江頭匡一
えがしら きょういち 江頭 匡一 | |
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生誕 |
1923年3月25日 日本 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市) |
死没 | 2005年4月13日(82歳没) |
死因 | 肺炎 |
職業 | 実業家 |
親 | 江頭佳造・照代 |
栄誉 | 勲三等瑞宝章 |
江頭 匡一(えがしら きょういち、1923年〈大正12年〉3月25日 - 2005年〈平成17年〉4月13日)は、日本の実業家。ファミリーレストランロイヤルホストなどを展開するロイヤル(現在のロイヤルホールディングス)の創業者。
来歴
[編集]福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に父・江頭佳造、母・照代の長男として生まれる。旧制嘉穂中学校(現福岡県立嘉穂高等学校)卒業。授業を抜け出してプールで泳いだり、買い食いをしたりと父親泣かせであり、教師泣かせであったと本人は振り返っている。中学校卒業から3か月たって米子地方航空機乗員養成所に入所する。明治大学専門部中退。
1946年、米軍春日原ベース内のPX(売店)の指定商人を始めたことを切っ掛けに[1]、1950年、ロイヤルの前身会社・キルロイ特殊貿易を設立[2]。1951年、福岡空港の国内線運航開始と同時に同空港内に食堂運営と機内食の納入を始めた。
1952年4月9日、もく星号墜落事故が発生し、乗員・乗客全員が死亡した。江頭は東京から福岡へ帰る際に、当日この便を予約していたが、東京での仕事が長引き出発を1日送らせた。その結果、難を逃れている[3]。
1953年、福岡市中洲に、フランス料理店「ザ・ロイヤル」(後に「花の木」と改称)を開業する。オープンして3か月後、新婚旅行で来日したマリリン・モンローとジョー・ディマジオが来店して気に入り、3日続けて通ったといわれている。1959年には、天神(現在の中央区)の新天町に日本におけるファミリーレストランの草分けとなる「ロイヤル新天町店」を出店した。
他社に先駆けてセントラルキッチン方式やフランチャイズ制を導入した[4]。また店で新しく出される予定の料理は江頭自身が必ず試食し、ダメ出しを行っていた。この時、必ずすべての料理を完食していたため、後に体調を崩す原因になった[5][6][7]。
家族・親族
[編集]- 父・佳造
- 福岡県芦屋町で材木商を営む吉田徳造の五男、江頭家の婿養子。
- 佳造は東筑中学、旧制五高、東京大学法学部を卒業後、東大剣道部の先輩だった三菱地所初代会長赤星陸治の勧めで三菱合資会社に入社した。九州や北海道の主要炭鉱の労務主任、所長などを務めた。戦時中に産業報国会の理事だった関係で戦後は公職追放により会社を離れた。
- 中学、高校、大学とずっと剣道部の主将だった佳造は亡くなるときは剣道九段で、範士の資格を持ち、居合も教士の資格を持っていた。
- 母・照代
- 福岡県城島町で四百年続いた造り酒屋江頭酒造の一人娘)
- 姉(二人)、弟、妹
著書
[編集]脚注
[編集]- ^ 私の履歴書 江頭匡一 (6) 私の履歴書、1999年、日本経済新聞社
- ^ ロイヤルホールディングス株式会社 「第61期 有価証券報告書」4頁
- ^ “私の履歴書” (PDF). ロイヤルホールディングス. 2016年1月13日閲覧。ちなみに、江頭のキャンセル待ちで搭乗して犠牲になった乗客は、後にロイヤルホストの出店用に購入した土地の地主の親族であった。
- ^ “江頭匡一 えがしら-きょういち”. コトバンク. 2024年2月25日閲覧。
- ^ 『報道ステーション』内2005年「さよなら…」による。
- ^ 江頭は大量の胃腸薬と下剤を飲み、更に浣腸まで打ちながら、1日10回以上の試食をこなしていた。そのため体が悲鳴を上げ、何度も開腹手術を受けたという。
- ^ 勝者の心得 08(「日経トップリーダー」2009年11月1日号。
- ^ 江頭匡一氏が死去 共同通信 2005年4月13日閲覧
参考文献
[編集]- 城山三郎『外食王の飢え』講談社、1982年9月。ISBN 978-4061839250。- 江頭とすかいらーくを創業した横川兄弟をモデルした小説。週刊現代に連載された。
- 城山三郎『外食王の飢え』講談社文庫、1987年2月。ISBN 978-4062001427。
- 梅谷羊次『江頭匡一に叱られて レストランを産業化させた日本の外食王』商業界、2012年9月。ISBN 978-4785504274。
外部リンク
[編集]- 公益財団法人江頭ホスピタリティ事業振興財団
- 私の履歴書 - 江頭の私の履歴書がロイヤルホールディングスの公式サイトで公開されている。