Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
コンテンツにスキップ

仁支川峰子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西川峰子から転送)
にしかわ みねこ
仁支川 峰子
本名 福田 峰子(ふくだ みねこ)
別名義 西川 峰子(旧芸名)
生年月日 (1958-05-23) 1958年5月23日(66歳)
出生地 日本の旗 日本
血液型 A型
職業 歌手
女優
ジャンル 演歌歌謡曲
テレビドラマ
テレビ番組
活動期間 1974年 -
配偶者 独身(離婚歴あり)
事務所 スタッフ・アップ
公式サイト 仁支川峰子 公式サイト
テンプレートを表示

仁支川 峰子(にしかわ みねこ、旧芸名:西川 峰子、1958年昭和33年〉5月23日 - )は、日本演歌歌手女優スタッフ・アップ所属。

来歴・人物

[編集]

福岡県田川郡[1]赤村出身。都立代々木高校中退。歌唱力に秀で、1973年に『第3回全日本歌謡コンテスト』で優勝したのをきっかけに芸能界入りを果たした[2]

1974年7月25日、“やまびこ演歌”のキャッチフレーズビクターから『あなたにあげる』で歌手デビュー。同デビュー曲はチャート1位になるなど、いきなり大ヒットとなり、一躍人気歌手となった[3]。同曲で第2回FNS歌謡祭最優秀新人賞(1974年下期)、第5回日本歌謡大賞放送音楽新人賞、第16回日本レコード大賞新人賞など多数受賞。その後もコンスタントにヒット曲を放つ。

年末恒例のNHK紅白歌合戦には、初出場の1975年(第26回)から1978年(第29回)まで、4年連続で4回出場していた[2]。その後、喉が潰れて[4]声が思うように出なくなったこともあり、演歌歌手から女優に転向[2]。1977年の映画『人間の証明』で女優デビュー[4]。女優業では特に、1987年の映画『吉原炎上』での最後の場面では、自身初のヌードと共に「ここ噛んで!」の絶叫が話題となったー[4]。これにより視聴者に強いインパクトを与え、自身の代表作と言われるほどになった[3]。その後、タレントとしても活躍。

1982年10月6日から1983年3月30日まで『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)の水曜レギュラーであった。

1993年には、ヘアヌード写真集「PRIVATE」を発表。1997年に発売した写真集「PrivateII」は5万部を超える売り上げをあげた[1]

1998年には、那須高原の新築1ヶ月の別荘が台風4号に伴う豪雨で流され話題となった[1][5](その後、同じ場所に家を建て直したが後に売りに出した[1])。

40歳を過ぎた頃、長年出なかった歌声が不思議と出るようになったことから歌手活動も再開している[6]

2001年7月、後鳥羽上皇の墓守りである隠岐島在住の町議会議員の男性と結婚したが、2008年3月には離婚調停が開始[7]、2009年4月正式な離婚が発表された[5]

2009年12月24日放送のフジテレビ『くちこみっ!大捜索2!!本当に凄い(秘)占い師テレビ解禁スペシャル!!』番組内において、「西川」峰子から「仁支川」峰子に改名した。

2010年4月、大学病院での精密検査で甲状腺乳頭癌と診断され、劇団・若獅子公演が終了後の5月14日に入院。5月17日に2度に渡る摘出手術を受け、5月24日に退院した[8]

2021年1月5日、32年続けた個人事務所ミネファンタジーからスタッフ・アップに移籍した事が分かった[9]

エピソード

[編集]

紅白歌合戦

[編集]

デビュー曲「あなたにあげる」は55.6万枚のセールスを記録したが、際どい内容の歌詞がNHK的に物議を醸したらしく[10]その年の紅白には選ばれなかった。しかしその後NHK側の考えが変わったのか、翌年同曲で紅白初出場を果たした[注釈 1]

紅白には4年連続出場した後は呼ばれなくなったが、本人は後年「紅白落選はショックより、いろんな仕事に挑戦するきっかけになったので、今は感謝の気持ちしかないですね」と語っている[10]

芸能界デビュー時の目標は、両親の家を建てることだった。紅白出場もあって新人の頃に知名度が上がり歌手活動に加えドラマ出演などほぼ休みなく働き、デビュー4年目にして両親の家を建てる夢が叶った[10]

ヌード

[編集]

歌手デビューした当時は39kgしかなく、細すぎるのを隠すためパンタロンスーツを着ての芸能活動となった[4]。ただし当時から胸だけは大きかった[4]。29歳頃に出演した映画『吉原炎上』で仁支川のクライマックスで、豊満な乳房を大胆に披露した[4]。同シーンでヌードも辞さない迫真の演技[注釈 2]をしたことから、視聴者の中でも特にニューハーフたちからの支持が厚く、新宿2丁目界隈では仁支川は“神様”と呼ばれるようになった[4]

1990年代に発売したヘアヌード写真集は好評を得て、2023年現在もこの写真集は古書店では高値で取引されているという[4]。「男性だけでなく女性にも見てもらいたい」との考えから、掲載写真は自ら1枚1枚選ぶこだわりようだった[注釈 3]

ある写真家との写真集のロケ地を決める際、本人が「南国系とかスイスもいいですね」と提案した[4]。しかし相手が「インドは人生観が変わるよ」と言ったことでインドに決まり、内心あまり乗り気しなかったが撮影に臨んだ。現地では冷房が効かないぐらい暑く、元々暑がりの仁支川にとってはきつい仕事となった[注釈 4]

個人的に、若い頃から「女性の体が最も美しく見える時期は35歳まで」と思っていたため、写真などでヌードになるのを35歳で辞めた[注釈 5]。本人はヌード写真に後悔はないが、「(上記の)ロケ地選定でスイスなどにしなかったことが唯一の後悔」としている[4]

健康に関して

[編集]

両親は共働きだったが子供の頃は貧しく、幼い頃は栄養失調により5歳頃までしっかり歩くこともできない虚弱体質だった[11]。小学校入学後は、自宅から学校まで往復8kmの道のりを毎日徒歩で通学したこともあり、中学生の頃にようやく人並みの健康状態になった[4]

普段は約30品目の食材を使った料理を作ってゆっくり食べるなど健康を気遣っているが、美容には何の興味もないとのこと[4]

60代に入った頃に出演した医療系バラエティ番組で、「(同じ60代女性へ向けた一般論として)健康や筋力のためにとにかく歩きなさい」という話を聞いた[4]。以後、毎日12,000~14,000歩ぐらい歩くようにしたが、しばらくして膝に水が溜まった。病院で炎症が判明し[注釈 6]、医師から「(上記の一般論とは違い)あなたは骨格的に丈夫だから、無理して歩かなくていいんですよ」と注意されたという[4]

その他

[編集]

本人によると、2023年の時点でこれまでに計14回ほど死にかけている[4]。一例として、21歳で水疱瘡)にかかり、高熱のため生死をさまよった[4]。22歳に卵巣腫瘍により手術した[4]。32歳の時に、マネジャーが運転する車が3回転以上も横転する事故に遭った[12]。警察から「生きているのが奇跡」と言われるほどの大事故だったが、幸い頚椎捻挫と頭部打撲で済んだ[12]。51歳で受けたがんの手術では、麻酔が効きすぎたらしく呼吸困難に陥って死にかけたが、奇跡的に息を吹き返した[注釈 7]

これまで数々の病気や災難を経験していることを踏まえ、「どんな試練に遭遇しても、悩む時間は不毛だと考えています。現実を潔く受け入れ、悩みに悶々(もんもん)としないことが、私の心の健康法」としている[4]

西川峰子から仁支川峰子に改名した理由は、以前から「西川峰子」の文字の印象がカクカクしていて好きではないと感じていたことから[注釈 8]

我慢や無理をすると体にひずみが来るため、2022年現在は時々出演するバラエティ番組で好き放題言っているとのこと[注釈 9]

ディスコグラフィ

[編集]

シングル

[編集]
# 発売日 A/B面 タイトル 作詞 作曲 編曲 規格品番
1 1974年
7月25日
A面 あなたにあげる 千家和也 三木たかし 藤田はじめ SV-1191
B面 おとめ港 岡千秋
2 1974年
12月5日
A面 初めてのひと 山田一芳 SV-1210
B面 恋化粧 三木たかし
3 1975年
3月25日
A面 ふたりの秘密 SV-1220
B面 十六の恋
4 1975年
7月5日
A面 考えさせて欲しいのよ 名取純 賀川幸生 SV-1241
B面 恋が私を変えました 中山大三郎 新井利昌
5 1975年
9月5日
A面 縁切り港 千家和也 千葉毅 SV-1252
B面 野菊の丘
6 1975年
12月20日
A面 あのひとは遠い人 三木たかし SV-1265
B面 恋でしょうか 岡千秋
7 1976年
3月5日
A面 十九の夢 石坂まさを 湯野カオル SV-1285
B面 さよならはくちづけで 臼井ひさし 猪俣公章
8 1976年
4月25日
A面 初恋音頭 石坂まさを 吉田正 寺岡真三 MV-1080
B面 湯けむり小唄
9 1976年
7月5日
A面 峰子のマドロスさん 山口洋子 猪俣公章 前田俊明 SV-6027
B面 東京へ行っちゃった 石坂まさを 岡千秋
10 1976年
10月25日
A面 女になるでしょう 吉岡治 岡林信康 SV-6114
B面 夜祭りの都 岡林信康
11 1977年
2月25日
A面 ギター流して今晩わ 山田宏 猪俣公章 SV-6172
B面 それまで待ってね 臼井ひさし 新井利昌 柳田六合雄
12 1977年
7月5日
A面 男友達 小林亜星 竜崎孝路 SV-6252
B面 わたしの波止場 増田智子 岡千秋 あかのたちお
13 1977年
11月5日
A面 愛したいあなた 千家和也 穂口雄右 毛利猛 SV-6328
B面 あなたの涙 千葉毅 藤田はじめ
14 1978年
4月5日
A面 いっちゃえ いっちゃえ 森雪之丞 市川昭介 若草恵 SV-6400
B面 おんな花 木村弘清 竜崎孝路
15 1978年
8月25日
A面 東京ラブ・コール 西井久 岡千秋 前田俊明 SV-6462
B面 十九の海峡 平山忠夫 馬飼野俊一
16 1979年
2月25日
A面 帰郷 芦原みづほ 鶴岡雅義 馬場良 SV-6548
B面 別れ上手な人でした 吉法かずさ 徳久広司 伊藤雪彦
17 1979年
7月25日
A面 小泊岬 山口洋子 遠藤実 斉藤恒夫 SV-6609
B面 女のみれん 白鳥園枝 岡千秋 伊藤雪彦
18 1979年
11月1日
A面 あしたの幸せ 茜まさお 平尾昌晃 馬飼野俊一 SV-6652
B面 三日月だより 森雪之丞
19 1980年
6月21日
A面 やさしく別れて 中村泰士 戸塚修 SV-7014
B面 恋の約束 吉法かずさ 中村泰士
20 1981年
6月21日
A面 恋の川 はぞのなな たきのえいじ 伊藤雪彦 SV-7121
B面 好きなひと
21 1982年
10月21日
A面 夜の新宿しのび逢い たかたかし 市川昭介 斉藤恒夫 SV-7257
B面 あなたに惚れちゃった
22 1983年
10月5日
A面 ツキツキ小唄 伊藤アキラ 佐藤寛 馬飼野康二 SV-7342
B面 惚れました はぞのなな 岡千秋 斉藤恒夫
23 1985年
3月21日
A面 いけず 千家和也 三木たかし 高田弘 SV-9002
B面 わかれてあげるわ
24 1985年
11月5日
A面 時雨宿 初信之介 岡千秋 池多孝春 SV-9072
B面 波の花 水木かおる 弦哲也 丸山雅仁
25 1992年
7月22日
01 島田のブンブン 田口洋 山田一平 伊戸のりお VIDL-10261
02 恋囃子
26 2007年
4月18日
01 恋情・香春町 開田豊 吉川みき SURSU-2
02 流れ星キラリ
27 2011年
8月24日
01 人生一花 峰崎林二郎 三浦丈明 猪股義周 WKCL-7070
02 閉め忘れた窓 石田光輝
28 2018年
2月21日
01 一歩坂 さいとう大三 泉盛望 Deep寿 TJCH-15580
02 しょんがいな 結木勝揮 平山むつみ
29 2019年
8月28日
01 昭和の女 にしかずみ 泉盛望 TJCH-15631
02 一歩坂 さいとう大三 泉盛望 Deep寿

デュエット・シングル

[編集]
発売日 デュエット A/B面 タイトル 作詞 作曲 編曲 規格品番
1977年 橋幸夫 A面 お祭り音頭 吉川静夫 吉田正 寺岡真三 MV-1093
B面 ふるさと囃子

アルバム

[編集]
  • 演歌17才(1975年、GX-1008)
  • あなたにあげる(1975年、SJX-198)
  • 西川峰子スーパーデラックス(DX-10036)
  • ふたりの秘密(1975年、SJX-210)
  • 十九の夢(1976年3月25日、SJX-10127)
  • 演歌18才(1976年7月25日、SJX-10142)
  • ギター流して今晩わ(1977年3月5日、SJK-10183)
  • 故郷への便り(1977年7月5日、SJK-10196)
  • いっちゃえ いっちゃえ(1978年5月25日、SJX-20064)
  • 銀座カンカン娘(1978年、SJX-20090)
  • 帰郷(1979年3月5日、SJX-20113)
  • GOLDEN☆BEST やまびこ演歌・西川峰子(2007年11月21日、VICL-62659)
  • 女優・仁支川峰子が文芸作品を唄う(2014年6月11日、POCE-3452)

タイアップ曲

[編集]
楽曲 タイアップ
1979年 あしたの幸せ フジテレビ系ドラマ「微笑日記」主題歌

出演

[編集]

映画

[編集]

Vシネマ

[編集]
  • 卍舞Ⅲ いかせてあげる、極楽浄土(1996年)
  • かまいたち39歳(1997年)- 主演・素子
  • 極道の姐(2014年) - 主演・朱美(柳楽組三代目の長女)
  • 破門組(2015年) - 九州餓狼会会長 尾張知枝

イメージビデオ

[編集]
  • 一夜の夢恋人(1992年)大陸書房

テレビドラマ

[編集]

その他の番組

[編集]

他多数

NHK紅白歌合戦出場歴

[編集]
年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手
1975年(昭和50年)/第26回 あなたにあげる 15/24 橋幸夫
1976年(昭和51年)/第27回 2 峰子のマドロスさん 02/24 細川たかし
1977年(昭和52年)/第28回 3 ギター流して今晩わ 04/24 細川たかし(2)
1978年(昭和53年)/第29回 4 東京ラブ・コール 16/24 菅原洋一
注意点
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
  • 対戦相手の歌手名のカッコ内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にあるカッコはトリ等を務めた回数を表す。

CM

[編集]

書籍

[編集]

写真集

[編集]

著書

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 当日は西川の故郷の人たちが応援に駆けつけてくれた。歌唱前に司会者から「故郷の皆さんがお越しです」と紹介され、本人は「紅白という大舞台の中、故郷の人たちのおかげで本当にホッとしたし嬉しかった」と回想している[10]
  2. ^ 作中では病気により、布団部屋で一人半狂乱で喀血しながら「誰でもいいからさ、抱いておくれよ。お願いだから。ねぇ、ここ、噛んで!」と絶叫する。
  3. ^ 本人は後年、「見てくれた女性の方に、『私も若かった頃の記念にヌードを撮って残そうかな』って思ってくれたら嬉しい。また、私の写真集を身内で保管してもらって、私が亡くなってからも『峰子おばちゃんてこうだったの?!』みたいに語り継がれていくのが理想です」と語っている[4]
  4. ^ また滞在中西川以外のスタッフたちは現地のものを食べて全員お腹を壊したが、本人は日本から持参したレトルト食品だけを食べていたため一人だけ大丈夫だった[4]
  5. ^ 35歳以降も写真集を出しているが、本人は後のインタビューで「その後もヌードのオファーは来たが一切受けていません」と発言している[4]。詳細は不明だが、以後の写真集では着衣のグラビアを新しく撮っても、ヌードは過去の写真を掲載している模様。
  6. ^ 先述の子供時代の通学により成人までに丈夫な骨になっており、骨の状態を知らないままかなりの長距離を歩いたことで炎症を起こした。
  7. ^ この時について本人は後に、「はたから見れば静かに眠っているようでしたが、当の私は息ができず、苦しくて苦しくて、それがお医者さまには届かないんです。『あぁ、死ぬときってこんなに苦しんだ』と思いましたね。一種の悟りというか……。よく、亡くなった人のことを『穏やかな最期でした』って言うけど、とんでもないことですよ。そのまま3日間で10回呼吸困難に陥った後、何とか息を吹き返しましたけど」と述懐している[12]
  8. ^ 改名直後に甲状腺の乳頭癌が判明した。本人はこれについて「『改名は逆効果』と思うかもしれませんが、私はむしろ改名したからこそ奥にいたがんが早く出てきて命が助かったと思っています」とのこと[4]
  9. ^ 本人はさらに、「“嫌われたくないから”と言いたいことを言わないのは良くないと思っています。万人なんかに好かれなくていいんです。100人いたら2~3人、自分のことを好きでいてくれる人がいたらいい、という感じで自由に言わせてもらっています」とも述べている[6]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 高須基仁 (2009年5月7日). “威風堂々・西川峰子“熟年恋愛”…熟女ブーム先駆け”. ZAKZAK. 2012年5月19日閲覧。
  2. ^ a b c TV美女50人「女優力」最新ランキング(3)ブッタ斬りインタビュー”. アサ芸プラス (2012年1月26日). 2012年5月19日閲覧。
  3. ^ a b アサヒ芸能 2012年5月24日号 p. 66 -69
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 週刊実話2023年6月22日号・美女ざんまい「実話劇場」ゲスト・仁支川峰子p70-73
  5. ^ a b 「尽くしすぎ」原因? 歌手の西川峰子が正式離婚”. ZAKZAK (2009年4月27日). 2012年5月19日閲覧。
  6. ^ a b 何度も試練経験の仁支川峰子「人間死ぬまで修行、怖がり過ぎは無意味」(その3)”. NEWS ポストセブン (2022年1月25日). 2023年7月30日閲覧。
  7. ^ 熟女ヌードで人気、西川峰子を見守るクールな愛の影”. ZAKZAK (2008年3月27日). 2012年5月19日閲覧。
  8. ^ 西川(仁支川)峰子がん摘出 6・1復帰”. 日刊スポーツ (2010年5月25日). 2012年5月19日閲覧。
  9. ^ 仁支川峰子「岡江さんとの縁がありました」 生前所属の「スタッフ・アップ」に移籍”. スポニチ (2021年1月6日). 2021年9月28日閲覧。
  10. ^ a b c d 週刊ポスト1月7日号紅白落選「私はこう乗り越えた」p155
  11. ^ 何度も試練経験の仁支川峰子「人間死ぬまで修行、怖がり過ぎは無意味」(その1)”. NEWS ポストセブン (2022年1月25日). 2023年7月30日閲覧。
  12. ^ a b c 何度も試練経験の仁支川峰子「人間死ぬまで修行、怖がり過ぎは無意味」(その2)”. NEWS ポストセブン (2022年1月25日). 2023年7月30日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]