刑事は容疑者から聴取する

 画面で見るよりも小柄だな。龍二は取調室で座っている小弓を見てそう思った。吉良小弓、23歳。1児の母にして夫を刺殺した可能性のある容疑者。背中まで伸びた髪は、無造作にバレッタでまとめめられている。目鼻立ちは流石に整っているが、派手さはない。きらびやかな衣装よりも、和装が似合いそうな顔だ。メイクもせずに目を伏せ、悄然しょうぜんとしているためにそう思うのかもしれない。龍二は向かいの席につき、挨拶を済ませると本題に入った。


「証言を確かめるために現場に行ってきました。2、3確認させてください」

「はい」

「今朝、あの部屋で起きた事をもう一度話していただけますか。特に、宏隆さんが部屋のどこを通ったのか、を意識して」

「ええと、8時前でしょうか。夫が朝食のテーブルに着くとすぐに口論になりました。パンの焼き方がどうのこうのとかの些細な事で。そのうち夫はヒートアップして、私を叩きました。いつもの事なので黙って耐えていると、その姿が気に入らないのか、立ち上がってさらに。その音で目が覚めたのか、寝室の希美のぞみが泣き始めたんです。そしたら夫が『うるさい!』と怒鳴って」


 小弓は机を見つめたまま、淡々と話す。目を伏せていると、そのまつ毛の長さが良くわかる。


「寝室の方へ向かおうとしたので、慌てて止めました。でも、振り払われて。そこでカッとなったんです。このままでは希美も危ない、と。それでシンクにあった包丁を持って夫を刺しました」

「部屋のどの辺りだったのでしょう」

「ええと、キッチンのテーブルのすぐ横ですから、部屋の真ん中あたりです」


 小弓は初めて龍二の目を見て答えると、また俯いた。


「わかりました。宏隆さんの腹部のどの辺りを刺したかは覚えていますか」

「寝室に向かおうとしていた夫が振り返った時に刺したので、こう……。左の脇腹あたりだと思います」


 小弓は包丁を構えて突き出すような動作をしながら答える。――包丁。振り返った時。左脇腹の刺創しそう。致命傷となった傷口の形状、場所ともに一致している。


「その後、どうなったのでしょうか」

「夫は信じられないといった顔をしていましたが、すぐに鬼のような形相になって私の肩を掴むと、そのまま玄関の方へと押しやられました。そして、屋外へと投げ飛ばされて、鍵を閉められたんです」

「その時、家の鍵はお持ちでなかったんですね」

「はい。鍵どころか靴さえも。部屋着にスリッパのまま締め出されました」


 鍵も靴も、という事は、もちろんスマホも財布も持っていなかったのだろう。では、もう一つの大事な物はどうだったのか。龍二は何でもないように尋ねてみた。


「そのとき、包丁はどうなっていたのでしょう」

「包丁……わかりません。あの人に刺さったままだったのか、それとも、床に落ちたのかもしれません。少なくとも、私は持っていませんでした」


 証言通りとすれば、凶器は部屋の中に留まったままのはずだ。だが、実際は新浜の手に渡っていた。龍二は疑問を持ったが、軽く頷いて先を促した。


「わかりました。部屋を閉め出された後はどうされたのですか」

「そのまましばらく呆然としてしまって。何をしていいかわからずに、近くの公園へ行ってベンチに座ってボーっとしていました。そのうち救急車の音が聞こえて……。それで、我に返って、自分のした事に気付いたんです。自首しようと思ったのですが、なかなか踏ん切りがつかずにもたもたしていたのですが、やはり、しなければいけないと思って。それでこちらに伺いました」


 小弓は話し終えると、ちらりと龍二を見て、また視線を下げた。小弓の供述は、現場の状況と矛盾点は無い。血痕から察する部屋の中での動きも問題ない。出頭してきたときに、部屋着にスリッパのままだった点とも一致する。――ただひとつ、凶器が部屋の外に持ち出されていたという大きな問題点を除けば。


 龍二は生安から借り出したファイルを取り出し、小弓の前で開いた。


「この写真と診断書は、1カ月ほど前にあなたがDVの相談をされた際に持ち込んだものに間違いありませんか」

「はい」


 頬に腕、背中が数カ所。プリントされた写真は顔が見える写真と、傷を大写しした写真が5組あった。


 どれも、DVの証拠となる写真を撮影するときのセオリーに沿っている。傷の写真だけであると、加害者側から「本人のものではない」と主張されるケースがあるため、顔と傷が一緒に映っている物をセットで添えるのだ。拡大された傷跡の写真は、どれも青黒くうっ血したような痕跡を残し、見るからに痛々しい。痛々しいが、証拠としては申し分なく完璧だ。


「この写真に診断書を作成したのは、新浜診療所の新浜さんと伺いましたが。間違いありませんか」


 龍二は診断書のコピーの署名を指さしてたずねる。


「はい。新浜先生の所で診断と撮影をして貰いました。その……DVの証拠を残しておいた方がいいと勧められて」

「なるほど。新浜さんとは親しかったのでしょうか」

「え? ええ。以前、私がその、アイドルをやっていた事をご存じで。診療所も近いので、何かとお世話にはなっていました。ただ、特に個人的に親密というわけではないのですが」


 小弓は質問の意図を計りかねているのか、少し警戒するような様子で答えた。龍二はじっとその目を見つめ、少し間を置いてから疑問をぶつけた。


「実は、新浜さんが自首されてきました。宏隆さんを刺したと言っています。なぜでしょうかね」

「えっ? 新浜先生が……?」


 小弓は立ち上がらんばかりに驚いた様子だった。これが演技だとしたら大したものだ。アイドルでなく、役者としてもやっていけるだろう。龍二はその反応を見極めると、ファイルを閉じた。


「そうなんです。理由をご存知ですか」

「いえ……なんで……。わかりません。だって、夫は私が刺したんです。この手で。刑事さん、信じてください。そして、新浜先生のいう事は信じないでください。理由は分かりませんが、先生は嘘をついています!」


 龍二は黙って頷く。どうやら、本当に新浜が自首したことは知らないようだ。これで、2人が共謀したというセンは薄くなったか。――いや、演技なのかもしれない。


「伺っておきます。警察としても、実際、何が起きたのかを慎重に調べさせていただきます。もう少しお時間を下さい。それでは、ありがとうございました」


 ファイルを持って部屋を去ろうとすると、小弓が声をかけてきた。


「あの! 希美は……希美はどうしているんでしょうか」

「安心してください。児童相談所の方で預かっていただいていますよ」

「そうですか。良かった」


 その声は、心底安堵した母の声のように聞こえた。


##


 新浜啓二は背筋を伸ばし、堂々と椅子に腰かけていた。年齢は34歳、規模は小さいながらも開業医。背はそれほど大きくなく、多少ずんぐりしているものの、がっしりとした体格をしている。龍二が向かいに腰掛けると、慇懃に頭を下げてきた。


「刑事さん、よろしくお願いします」

「こちらこそ。早速ですが、今朝起きた事をもう一度確認させてください」

「はい、今朝の8時頃、吉良家を訪問しました。以前から小弓さんがDV被害を受けていると相談されていたため、定期的に訪ねていたのです」


 新浜は淀みなくハキハキと答える。


「なるほど。ところで、なぜ、小弓さんは新浜さんの所へ相談へ行かれていたのでしょう」

「はい。もうお調べになっているかとは思いますが、私と吉良君は、小弓さんがアイドル時代の頃からの友人です。彼とは3つ年が離れていますが、共にいわゆるドルオタでして、小弓さんの属していたグループを応援しているうちに、意気投合したのです。その後、小弓さんは吉良君と結婚し、アイドルを引退しましたが、それ以降も吉良君と私は変わらず付き合いを続けていました。ちょっと変則的ですが、家族ぐるみの付き合いというんでしょうか、そんな形で付き合いをさせてもらっていました。家もご近所という事もあり、2人が体調を崩した時には、自然とうちで診させていただいていたのです。DVの相談も、その延長線上のような形で受けました」


 吉良と元々知り合いだったという話は、小弓の証言とも矛盾しない。龍二は頷いて先を促した。


「わかりました。では、訪問後のお話を続けて下さい」

「はい。いつもはリビングキッチンに通してくれるのですが、今朝に限って中には入れたくない様子でした。もしかしたらと思い、少々強引に入ったのです。すると、キッチンが荒れていたのです。まるでさっきまで喧嘩をしていたかのように」


 新浜は龍二の目を見て、「何が起きていたかは、わかりますよね」とでも言うようにゆっくり頷いた。


「私は吉良君を問い詰めました。また手を上げたんじゃないだろうな。小弓さんはどこだ、と。しかし彼はとぼけるばかりで。小弓さんを呼んでも返事はなく、家の中にはいないようでした。そうこうしているうちに口論になり、そして……カッとなってしまい、シンクに置いてあった包丁を手にして彼を刺してしまったのです。申し訳ございませんでした」


 新浜は額が机に着く程頭を下げた。だが、龍二はその姿に頓着せずに淡々と質問を投げかける。


「その際、吉良さんのどこを刺したのかは覚えていますか」

「場所……。ええと、私は右利きですので、包丁をこう両手で構えて踏み込んで突き出したはずですから、彼の右の腹辺りだったと思います。興奮していたので、うろ覚えですが」


 新浜は実際に包丁を持っているかのように両手を構え、ぐっと体を左側に捻って、真っすぐ突き出して見せた。


 右わき腹。右利きの人物が被害者と正対し、新浜が身振りで示したように突き出した場合、傷口はその辺りになるのだろう。だが、今回の被害者の傷の位置とは反対側だ。憶測から位置を想像しているに過ぎないのだろう。龍二は表情を変えずに頷いて質問を続ける。


「包丁で刺した後は、どうされたのでしょう」

「はい。はっと我に返ったのですが、恐ろしくなって包丁を持ったままその場から逃げ出しました。医者であるのに、手当もせずに。本当にすみません。そのまま診療所へと出勤し、知らぬふりをして業務をしようと思ったのですが、やはり自首するべきだと考えて出頭させていただきました。……あの、吉良君の容体はどうなのでしょうか」


 新浜は探るような目で龍二を見ていた。龍二は少し迷ったが、正直に告げることにした。


「自力で119番に連絡して救急車で搬送されましたが、手遅れでした」

「そう……ですか」


 新浜は心底ショックを受けたかのようだった。その眼にはうっすらと涙まで浮かんでいる。


「彼は……吉良君は刺された相手の事をなんて言っていましたか」

「誰に刺されたかは言及していなかったそうです。ただ『腹部を刺された』と。そこで意識を失ったようです」

「そう……そうですか。刑事さん、彼を刺したのは私なんです。きっと彼は私を庇って何も言わずに……。提出した包丁が何よりの証拠です。指紋なり、血液のDNAなりを調べて下さい」


 絞り出すようにそう言うと、新浜は下を向き、肩を震わせ、声を殺して泣いているようだった。先ほどまでの凛とした姿はもうどこにもない。そこへ龍二は、淡々と声をかける。


「はい。現在鑑定中です。ですが新浜さん、少し問題があるのです。あなたの他に、もう一人自首をしてきた人物がいるんです」

「えっ!?」


 新浜は不自然なほど大きな声を出し、がばっと顔を上げた。


「誰なんですかそれは」

「小弓さんです」


 龍二はそう答え、新浜の反応を伺った。新浜は、絶句したまましばらく動かなかった。やがて、思い出したかのように息を吐くと大きくかぶりを振った。


「そんなバカな。吉良君を刺したのは私です。凶器を見て下さい。なぜ小弓さんが……」

「我々も、それを知りたいと思っているのです。もう少しお時間を下さい。それでは、後ほど」


 新浜の反応を見据えると、龍二は一礼して席を立った。


##


 2人の証言と現場の状態を照らし合わせると、信ぴょう性の高い供述をしているのは小弓の方だ。凶器の件を除いて、矛盾はない。


 だが、その凶器の存在が最大の問題だ。新浜の供述は所どころ曖昧で、傷の位置も実際と異なり、犯行後に一旦診療所に出勤するというのも不自然に思える。恐らく、嘘をついているとすれば新浜の方だ。


 だがしかし、新浜には強力な物証としての凶器がある。あれほどまでに言うからには、指紋や血液は、新浜の物と被害者の物なのだろう。


――なぜ、新浜が凶器を手にしたのか


 その謎が解ければ、事件の全貌が明らかになるのだろう。だが、その手掛かりが龍二には思いつかなかった。ふと、龍二は竜太郎の事を思い出した。


「そうだ。いったん義父さんを迎えに行かないと」


 竜太郎をサウナに置いてきてから3時間程が経過している。そろそろひと風呂浴びて、ひと眠りも済んだ頃だろう。とりあえずは迎えに行って、家でゆっくり寛いでおいてもらおう。よし。善は急げだ。


 龍二は敷地へと向かう事にした。あわよくば、サウナ後の探偵の力を借りられることを期待して。

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