(やしろ)を伊賀国より現在の岡崎市伊賀町の地に移した。これが伊賀八幡宮の始まりとされる[6]。
文明7年(1475年)になって、千人塚が振動し、近辺には悪病が流行するようになった。この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建てた(現在の鴨田町字向山の西光寺)。そして鴨田郷の館跡に、松平氏菩提寺である大樹寺を創建した[2][6]。文明9年(1477年)、大恩寺(愛知県豊川市御津町御津山山麓)の開基として同寺を中興する。
長享元年(1487年)、麻生城の天野景孝を滅ぼし、九男・乗清を分立して成立した滝脇松平家を配置した[7]。明応2年(1493年)第二次井田野合戦で、上野城主阿部氏、寺部城主鈴木氏、挙母城主中条氏、伊保城主三宅氏、八草城主那須氏らを破り、武名を挙げた。
明応5年(1496年)、三男・長親に家督を譲り、隠居。また子を分立して大給松平家、滝脇松平家などを成立させたほか、第四子の存牛は出家し、信光明寺住持などを経て、京都の浄土宗総本山知恩院住持を務めた。文亀元年(1501年)8月10日に71歳(または63歳)で死去した。
ギャラリー
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 「松平八代」 三河武士のやかた家康館
- ^ a b 大樹寺の歴史, p. 14.
- ^ 佐々木洋之「大樹寺の成立過程について -大樹寺と松平親忠-」『印度學佛教學研究』第18巻第1号、日本印度学仏教学会、1969年、331-333頁、CRID 1390001205376848256、doi:10.4259/ibk.18.331、ISSN 0019-4344。
- ^ “第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景” (PDF). 岡崎市歴史的風致維持向上計画. 岡崎市. p. 107. 2022年6月3日閲覧。
- ^ “井田野古戦場”. 岡崎おでかけナビ. 岡崎市観光協会. 2022年6月8日閲覧。
- ^ a b “第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景” (PDF). 岡崎市歴史的風致維持向上計画. 岡崎市. p. 79. 2022年6月3日閲覧。
- ^ 「麻生松平氏の墓所 」『ぬかた町文化財めぐり』額田町文化財保護委員会,額田町教育委員会,1990年 P41
参考文献
[編集]- 平野明夫『三河松平一族』、新人物往来社 2002年、ISBN 4-404-02961-6。
- 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年。
- 新行紀一『大樹寺の歴史』大樹寺、1983年4月17日。