二.廃庭園の主
温室は、廃ホテルの片隅に存在していた。
すっかり荒れ果てている寂しい庭園を通り抜け、天潤は温室を見上げる。こじんまりとした作りだ。嵌めこまれた硝子は、ところどころひび割れている。
硝子の扉に触れると、ざらざらとした感触が掌に伝わってきた。
「……温室に磨り硝子? なんだか変わっているわね」
これではあまり日光を得られないのではないか。
思えば温室に限らず、廃ホテルで使われている硝子はほとんどが磨り硝子か、細かな模様を施した硝子だったような気がする。
罪王のこだわりだろうか。首を傾げつつ、天潤は扉を開けた。
「……お邪魔します」ひとまず挨拶をして、足を踏み入れる。
庭園とは打って変わって、温室の内部はずいぶん手入れがされているようだった。天井の一部が開放され、そこから陽光が差し込んで来ている。
煉瓦を敷き詰めた道の先に、罪王はいた。
こちらに背を向けている。どうやら、植物に水をやっているらしい。
「おはようございます……罪王様」ひとまず天潤は挨拶した。
「しばし待て」挨拶は無視された。
じょうろを置き、罪王は茂みを確認する。
そうして、沈黙が落ちた。天潤は落ちつきなく指を絡ませ、罪王の反応を待った。
ここまで離れていると、霊眼ではあまり表情が読み取れない。やがて焦れた天潤は恐る恐る罪王の後ろに近づき、ためらいがちに口を開いた。
「……それは、なんの植物ですか?」
「薔薇だ」
「咲いているのですか?」
「まだだ」
「ああ……道理で、あまり香りがしないものだと」
天潤は何度かうなずくと、あたりを見回した。
ここはちょうど温室の中央に当たるらしい。
様々な草花が、淡い日光を受けているのが見えた。大きな植物はあまりないが、見知ったものから珍しいものまで、様々な種類の植物あるのがわかった。
「
「……においだけでわかるのか?」
罪王の声に驚愕が滲む。天潤はというと、むしろ罪王の反応に驚いていた。
昨夜は、ひたすらに残酷な人外だと思っていた。けれどもほんの一瞬だけ、天潤には罪王がごく普通の人間のように見えた。
――惑わされてはいけない。目の前にいるのは、忌むべき瞳を欲する魔人なのだから。
「……視覚以外だと、少しだけ自信があります」
うつむいて、天潤は訥々と言葉を連ねた。
「花は、嫌いじゃないです。色はわからないけれど、香りは好き。師からは方術や武術のほかに、様々な草花を教えてもらいました。薔薇は、見たことがないけれど……」
「……そうか」短く答えると、罪王はまた薔薇の手入れを始めた。
「ここの植物は、全部罪王様が?」
「……玄玄にこんな事ができると思うか」凄まじくひねくれた答えが返ってきた。
「えっと……」
答えに窮す天潤を鼻で笑って、罪王は振り返った。
「そんなことはどうでもいい。――それよりも、だ」
近づいてくる罪王に、天潤は思わず首をすくめる。
かなり背が高い。履いている靴の踵の高さを除いても相当の長身だ。間近に立つと、天潤はほとんど彼を見上げる形になった。
圧倒されている天潤の首の付け根に、罪王はとんと指先を置いた。
「晶肉は完全にお前の肉体と同化した。もう動いても問題はないだろう。どう過ごそうがお前の自由だ。男でも阿片でも人殺しでも好きにしろ」
「全部やらないです」天潤はぶんぶんと首を横に振った。
「そうか。興味はない。……いいか、この二つだけは覚えておけ。幽龍から出ることは絶対に許さん。そして、出かけたら五時までには戻れ」
「きびしい」
ほぼ反射的に口から言葉が飛び出た。
奇妙な沈黙が二人の狭間に落ちた。罪王は小さく咳払いをした。
「……六時までには戻るようにしろ」
若干、譲歩してくれたらしい。こくこくとうなずく天潤に、罪王は手を伸ばした。
「とはいえ、私も多忙の身だ。四六時中、お前を監視するわけにはいかん。だから念には念を入れておく。――左手を貸せ」
何をするつもりか――玉蓮真人にある程度の方術を教わった天潤にはわかっていた。
だから天潤は一瞬ためらった。しかし諦めて、左手を差し出した。
すぐに折れそうなほどの力で手首を掴まれた。
顔を歪める天潤に構わず、罪王は指先を掌に滑らせた。
瞬間、そこから黒い道文字が無数に生じ、小さな蛇の如く天潤の腕に絡みついた。
神経が炙られるような熱を腕に感じ、天潤は呪帯の下で眉をしかめる。
道文字は一瞬で広がり、そうして見えなくなった。
「……これで良い。これで、お前は私から逃げられん」
満足げな囁きとともに解放された左手を、天潤は何度か開き閉じした。
今、ここに罪王の呪縛が施された。解呪は難しいだろう。
「――約束を違えればただでは済まさん。いいな?」
「……承知しております」
「クッ、物分かりが良いことだ。……良いか、解呪しようなど考えるだけ無駄――」
罪王が、口を噤んだ。
目を見開き、落ち着きのない様子で視線を周囲に走らせる。
「……罪王様?」
まるで危険を察知した獣のような様相の罪王に、天潤は恐る恐る声を掛ける。
その時、微かな叫び声が聞こえてきた。玄玄の声だ。
「――ザイ!
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