人殺しのエヴィス

バカモン

Vol.1

2000.12-2001.08

第一章 灰色の山

「アルバニア人は古今の歴史を通じて、腕に鉄を織り込んでいました。家父長制の山岳民はつい昨日まで中世のような暮らしを営んでいましたが、その手には常に近代的な武器を握り続けてきたのです」

――イスマイル・カダレ『死者の軍隊の将軍』より






「わたしは誇りを持って、永遠の純潔をここに誓います」

 エヴィスは胸に手を当て、薄桃色の唇ではっきりと誓約ベーサの文言を唱えた。


 エヴィスはまだ10歳だったが、歳よりもやや大人びた少女だった。

 つややかな黒髪の下で銀色に近いグレーの瞳が利発そうに輝いていて、眩しいくらいのコントラストを放っている。


 身なりもきらびやかなもので、糊の利いたシャツの上に赤いベルベットに黒い絹と金糸で刺繍が施された豪奢ごうしゃなベストを着て、下は白に近いクリーム色のズボンを穿いている。


 それはバルカン半島の小国アルバニアの、そのまた片隅の山岳地帯に住まう人々が晴れの日にだけまとう伝統的な民族衣装であり――男が着るものだった。


 今エヴィスがいるのは、石造りの壁に囲まれた薄暗い一室。


 その周囲には、村の古老たちが胡桃くるみのような顔を並べている。


 そのうちの1人がエヴィスの背後に立ち、あらかじめ束ねられた後ろ髪にはさみを入れた。


 鋏の音が1つ鳴るたびにエヴィスの顔が引き締まっていき、ミルク色の顔が小さな美姫から王子へと変貌を遂げていく。


 三度鋏が入ると髪の房があっさりとわかたれて、美しかったロングヘアーがザンバラ髪へと変わった。


 晴れて宣誓処女ブルネシャとなったエヴィスの頭に、最後に白い半球型のプリス帽が被せられる。


 スカーフを被ることは、もう一生ない。






 無事に宣誓の儀式を済ませ、エヴィスは外に出た。


 視覚に暴力的な白の冷たさと眩しさをぶつけられて、たまらず目を細める。


 夜明け前からずっと暗い室内にいたから、目の前に広がる白い山脈をいきなり見るのは辛かった。


 山が白いのは、雪のせいだけではない。元より石灰岩を多く含んだこの大地は、近ければ灰色に、遠ざかれば白く見える。


 この国が白い大地アルバニアと呼ばれるようになった所以ゆえんだ。


「エヴィス!」

 同じ黒髪とグレーの瞳を持った、エヴィスより少しだけ年少の女の子が駆け寄って抱きつく。


 妹のルーレだ。ルーリエッタだからルーレ。エヴィスより2つ下で、顔立ちは似ているが性格は全然違う。

 賢く無口なエヴィスとは反対に、生命の花ルーリエッタの名前の通り、少し手がかかるほど元気に溢れたかわいらしい少女だった。


 それでも今日のルーレにはいつものような明るさが感じられず、ただ姉と引き離されて村の大人たちと一緒に待たされていた不安から駆け出したように見えた。


 エヴィスいなくなってしまうことを恐れているのかもしれない。


「エヴィスはなんで男の子になったの?」

「ぼくが働いて、ルーレが毎日パンを食べられて、いつかお嫁さんに行けるようにするためだよ」

 この地方は厳格な家父長制に基づく部族社会フィスノーレで、家長のいない家はその日の料理に使う小麦粉を隣家から借りることさえ出来ないほどに信用されない。


 だが山人のカヌンでは家長になれるのは男だけと定められており、女ばかり残された家はそのままだと途方に暮れてしまう。


 だから跡取りのいない家では娘たちの誰かが終生の未婚と禁欲の誓約ベーサを立て、断髪と男装をすることで例外的に周囲から本物の男と同様に認められる存在となって家を継ぐ習わしがあった。


 それが宣誓処女ブルネシャだ。


 宣誓処女ブルネシャは男のように働いて家族を養い、男のように銃を持って家族を守る。

 そしてやがては姉妹たちの嫁入りを世話し、老いた親を看取り、自らは独りで老いる。


 エヴィスにはもう、看取る親はいないが。


「似合っているぞ、エヴィス」 

 くたびれたドブネズミ色のコートを羽織った、この村の誰よりも背の高い大男がゆっくりとした足取りで近づいてきた。


 伯父のベスニクだ。よわい五十で面長の顔にしわが深く刻まれ、山と同じ灰白かいはくしょくの髪を丁寧にかして後ろに流している。


 エヴィスは初めてこの伯父に会ったとき、祖父と間違えたほどだった。彼は亡き伯母の夫だが少し歳の離れた夫婦で、また伯母自身も末っ子の母よりだいぶ年上だった。


「おう、エヴィス! なかなかの男前だぜ!」

 伯父の友人であるダーダンも、笑顔でこちらにやって来る。後ろには彼の妻と長男を引き連れていた。


 ダーダンは手で押せばそのまま転がっていきそうなほど丸々と太っていて、髪が耳元を残してつるっと禿げ上がっている男だ。歳はベスニクと同じで、子供時代から一緒に遊んだ仲だと聞いている。


 いつも必ずダブルブレストのジャケットにベスト、下はスラックスの三つ揃いスリーピースに身を包んでいる洒落者だが、肥満体を二重三重にくるんで更に膨らませた出で立ちにエヴィスはどこか滑稽な印象をいだいていた。決して口にはしないけれど。


「でも綺麗な髪だったのに、もったいないわねぇ。うちの娘たちよりサラサラだったのよ」

 ダーダンの妻は誓いの場に行く前の朝、髪を切りやすく束ねてくれた。


 女の子の髪を手入れするのは母親の役目だったが、エヴィスにはもう母はいなかった。


「いやいや今の方が似合ってるさ。がなくてもこうなるのは、きっとこの子の運命だったのよ。なあ、おめえもそう思うだろう?」

 ダーダンは傍らの息子を振り返って賛同を求めると、人の好さそうな男が笑いながら「うん、男前だね」と返した。


 するとそこへ、濃紺の車体に白文字でPOLICIAポリツィアと書かれたパトカーが砂利をタイヤで踏み鳴らしながらやってきて、道の向かい側に停車した。


「ダーダン!」

 運転席から降りてきた若い巡査が、声を上げながら駆け寄ってくる。


「今さっき連絡があった。ついに奴等が動いたらしい」

「おう、でかしたぞ!」

 ダーダンは警官でも何でもないのに、まるで上司のような態度で巡査に接する。


 それどころかベスニクとダーダンはパトカーに向かって歩くと、こともあろうに巡査が運転席に着くよりも早く、一言の断りすら入れず我が物顔で乗り込んだ。


 しかし当の巡査と来たらこの蛮行に何も言わないどころか、ダーダンが窓を開けて「とっととエンジンをかけやがれ、ウスノロ!」と怒鳴るのを聞いてから慌てて運転席に着く始末だった。


「エヴィス、お前さんも早く乗りな! モタモタしてっと追いつけねえぞ!」

「ちょっと待って!」

 これから何をしに行くのかはエヴィスもわかっていた。努めて緊張を押し殺しながらルーレに向き直る。


「これからぼくはやらなくちゃいけないことがあるから、ルーレはおばさんたちと一緒にいてね」

「いや!」

 エヴィスにしがみつくルーレの力が、より強くなる。


「困らせないで。すぐ戻ってくるから……おばさん、お願いします」


「任せてちょうだい。さあルーレ、一緒に行きましょう」

 ルーレの面倒をダーダンの妻に頼み、エヴィスもベスニクたちの後を追ってパトカーへ駆け出していった。





 エヴィスたちを乗せたパトカーは、灰色の山道をゆっくりと走っていた。


 朝方の山道に人通りはほとんどなく、ただ一度だけヤギの群れを導く村人とすれ違っただけだった。


 こんな貧しく何もない山奥に、わざわざ他所からやってくる人は滅多にいない。特に今のような冬には尚更だ。


「おう、見えたぞ。奴等だ」

 狭い助手席で窮屈そうにしていたダーダンが指差したのは、馬車と呼ぶのもおこがましい、ロバ一頭にかせた荷車だった。


 巡査がパトカーのクラクションを鳴らすと、荷車はあっさり停まる。


 パトカーが横を通り抜ける瞬間に、エヴィスは窓の外へ目をやった。


 荷車をぎょしていたのは隣村の若い農夫で、その隣では最近嫁にもらったばかりの新妻が甘えるように夫の肩へ頭を乗せていた。


 だがパトカーが道を塞ぐように荷車の先に停まって、こちらがドアを開いて降り立つと新妻の表情が凍りついた。


「待って、そんな……なんでこの人たちがここに来てるのよ!」

 妻の叫びを無視して、若者は手綱を手放して荷車から降り、後ろの荷に被せてあった布に手をかける。


「これでいいんだ、これで」

 やるせない表情でそう言った若者は、あっさりと布を取り払った。


 布の下にうずくまって身を潜めていた中年女と少女たちが姿を晒され、悲鳴をあげてたじろぐ。


 彼女たちは同じ村に住んでいるパロクという男の妻と、その子供たちだった。


 パロクの一家は、最初は自分たちに何が起きたのか理解出来ていなかったようだった。


 一番最初に状況を理解したのは一家の母親で、娘婿である若者に詰め寄った。


「酷いじゃないかい! あんた、私たちを売ったんだね!」

 母親が娘婿の肩を掴んで揺さぶる。


「あなた、どういうつもりなの!?」

 先程まで睦まじげに身を寄せていた新妻もまた、夫を睨んでなじる。彼女は半年前に嫁いでいったパロクの長女だった。


 妻と義母から責め立てられた若者は弱々しく唸るばかりで、その態度がますます女たちの怒りの火に油を注ぐ。


「下らない喧嘩はそこまでにしてもらおうか」こちらをよそに醜態を繰り広げる一家へ、ベスニクが呆れたように言う。「エヴィスには血讐ジャクマリャの権利がある。お前たちも山人の娘に生まれたのなら、この道理はわかっているな?」


 そう言うや否やベスニクは先陣を切って荷車に近づき、少女たちを掻き分ける。


「やめて! 私の子供たちを傷つけないでおくれ!」

 母親はベスニクに駆け寄って、子供たちから引き離そうとする。


 だがベスニクは軽々と母親を突き飛ばすと、娘ばかりの子供たちの中から唯一の息子を引きずり出してエヴィスの前に立たせる。


 その姿を初めて目にしたとき、エヴィスは息を飲んだ。


 パロクの息子は想像していたよりもずっと小さかった。息子がいるのは知っていたが、もっとずっと大きな青年だとばかり思っていた。


 この村では女の子が男の子と遊ぶことはないし、隣人の息子がどんな子かなんて興味を示すこともなかった。

 それは凄くはしたないことだと教わっていたから。


「殺さないでおくれ、ジョルグはまだ7歳なんだよ!」

「いいやその子は8歳さ、8月生まれの8歳さ!」

 ダーダンは太鼓腹を太鼓のように叩きながら、我が子を守ろうとする母親の必死でついた嘘を暴き立てた。


 そして踊るような腰つきで大きな腹を揺らしながら荷車に近づき、不躾にも一家が持ち出していた鞄を勝手に開けて中を確かめる。


「おおっ、なかなかいい銃じゃねえか!」

 中から長く肉厚の銃身を備えたボルトアクションライフルを引っ張り出し、構えてスコープを覗き込んだ。


「うん、うん、実にいい。俺がもらいてえぐらいだ。パロクの野郎にこんな上物を買う金があったとはな」

 ライフルの入っていた鞄に再び手を突っ込んで弾薬入りの紙箱を取り出すと、馬車の荷台に置いて蓋を開けた。


 ボルトハンドルを起こして引き、薬室を開くとライフル弾をつまみ上げては手際よく滑り込ませていく。


「これでよし! ほおらジョルグ、お前の父ちゃんが買ってくれた銃だ。これを持って男らしく戦うんだな!」

 最後にボルトを押し込んで閉じると、ジョルグと呼ばれた少年に歩み寄ってライフルを無理矢理押し付ける。


 ジョルグはライフルの重さと長さによろめいて、ふらふらとしていた。

 

 山の民は息子が生まれると銃を買い、8歳になると使い方を教え始める。

 その時から少年は戦士と見做みなされ、カヌンが復讐する義務と、される義務を課す。


「そんな酷い話ってないわ! ねえ、お巡りさん! この人たちを止めておくれよ!」


 今度は巡査の方に向かって母親が叫ぶ。


 この若い警察官は苦い顔で目を背けるばかりだった。

 何故なら彼もまた山育ちであり、この山においてカヌンは国家に定められた法律よりも重いことを知っているからだ。


「耳を貸すな。お前はただやるべきことをやればいい。それに必要な道具はもう与えたはずだ」

 ベスニクは傍らで長身を折り曲げ、哀れなジョルグを指で差し示す。


 エヴィスは震える手で、ズボンのベルトに差していた自動拳銃オートマチックを抜く。


 ハンガリー製のFÉG R61。青黒い光沢を放つスライドと白銀のフレームを噛み合わせた、小さな拳銃。


 スライドを引こうとする。非力なエヴィスには少し固くて、充分な位置まで引き切れなかった。焦って二度三度と引き直そうとして失敗を重ねる。


 だがその一方で、焦燥に駆られながらもどこかでまだ冷静だった脳の一部が


――先に方法をスライドの尻にある撃鉄を起こしてからなら、引きやすいのではないか?


 と思いつき、試してみることにした。


 それは気休め程度の違いしか生まない、あまり意味のない試みだったかもしれない。


 それでも今度は確かにスライドがカチリと音を立てるまで引かれ、初弾が薬室に滑り込んだ。


 事前に教えてもらった狙い方を思い出しながら照準を定め、ちらほらと降る雪の向こうにいるジョルグの小さな身体を捉える。ルーレと同じ8歳だというその男の子は、ルーレよりも幼く見えた。


 ベスニクがゆっくりと後ずさって、視界の端から消えていく。


「やめておくれよ! ジョルグが何をしたっていうのさ! 罪のない子供に銃を向けないで!」

 母親が銃口の前に身を投げてジョルグを隠す。


 確かにジョルグに罪はない。ただ父親のパロクがエヴィスの両親を殺し、無責任にも家族を置いて逃げただけだ。


 カヌンでは、殺人が起きたらまず下手人の家長が長老と被害者遺族へそのことを伝える決まりになっていた。

 そうすれば下手人が被害者の葬儀に参列するための休戦を長老が促し、遺族は葬儀が終わるまでは報復しない誓約ベーサを立てる。


 葬儀が終わると、次に長老が両者に30日間の休戦を促す。また休戦の誓約ベーサが立てられ、その間に両家の家長が話し合って血の争いに一定の紳士協定を設けたり、あるいは血の買い戻しと言って和解金でこれ以上の流血を避けることもあった。


 ところが肝心の家長にして下手人であるパロクが行方不明である。これでは何も始まらない。

 下手人が殺した相手の弔いに加わるのは最低限の礼節であり、これに姿を見せないのは死者と遺族に対するゆるし難い侮辱だ。


 そうして慈悲深い神の慈悲さえも届かない場所へと追いやられてしまった哀れな一家に残された道は、この山から逃げ出すことだけだった。

 パロクがいないのでは、乗り物を運転出来る者さえいない。だからしょせんは他家の人間に過ぎない隣村の娘婿に頼る他なくなり、裏切られた。


 家長自ら人を殺めながら家族を置いて逃げたあちら側と、いなかったはずの男児を一晩でこしらえてまで新たな家長を立てて血讐ジャクマリャの権利を取り戻したこちら側とで、完全に明暗別れてしまう形となった。


「いい加減にしやがれ!」ダーダンは母親の腕をねじりあげて強引に道の端へ退かしながら、こちらへ笑顔を向けてくる。「こっちは大丈夫だ、邪魔はさせねえからよ!」


 これにエヴィスはどう返事したらいいのかわからず、周囲に目を移す。


 ジョルグのちょうもまた母親と同様、弟に駆け寄ろうとして夫と揉み合いになっていた。


 他の幼い姉妹たちは「負けないで!」「死なないで!」と、ジョルグに悲痛な声援を送っていた。


 ジョルグの母親による悲痛な懇願を無視した巡査は、背を向けて煙草を吸っていた。足元には既に何本もの吸い殻が落ちている。


 最後に、背後のベスニクを振り返った。


 この冷厳な伯父は、一切の感情を見せていなかった。ただ今日ここで失われる命を受け取りに来た死神のように、無言でたたずんで見守っている。


 視線をジョルグに戻す。


 非力なジョルグは、長大なライフルを長槍のような持ち方でたずさえている。ライフルの構え方ではなかった。

 それが彼の腕力で出来る精一杯なのだろう。


 愚かで子煩悩なパロク。彼はきっと、基礎の基礎から長い時間をかけて教え込み、実際に構えて撃つのはもっと大きくなってからでいいと思ったのだろう。


 だから大人になっても使えるような立派なライフルを息子用に買い与えたのだろう。


 このライフルに相応しい、逞しい青年に育つ未来を夢見たのだろう。


 でも、それは何の役にも立たなかった。


 息子に必要だったのは今エヴィスが構えているような、子供の手でも握りやすいくらい薄く小さくて、軽い拳銃だったのだ。 


「ジョルグ、ジョルグよ」


 しきたりに従い、うわずった声でこうじょうを発する。


 エヴィスからしても恨んでいるのはパロクであってその息子ではなく、そんな相手に恨み節じみたことを聞かせる意味はなかった。


 事態は、もはや恨みがあるかないかの問題を通り越してしまった。肝心の下手人が逃げてしまった以上、父親の罪を息子に償わせるのはカヌンが導き出した道理だ。


 和解の儀式を経ずして勝手に復讐を投げ出すのは恥ずべき所業であると、この山で生まれ育ったエヴィスは知っている。

 そのような臆病者に対して山人たちはありとあらゆる侮辱を浴びせ、忘れてはならない義務があるのを思い出させようとすることも知っている。


 血讐ジャクマリャは男の義務だ。


 当然、今日から男になったエヴィスにとっても。


 この価値観は刀剣で命のやり取りをしていた時代から黒色火薬の先込め銃を経て、今こうして自動拳銃を撃つ時代になっても変わらない。


 変えてはいけないのだ。


「我が父によろしく伝えるがいい!」

 ジョルグにいったい何を伝えろというのか。伝えるほどの何かが果たして彼の胸中にあるのか。

 滑稽なほど無意味な口上をただただ、しきたりで定められた通りにわめいた。


 けれども声を出すことには意味があった。腹の底から気を吹いて、ためらいでこわばっていた人差し指に全身の血を注ぎ込むように意識を集中させ無理矢理に引き金を引く。


 自分で銃を撃つのに慣れていないエヴィスにとって、それは耳をろうさんばかりに鋭く大きなものに聞こえた。手の中で跳ねたR61が親指のみずきに痛いほど食い込み、肘まで震える。


 結局一度も火を噴くことのなかったライフルが滑り落ちた。ジョルグは胸を押さえてひざまずく。灰色の大地に血をしたたらせて。

 ジョルグは声を発しなかった。ただ限界まで見開かれた目と剥き出しになった歯が死にたくないと訴えていた。


 それを見届けたエヴィスもまた全身の力が弾丸と一緒に飛んでいったかのように抜けていき、一面の灰色に手をついて倒れ伏す。


「ジョルグ!」

 ダーダンが手を離し、ようやく解放された母親が駆け寄って、横になったジョルグを抱き起こす。


 長姉も夫を振りほどいて続き、幼い姉妹たちも集まっていく。


「ジョルグ、ジョルグ、死なないで!」

 彼女たちの呼びかけに、ジョルグはかすかに顔を動かして反応を示した。


 でもそれは刹那のことで、すぐその目は光を失っていった。 


「ああっ、ああああああっ!」


 喉が張り裂けそうな母の嘆き。悲しみはすぐに娘たちへも伝播でんぱんして山道が叫びと泣き声に包まれる。


 エヴィスは耳を塞いだ。耐えきれず嘔吐し、吐瀉物の飛沫が晴れ着にはねる。


 王子の風格などとうに消え去っていた。


「エヴィス」

 低く鋭い声に呼びかけられた。


 ベスニクの声だ。伯父の声音には聞く者の心から余計なものを削ぎ落とすような響きがあって、エヴィスはようやく耳から手を外して顔を上げるだけのことが出来た。


血讐ジャクマリャはこれで終わりじゃない。血を奪い返した後にすべきことを覚えているか?」


「……復讐者ジャクスは、可能な限り亡骸を仰向けにし、死者の武器を頭の近くに置かなければならない……」

 胃液で灼けた喉から声を絞り出し、昨夜も教わった復讐者ジャクスの作法を口にする。


 亡骸がうつ伏せになっていたり、死者の武器が離れた場所に落ちていたりしたままではいけない。魂が天国へ昇っていきやすいよう仰向けに寝かせ、武器は頭の上に置くのが礼儀と言うものだ。


 こうしたことを怠ると死者を辱しめたとみなされ、報復の応酬がより酸鼻を極める事態へと発展するのが昔からの常であったそうだ。


「……自分で出来ればよいが、もし出来ないときは、最初に出会った人に頼んでもよい」

「その通りだ。ちゃんと覚えていたな」

 長身の伯父がしゃがみこみ、大きく傷だらけの手がエヴィスの肩を叩いた。


 その特例措置は復讐者ジャクスが相討ちになって傷を負ったときのためにある条文かと思っていたが、今は人を殺した動揺で身体が動かない状況を想定したものである気がしていた。


「伯父さん、やってもらってもいい?」

「自分でやった方がいい」

「でも……」

 亡きジョルグの周りには家族が集まっている。今そこにエヴィスが近づいたら、罵詈雑言を浴びせられるに違いなかった。

 亡骸と伯父を交互に目配せして、言外にそれを伝える。


「あいつらは俺のことも好きじゃないだろうよ」

「そんなこと言わないで。お願いだよ、伯父さん」 

 ベスニクは溜め息をひとつ吐くと「わかった」と言って背を向け、ジョルグのむくろを囲んで悲嘆に暮れる一家へ歩み寄っていて話しかける。


 わかりきっていたことだったが、すぐにベスニクと母親の口論が始まった。母親がジョルグの亡骸を離そうとはせず強く抱き締め、子供たちが壁を作るように囲んで近づけさせようとしない。


 するとベスニクは、手近な娘を引き寄せて殴った。

 

 殴られた娘が地面に倒れると、隣の娘を捕まえてまた殴る。大男のベスニクが、自分の腰ほどもない子供たちを容赦なく殴っていく。


 子供たちは泣いていた。でも身が竦み上がって、誰1人動けず自分が殴られる番を待つばかりだった。


「やめとくれ!」

 母親はジョルグの亡骸を離れてベスニクにしがみついた。


 ベスニクが足蹴にして地面に転がすと、彼女はよろよろとふらつきながらもなんとか起き上がって諸手を広げて娘たちを背後に庇う。


 長姉もまたベスニクの腕が届かないところまで妹たちを引っ張る。


 自然と、一家はジョルグの亡骸を置き去りにする格好で距離を取っていった。


 ベスニクは足下のジョルグを一瞥いちべつしてから、視線を上げて試すように一家を見た。

 そして彼女たちが一向に近づいてくる気がないのを確認したベスニクは、何事もなかったようにライフルを既に仰向けで寝ているジョルグの頭の上に置く。


 手慣れたものだった。


 母親は顔をくしゃくしゃに歪めて、ただ目を閉じ、声も出なくなった口を大きく開いて無言の号泣を漏らす。


 生きている娘を守るためには、死んだ息子のそばにいてやる権利さえも土足で踏みにじられる理不尽に耐えなくてはならない屈辱と絶望と無力感がありありと見て取れた。


「終わったぞ」

 ベスニクが服の乱れを直しながら歩いて戻ってくる。


「伯父さん、なんで、あんなことを……」


「俺が行こうがお前が行こうが、すんなり納得してもらえる訳がないのはお前もわかっていたはずだ。それでもお前は俺に頼んだのだろう?」


 その通りだった。自分にジョルグの母親や、姉妹たちからの憎しみを受け止めるだけの覚悟がなかったから伯父に任せた。


 そもそもジョルグを殺さなければならない理由があったのも、実際にジョルグを殺したのも、殺した後でジョルグのそばから家族を引き離す必要があったのも全て自分だ。


 そんな自分がこの母子に同情するのは偽善に過ぎないし、ましてや手伝ってくれた大人たちのせいにするなんて出来ない。


 ずっと抑えていた涙が再び、とめどなく溢れ出す。


 思い出すのは、自分が立てた誓いベーサだ。


 あの日エヴィスとルーレは母の目を盗み、家の手伝いをさぼって遊びに出かけた。


 今までは父が野原へ遊びに連れていってくれたけれど、村外れで土砂崩れが起きて以来ピリピリして外に出してくれなくなった。


 それからずっと家にこもる暮らしが続き、積もりに積もった不満がとうとう爆発して家を抜け出したのだった。


 小高い丘の上で、2人きりで遊んだ。人生で一番楽しい時間だった。


 とてもとても、楽しかった。


 夢のような時間が終わりを迎えたのは、昼頃のことだった。


 急にルーレが大きな声を上げて向こうを指差した。そちらを見ると黒い煙が立ち込めているのが見えた。


 我が家があった場所から。






 2人で走って家の前まで戻ったときにはまだ燃えていて、火が消えたのは夕方だった。


 家は屋根も窓枠も焼け落ち、煤にまみれた壁だけが残って大きな石窯のようになってしまった。


 両親は焼け跡の中から見つかった。余りにも惨い有り様らしく、大人たちは会わせてくれなかった。


 ただ骸はどちらも銃で撃たれたあとがあり、それから血まみれのパロクが走り去っていく姿を、見た者がいたという話を聞かされた。


 何もかもが現実のこととは思えなかった。パロクはあんな人の良さそうな顔をして、何故そんな惨いことをしたのか。


 悲しみは次第に、怒りへ変わっていった。


『お前の父は男児を残すことなく死んでしまった。お前は男として家を継ぐか、女として村を出るか、どうしたい?』


 だからベスニクにそう問われたとき、エヴィスはすぐに答えを出した。


 女のままでは血を奪い返せない。


 パロクがどこに逃げたか知らないが、どうせすぐ見つかる。そうしたらあの恥知らずを殺せる。


 そうすれば、この悲しみも少しは癒える。


 あのときは、そう思っていた。

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