第12話

 そんなこんなでトラブルもありながらも、私はこの不思議な世界で、割と穏やかな生活を送っている。

 楽しかったり驚いたり、プラスマイナスでいえばややプラスくらいの生活を。


 誰にも縛られない自由気ままな生活の中で、私は探索の傍ら元いた世界ではできなかった事をやってみたりもした。


 例えば、好きなものを好きなだけ食べるという事。

 私は甘い物が好きで、よくコンビニやスーパーでスイーツを買って食べていたのだが、食べ終えた後でいつも物足りなさを感じていた。それは味のせいではなく、量の少なさによるものだ。


 私は特別食いしん坊というわけでもないし、同年代の女の子達と比べて小柄で痩せっぽっちではあるけれど、食べ盛りの女子が掌サイズのスイーツの一つや二つで満足できるはずがないではないか。

 でも、私はバイトをしていなかったし、家も特別裕福ではなかったので、他の同年代の女の子達と同じく懐具合はいつも寂しかった。

 そんな私からすれば、スイーツを好きなだけ買ってお腹いっぱい食べるということは、夢のまた夢とまではいかないけれど、なかなか実行に移せない程度には贅沢な事であった。


 ある日私は探索の帰りに立ち寄ったコンビニで、目についたスイーツを片っぱしから買い物かごに入れて、マンションへと持ち帰った。そしてそれらをズラリとダイニングテーブルに並べ、食べ比べをした。

 はっきり言って幸せだった。

 プラスチック製のスプーンによって次から次へと口に運ばれてくる舌触りの異なる甘さの塊と、鼻を抜けてゆく様々な香りの暴力に、思わずうっとりとしてしまったほどだ。


 それから、電気屋さんで手に入れたモニター付きのハンディカラオケをイベントステージのある公園に持ち込み、一人コンサートをしてみたりもした。私はどちらかといえば音痴な方ではあるけれど、歌うのは結構好きなのだ。

 広い場所で人目を気にせず思いっきり歌うのは爽快感があって楽しかった。

 ただ、無人のイベントステージに反響する自分の歌声はやっぱり音痴で、誰が聞いているわけではなくても少し恥ずかしかった。


 その他にも色々な事をやった。

 服屋の試着室でファッションショーをしたり、見たかった映画を全部借りてきて映画大会を開いたり、徹夜でゲームをクリアしたり、とにかく色々だ。


 しかし、どれだけ欲望を満たしても、心の奥には常に一つの感情があった。


 それは————


 何かをしている時は、確かにその感情から目を逸らす事ができた。でも、その感情から逃げようと思うほど、ふとした瞬間にぶり返すかのように、その感情が胸の内から強く湧き上がってくるのだ。そしてその感情は日が経つ毎に徐々に強くなっていった。


 探索を続けていても、相変わらず脱出の手掛かりも、私以外の人間も見つからない。

 ただ一つわかった事は、この世界には人間だけでなく、動物もいないということだ。犬も猫も、鳥も魚も、虫さえもいない。つまり、今この世界に存在する生命体は私一人なのだ。

 その事実が、私の胸を侵食するその感情をさらに強くしていた。


 私は焦っていた。

 これ以上その感情が大きくなる事が不安で、怖かった。

 そして、もし一度でもその感情が溢れ出してしまえば、自分がどうなってしまうのかわからなかった。

 こんなに大きな不安に襲われるということは、やはりこの世界は私がいるべき場所ではないのだ。

 私は元いた世界に帰らなければいけない。


 だから、私は一つの決心をした。


 閉じられたカーテンの隙間から漏れる朝日が、支度をする私の頬を照らす。

 前日に半日かけて119号室を綺麗に掃除した私は、雑貨屋で調達したリュックサックを背負い、寝室を後にして、玄関で真新しいスニーカーを履いた。

 リュックサックの肩紐から伝わる衣類や食料の重さと、新しい靴特有のぎこちない固さが、私の心情を表しているかのようだ。


 いつの間にかすっかり履き慣れてしまったデニムのポケットには、十日ぶりに充電をした役立たずのスマートフォンが入っている。


 キツめに靴紐を結び終えた私は立ち上がり、ひんやりと冷たく、いつもよりもやや硬く感じるドアノブを捻り、押した。

 蝶番が軋む音が辺りに響き、まるで部屋が呼吸をするかのように室内に新鮮な外気が流れ込んでくる。


 まだ冷たい早朝の空気で肺を満たしながら、私はこれまで寝泊まりをしてきた119号室を振り返る。

 もしかしたら、もう戻る事はないかもしれないと思いながら。


 ピチョン……と、部屋が私に別れを告げているかのように、ダイニングの蛇口から水滴が落ちる音が聞こえた。

 私は部屋に一礼をしてからドアを閉め、歩き出す。


 エレベーターで一階に降りてエントランスを出ると、眼前には見慣れた駐車場が広がっており、その向こうには駐車場とは比べ物にならない程に広大な空間と、そこに浮く無数の島々が見える。


 そして私の頭上には、初めてこの世界を訪れた日と変わらない、まるで私を見透かしているかのような美しい青空が広がっていた。


 今日、私は旅に出る。

 本格的に脱出の手掛かりを探すための旅に。


 それは、私がこの世界に来てからちょうど一ヵ月目の事だった。

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