第49話

 家を出た鈴木君と私は夜の町を走り、雑居ビルの屋上へとやってきた。


 走ったせいで荒くなった息を吐きながら、私は鈴木君に問う。


「ど、どうして……鈴木君が家に……?」

 鈴木君は少し考えて答える。


「よくわかんねぇけど、お前が助けを求める声が聞こえたんだ」

「私の声?」

「おう、なんか急に頭の中に響いてきたんだよ。『助けて』って」

 そんな、まるでテレパシーのような事が現実にあり得るだろうか。


「えと……なんて言ったらいいかわからないけど……。ありがとう」

「別にお礼を言われるような事してねぇよ。それより、親父さんぶん殴ってごめんな」

「いいの! あんな人……。あんな人達……」

 鈴木君の登場と行動には驚いた。

 でも、鈴木君がお父さんを殴った時、少し心が晴れたのは確かだ。


「お前、これからどうするんだ?」

「……どうしようかな」

 私にはどこにも行く場所がない。

 行く場所があったとしても、両親の性格からしてどこまでも追ってくるだろう。

 陸の事も放ってはおけない。


 結局私はあの家に帰るしかないのだ。

 そして家に帰ったら、またあの家族が私を待っている。


 高校を辞めて働き、陸が大学を出るまでの十数年、家のローンが終わるまで二十年、両親が死ぬまでは何年あるだろうか。私はその間ずっと、あの家に縛られ続けるのだろうか。

 せめて陸が高校を出るまで……それでもまだ十年以上はある。

 その頃には私は二十代後半。

 人生をやり直すには何歳でも遅くはないという。

 でも、それまで私は耐える事ができるだろうか。

 耐えたとして、人生で最も貴重な時間をあの家で過ごした後の私に明るい未来など待っているだろうか。

 きっと一生恨みと後悔を抱えて生きてゆく事になるのだろう。


 結婚して、子供ができたとしても、何かある度にあの両親の事を思い出すのだろう。


 そんな人生を送るくらいなら私は————


 私はよろめくように、屋上の端へと歩みを進める。


「おい、雨宮!! 待て!!」


 背後から鈴木君が私を呼ぶ声が聞こえた。


 でも、もういい。

 もういいんだ。

 何も考えたくない。


 鈴木君が私の腕を掴むが、もう遅い。

 足を踏み出した私の全身を、夜の闇と浮遊感が包んだ。


 それは、九月の十八日、私が天空マンションを訪れる前日の事だった。


 ☆


 そうか、全部思い出した。

 私はあの世界から逃げるために、自ら死を選んだのだ。


 走馬灯のような記憶の再生が終わり、私は目を開ける。

 いつの間にかベッドに寝ていた私は消えており、目の前にはもう一人の私が、そして隣には鈴木君が立っていた。


「おかえりなさい」

 そう言ってもう一人の私は微笑む。


「どう? 全部思い出した?」

「うん……」

「ね? ろくでもない人生だったでしょう? これでもまだ元の世界に帰りたいと思う?」

 急激な疲労感に襲われた私はガックリと床に膝をつき、首を横に振る。


「……嫌だ。あんな世界に帰りたくない」

「そうでしょう。あなたはこれまで頑張ってきた。だから、後はこの世界でゆっくり過ごせばいいの」


 もう一人の私は私に向かって手を伸ばす。

 しかし、私の前には鈴木君が立ちはだかった。


「いや、雨宮。お前は元の世界に帰るんだ」

「鈴木君……」

 そうだ。

 私には鈴木君がいた。

 あの時私は死を選んだけれど。

 今の私にはあの時よりも強い絆で結ばれた鈴木君がいる。

 鈴木君と一緒ならきっと……。


 あれ?

 でも、何かがおかしい……。

 鈴木君はどうしてここにいるんだろう。

 それから————


「ふぅん。なるほどねぇ」

 もう一人の私は眉を顰め、しかし面白そうに頷く。


「そっか、記憶は、この世界の影響で失った記憶を取り戻しても元に戻らないんだ」

「……どういう事?」

「だっておかしいじゃない……」

 すると突然、鈴木君が声を荒げた。


「待て! それ以上言うな!」

「この世界を訪れたら嫌な記憶は消えるけど、それならどうして彼の記憶まで消えているの?」

 言われてみればそうだ……。

 確かに私は元の世界の嫌な記憶を忘れていた。

 でも、家族が存在していた事は確かに覚えていた。

 それならばなぜ鈴木君の事を忘れていたのだろう。


「雨宮! 余計な事は考えなくていい! 今は元の世界に帰る事だけを考えるんだ!」

 鈴木君は私の肩を掴み、揺さぶる。

 すると、もう一人の私が鈴木君を押し退けた。

 そして私の額に触れる。


「思い出せないなら、私が教えてあげる。あなたの本当の記憶を————」


 視界に霞がかかり、私の意識は再び記憶の奔流へと飲み込まれた。


 先程よりも細く、短く、しかし、嵐のように力強い記憶の奔流に。


 ☆


 そうだ、あれは私が鈴木君と映画を観に行った日から一月が過ぎたある日の放課後の事だった。


 私は駅で誰かを待っている様子の鈴木君の姿を遠目から見かけ、声を掛けようとした。


 すると、私より先に鈴木君に駆け寄った人物がいた。

 女の子だ。


 その女の子は、私が通う高校の近くにある名門女子高の制服を着ており、彼女と鈴木君の関係性は二人の表情と振る舞いを見ればなんとなく理解できた。

 それはまるで、付き合い始めの恋人同士のような————


 私が呆然として二人を見ていると、二人は私の方へと歩き始める。

 鈴木君は前方にいる私にすぐに気が付いた。


「おう、雨宮!」

 鈴木君は軽く手を上げて、何事もないように私に挨拶をする。

 私もぎこちなく手を上げて、鈴木君に挨拶を返す。

 そして、鈴木君とその隣に立つ女の子の顔を見た。


 女の子は、私の顔を見て驚いた表情を浮かべている。

 多分私も同じような表情を浮かべていただろう。


「まだ紹介してなかったよな。これ、俺の彼女の


 鈴木君の隣に立っていたのは、私の小学校時代の同級生である、『みーちゃん』だったのだ。


「鈴木君、彼女いたんだ……」

「いたっていうか、最近できたんだよ。ほら、この前友達とみっこの学校の文化祭行ってさ、メアド交換して、そっから、な?」

 みーちゃんはぎこちなく頷く。


「ごめんな雨宮、こいつ人見知りなんだよ。みっこ、これ、友達の雨宮」

「う、うん……。

 その一言で、みーちゃんが私とどう接しようとしているのかを悟った。


「は、はじめまして。鈴木君にはお世話になってます……」

「なんだよ堅苦しいな、お見合いじゃねぇんだからさ。じゃあ、雨宮またな!」

 鈴木はそう言って、みーちゃんと一緒に繁華街の方へと去って行く。

 私はその後ろ姿を、ただ見送る事しかできなかった。

 そして鈴木君もみーちゃんも、私の方を振り返る事はなかった。


 その時私は、自分が鈴木君に抱いていた気持ちに気が付いた。

 いや、とっくに気付いていた。

 でも、それを表に出す事ができなかった。

 これまでの人生経験で男性に対して本能的な恐れを抱いていたから。

 ううん、それは言い訳に過ぎない。

 ただ私は、鈴木君に好意を伝える勇気が無かっただけだ。

 臆病だっただけだ……。


 こうして私は心の拠り所を失い、また一人ぼっちに戻った。


 鈴木君は学校で時々話しかけてくれたけれど、徐々に疎遠になっていった。

 私は家だけでなく、外でも『無』の状態でいる事が多くなり、自分と対話をする事が増えた。


 そんな生活の中で私は、私が対話している『自分』と私自身の間に、明確に意見の食い違いが出始めた事に気が付いた。


 それは食べる物の選択から始まり、読みたい本の種類、トイレに行くタイミングと、徐々に増えてゆき、やがて私が『無』の状態の時は、ほぼオートマティックに自分が行動し始めた。


 それは私の人格の分裂を意味していた。


 分裂した人格は自分で物事を考え、自分の趣味嗜好を獲得し始めた。

 しかし、完全に制御不能というわけではなく、ある程度は私の思考に従ってくれるのだ。

 そしてその人格は、ゲームのキャラクターを育てるかのように、私好みの性格にカスタマイズする事も可能であった。


 そこで、私は更にもう一つ新しい人格を作る事にした。

 胸に空いた穴を埋めるために。


 その人格の名前は『鈴木秋斗』。


 そう、私は自分だけの鈴木君を手に入れるために、自分の中に私にとって都合の良い鈴木君を作ろうと考えたのだ。


 私は生活の全てをもう一人の自分に任せ、新しい人格に鈴木君の仕草、声、性格、趣味嗜好などの情報をプログラムする事に徹した。

 そして試行錯誤の結果、私の中に新しい人格が完成した。

 決して私から離れていかない、私だけの鈴木君の人格が。


 自分の中にいる鈴木君との対話は楽しかった。

 その鈴木君は本物の鈴木君と同じで、いつも私を励まし、元気付けてくれた。

 私に『無理に両親を許さなくていい』と言ったのも、私の中の鈴木君だった。


 そして、あの日お父さんを殴り飛ばしたのも……。


 しかし、結局私は現実に耐えられず、死を選んだ。

 鈴木君が私を止められなかったわけだ。

 だって、鈴木君は私の中にいたのだから。

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