第43話 潮崎の親分3

 一方柏原では、悠介を筆頭に奈津、勝五郎、梧桐が首を長くして三郎太の帰りを待っていた。空気は湿っぽく、今にも泣き出しそうな雲がどんよりと彼らの上空を覆っていた。

 番屋の入り口で空を眺めていた梧桐が、不意に口を開いた。

「三郎太は帰って来られないな」

「えっ、どうしてですか」

 手招きする梧桐に従って奈津が入り口の方へ行くと、彼が少し遠くの山を指差した。

「あっちの方から雲が流れて来ている。あっちは柿ノ木川の川下の方だ。ということは、潮崎はもう雨が降っている」

「ああ……なるほど。さすがに猟師さんは自然の営みをよくご覧になってますね」

「お嬢さんも覚えたらいい」

 梧桐はぶっきらぼうだがとても紳士的である。こんないい男が山奥にたった一人で野生動物を相手にして住んでいるのが勿体ないようだ。

「ですけど、三郎太の兄さんなら雨などものともせずに帰ってくるような気もしますねぇ。辰吉が帰って来ないのは想定内ですけどね、たとえ雨が降ったとしても報告のために戻って来るのが三郎太の兄さんです。それが戻ってこない、なんだか妙ですねぇ」

 頷きながら聞いていた勝五郎も言葉を継いだ。

「俺もそれを考えてたんだ。何かがおかしい。三郎太ならとっくに戻っていても不思議じゃあねえ」

 ソワソワと落ち着かない勝五郎の耳に、戌の刻の鐘が届いた。それを合図にするように雨が降り出した。今日は確実に三郎太が戻ってくることはないだろう。

 尾行に感づかれたのだろうか。もし感づかれていたらどうなるか……悠一郎を殺すような奴だ、辰吉は何をするかわからない。三郎太が感づかれるようなヘマをするとも思えないが。

 それとも夜道の上に雨に打たれてなかなか歩みが進まないだけなのか。いや、三郎太ならそういう時こそ、急いで帰ろうとするはずだ。

 何か帰れない理由があるに違いない。そこにいる全員が同じ結論に至った瞬間、奈津が口を開いた。

「潮崎へ行きましょう」

 真っ先に勝五郎が反応する。

「いけません。お嬢さんに何かあっては佐倉様に顔向けできません」

「佐倉の娘だと思わなければいいんです」

「そんな無茶な」

「ここで手をこまねいているわけにはいかないわ」

 困り顔の勝五郎に対して毅然と胸を張る奈津に、悠介が冷静に「お嬢さん」と声をかけた。

「お嬢さんが潮崎に行ってどうするんです」

「どうって、三郎太さんを探します」

「この夜中に?」

「もちろん提灯を持って行きます」

「雨降りの中?」

「傘をさして」

「それでお嬢さんに何ができるんです?」

「え」

「十歳の小娘が一人で雨の夜に山越えをして二つも離れた町へ行って何ができるんです?」

「それは……」

 奈津は自分の浅はかな発言を恥じて俯いてしまった。

「お嬢さんの気持ちはわかります。あたしだって行けるもんなら今すぐ潮崎を目指したい。ですが、あたしもお嬢さんもたかだかとおの子供です。ここには勝五郎親分も梧桐さんもいる。判断は大人に任せましょう。あたしたちがチョロチョロして親分さんたちの邪魔になってはいけません」

「そう……ですね」

 奈津は一応納得はしたものの、体が潮崎を目指したがっているらしい。ソワソワと落ち着きがない。

「夜道ですし、雨も降ってるじゃないですか。体を冷やすと丈夫な子が産めないって廓で聞きましたよ。女郎になるつもりがないのなら体は冷やさない方がいい。朝になっても戻らなかったらお嬢さんの代わりにあたしが行きますよ、幸いまだ三郎太の兄さんの着物を着てますから」

 悠介はそう言いながら、チラッと勝五郎に視線を送った。勝五郎の方も悠介の言いたいことを理解したようで「お嬢さんはもうお帰りになった方がいい。悠介、送り届けて来い」と言った。

「いやです。屋敷で三郎太さんのことを一人で悶々と考えるなんて、気が狂ってしまいます」

「しかしね、お立場を考えていただきませんと」

 悠介は勝五郎と奈津の両方の顔を立てることにした。

「勝五郎親分、お嬢さんは佐倉の一人娘だからこそ、佐倉の代表としてここにいるんですよ。お嬢さんをそこいらの良家のお嬢さんと一緒にしては失礼ってもんです」

 奈津が満足げに悠介に微笑みかけたのを見て、悠介は手綱を引いた。

「ただし、お嬢さんは佐倉の代表としてここにいるわけですから、旦那様にご報告しなけりゃなりません。ですからここはひとまず戻りましょう。あたしは明日、勝五郎親分と一緒に三郎太の兄さんを探しに行きます。それでよござんすか、親分」

 ところがそこに思いがけず梧桐が「待て」と割り込んだ。

「親分さんはここを離れてはならん。三郎太と行き違いになっても、ここに誰もいないんじゃ困る。佐倉様との連絡の為にもここは空けるわけにはいかん」

「だが、悠介を一人で行かせるわけにもいかねえだろう? 張る人間と連絡する人間、最低二人は要る」

 梧桐が親指を自分の方に向け、淡々と言った。

「俺が行こう」

「え? 梧桐さんがかい?」

「乗り掛かった舟だ。悠介の用心棒としてついて行くさ」

「それなら私も行きます、連れて行ってください」

 またも名乗りを上げる奈津に、勝五郎は少々困り顔になる。

「お嬢さんがそんな間者みたいな真似を……」

「いや、案外お嬢さんの方があたしなんかよりいいかもしれませんよ。どのみち番屋は調べることになるんですから、良家のお嬢さん然とした女の子の方が怪しまれないかもしれません」

「あすこの番屋にいるのは恐らく同心の熊谷くまがい様と岡っ引きの猪助だとは思うが」

 勝五郎が無精ひげの目立つ顎をポリポリと引っ掻いていると「熊谷様と猪助親分ですね!」と奈津が復唱する。もうやる気満々、誰も彼女を止められない感じである。

 梧桐が勝五郎の肩を軽く叩いた。本人は軽くのつもりなのだろうが、勝五郎はつんのめりそうになっていた。

「よし、話は決まった。俺は明日悠介とお嬢さんを連れて潮崎に行く。親分はここで待機。わかったらお嬢さんは悠介と一緒に帰れ」

「わかりました。明朝またこちらに伺います」

 梧桐に対しては妙に素直な奈津が、悠介に「帰りましょう」と笑いかけた。悠介は声にこそ出さなかったが「これが大人の魅力か」と場違いな事を考えながら立ちあがった。

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