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長谷川芳之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長谷川芳之助

長谷川 芳之助(はせがわ よしのすけ、1856年1月22日(安政2年12月15日[1][2][3][4])- 1912年大正元年)8月12日[3][5][6])は、明治期の鉱山学者、実業家政治家衆議院議員工学博士

日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威松本荘一郎志田林三郎原口要がいる。

経歴

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肥前国松浦郡唐津城[2]佐賀県東松浦郡唐津町[7]を経て現唐津市[6])で、唐津藩士・長谷川久徴の長男として生まれた[2][4][6]。長谷川家は代々同藩数学師範を務め[4]、父は剣術にも優れていた[2]。8歳で藩校に入り漢学を修めた[2]。また父から数学を[4]、佐藤与造から蘭学を学ぶ[4]。父の大坂在勤に従い[2]、1868年(明治元年)長崎通詞何礼之から英学を学び[2][4][8]、大阪開成所(のち大阪英語学校)で英語を教えた[2][5][8]。1872年(明治5年)唐津藩貢進生として大学南校に入学し[2][6][7][8]開成学校に改組され化学を学んだ[2][3][5][8]。1875年(明治8年)7月、文部省留学生に選ばれ米国留学を命ぜられ、南部球吾とともにコロンビア大学で採鉱冶金学を学んだ[2][3][4][5][6][7][8][9]。学位を受け[8]、日本への帰途、ドイツのフライブルク大学で製鉄業を修めて[3][6]、1880年(明治13年)8月に帰国した[2][6]

三菱会社に入社し[2][3][5][6][7][8]高島炭鉱に配属された[9]。その後、吉岡鉱山長、本社副支配人兼尾去沢鉱山長などを務め[3]、鉱山・炭鉱の開発、採掘、経営に参画した[2][5][7][8]。1896年(明治29年)に退社して帰郷し[6]、肥前牟田部炭鉱、筑前藤棚炭鉱、赤堀炭鉱の経営を行った[5]。また、日本の製鉄業創始を主張し、製鉄事業調査委員、製鉄所創立委員、製鉄所事業調査委員を務め、製鐵所(官営八幡製鐵所)の創設に貢献した[3][4][5][6][7][8]

1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、無所属)で当選し[4][8][10]、衆議院議員に1期在任した[5][7]。なお、鳥取県からの出馬の経緯は不明である[8]国家主義を唱え、日露戦争前には対露同志会などに加わり、対外硬を主張した[6][8]

親族

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脚注

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  1. ^ 衆議院『衆議院議員名簿』〈第十七回帝国議会衆議院公報第1号附録〉、1902年、20頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本博士全伝』19-20頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『朝日日本歴史人物事典』1315頁。
  4. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 初版』106-107頁。
  5. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』505頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『佐賀県大百科事典』673頁。
  7. ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』356-357頁。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 『鳥取県大百科事典』799頁。
  9. ^ a b 麻島昭一 『三菱合資会社の経営者層 ―直営事業分離以前― 専修大学社会科学研究所 社会科学年報 第22号 1998年3月
  10. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』27頁。
  11. ^ a b 「久保田久一」『人事興信録 第8版』ハ33頁。

参考文献

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  • 荻原善太郎編『日本博士全伝』岡保三郎、1888年。
  • 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 『佐賀県大百科事典』佐賀新聞社、1983年。
  • 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。