002-01. その一輪は雪の中で

 

 レッスンが始まってからの毎日は、まさしく目が回るようだった。


 トレーニングによって襲い来る疲労と筋肉痛に悩まされ、毎日の食事と睡眠で回復に努める日々。

 加えて、ボイストレーニング、業界に関する知見習得、そして本業の勉学も怠ることはできない。

 分単位のスケジュールにあたふたしていれば、瞬く間に二週間が過ぎ――ついに、寮への引っ越し当日がやってきた。


「ざくく~ん! この段ボール、どうしたらいい?」

「あっ、はい! 学校の教科書とか参考書なので、棚に入れちゃおうかと思います!」

「おっけー! それじゃあ、開けるだけ開けちゃうね」


 柘榴は両手に大量の衣服を抱えたまま、ローザの朗らかな声に返す。

 返事を受けたローザは、部屋の隅に鎮座する段ボールのテープをべりべりと剥がした。


「柘榴、使わなさそうな収納ケースは押し入れにしまっておくぞ」

「あっ、ニィくんありがとう……! 今使ってるケースで終わりそうだったから、すごい助かる……!」


 続いて、ニゲラが空の収納ケースを掲げて柘榴に呼びかける。

 細かな気遣いに感謝を述べれば、ニゲラはほんの少し口元を緩めて微笑んで見せた。


「……ふふっ」


 そんな柘榴たちの様子を見て、ローザが小さく笑う。

 その声に、ニゲラは不思議そうに首を傾げて見せた。


「……ローザ、どうかしたのか?」

「んーん、なんかちょっと嬉しくて。ニィとざくくんが仲良くなれたのが」


 ローザの感慨深げな言葉と微笑みに、ニゲラの頬が少し赤く染まる。

 どうやら照れているらしい。


 最初こそ気まずい沈黙が続いた柘榴とニゲラだったが、その間を取り持ったのが他でもないローザだ。

 いわく、ニゲラは「表情筋が壊滅的に死んでいる」らしく、元来のシャイな性格も相俟って無表情で近寄りがたい雰囲気を醸し出してしまっているようだ。

 しかしこの数日、ローザに連れられて顔を見せるニゲラと交流を重ねるうちに、柘榴も少しずつニゲラの感情の機微を見抜けるようになってきていた。


「……ほら、後は本棚とベッドで終わりだろ。さっさとやろう」

「んひひひ、照れ隠しだ~」


 二人の賑やかなやり取りに、柘榴の頬が思わず緩む。

 生活習慣や環境が激変したにも関わらず、精神的に追い込まれることなく二週間を過ごすことができたのは、紛れもなくこの二人のお陰だ。


「……あっ、そういえば」


 ニゲラの頬をむにむにと揉んでいたローザが、ふと思い出したかのように声を上げた。


「ご近所に挨拶はできた?」

「はい、上の階の先輩には……下は空き部屋なので……」

「隣はできなかったのか?」

「うん……」

「ふーん、そっか……時間が合わないのかなあ……」


 ローザがは顎に手を当てると、うーむ……と声を上げながら考え込む。


「今日も誘ったのにな~……おりくんってば、つれないんだから」

「……あはは」


 ローザの残念そうな声に、柘榴は苦笑いを返すしかできなかった。


 そう。

 一週間前――入居する部屋が決まり、前もって荷物を運び込みに来た日のこと。

 手伝いにやってきたローザとニゲラから、隣が衣織の部屋であると教えられたのだ。

 ちなみにその後、柘榴が隣に入居する旨をローザが(一方的に)連絡したとのことなので、恐らく向こうも認識済で……その上で一切会うことができず、ローザへの返答もないというのだから、恐らく「そういうこと」なのだろう。

 先日のやり取りがあった手前、あまり歓迎されないであろうことは予想できたものの……まさか挨拶の機会すら与えられないとは思わず、柘榴はひどくショックを受けたのだった。


「……まあ、暮らしていれば会う機会もあるだろ。あんまり気にするなよ、柘榴」

「ニィくん……」


 ニゲラがぽん、と肩を叩き、励ましの言葉をかける。

 表情筋は相変わらず死んでいるが、その優しさは柘榴の心に染み入った。




 翌日からのレッスンは、専用の研修とは一線を画す怒涛のスケジュールが設定されていた。

 今までは未経験者向けに短時間かつマンツーマンでの基礎レッスンを行っていたが、今後はユニットでの活動に向けて本格的なパフォーマンスの練習をしていく。

 とは言え、まだオリジナルの楽曲は持っていないため、先輩ユニットの既存曲をコピーするところから始まるわけなのだが……。


「…………」

「ざくくん! 生きてる!?」


 二週間の努力も虚しく、柘榴はスタジオの床に突っ伏すこととなった。


「……柘榴、これ飲め。汗も拭いたほうがいい」

「……あ、あり……がと……」


 柘榴は何とか起き上がり、ニゲラが差し出してくれたペットボトルからスポーツドリンクを口にする。

 爽やかな甘さと冷たさが口と喉に染み渡り、体が僅かに機能を取り戻すのを感じた。


「よしよし。焦らなくていいからね、ゆっくり休憩しよう」

「はい……ごめんなさい、足引っ張っちゃって……」

「そんなことないよ! ね、ニィ!」

「ああ。初回からサビまで覚えられたんなら充分だろ。よく頑張ったな」


 頭に被せられたタオル越しに、ローザが柘榴の頭をポンポンと撫でる。

 ニゲラも感心した様子で、後輩である柘榴の健闘を称えた。


「ニィの言う通りだよ~! 振付の動画もらったの二日前でしょ? 俺たちは何度か踊った経験があるけど、ざくくんは今日が初めてなのに……すごい!」

「あっ、実は……この曲は元々知ってて……」


 ニゲラに続いてローザにまで賞賛され、居た堪れなくなった柘榴は控えめに声を上げた。


 初めての課題として提示されたのは、テイルプロに所属するアイドルユニット『クオリア』のパフォーマンスだ。

 八年前、テイルプロ設立直後に打ち出された、ファーストユニット結成プロジェクト。

 そのスタートダッシュにあたっては、グループ会社所属のタレント・俳優から候補を募り、参加者総数五十名超えの社内オーディションを実施したという。

 そんな熾烈な戦いを勝ち抜いたメンバーのうち、歌唱力が圧倒的であったつづみニコと椋路地むくろじイロハによって結成されたのが、今やアイドル業界におけるデュオの代名詞、クオリアだ。

 中でも彼らのデビュー曲であり、ユニット名を冠するアッパーチューン『クオリア』は、テイルプロを象徴する楽曲として数多くの研修生たちにカバーされ続ける、いわゆる「課題曲」となっている。


「その……妹がアイドル好きなので。クオリアさんのライブ映像とか、よく一緒に観ていたんです」

「へえ~! じゃあ、お兄ちゃんがアイドルになって、妹ちゃん大喜びだね!」

「え、えっと……『顔しか素質がないんだから、死ぬ気でやれ』って言われちゃいました……」

「すごく手厳しい妹だな……俺まで耳が痛くなる」


 他人事ではない、と言わんばかりに、ニゲラが僅かに眉根を寄せる。

 その様子に、柘榴は思わず首を傾げた。


「えっ……ニィくん、ダンス得意って聞いたけど……」

「いや、俺は全然だ」


 柘榴の言葉に、ニゲラはほんの少し苦笑しながら首を横に振る。


「俺よりも踊れる奴は、同期にも沢山居るからな。俺なんて精々中の下がいいところだよ」

「そうかなあ……ウチの妹が『ニィくんのダンスはキレがあって迫力が同世代随一だ』って絶賛してたけど……」


 おとといの夜、研修生中心の歌番組を見て熱弁していた妹の姿を思い出し、聞いたことをそのまま伝える。

 すると、先程まで謙遜の言葉を並べていたニゲラは、途端に頬をピンクにして俯いた。

 どうやら照れてしまったらしい。


「……妹、研修生組までチェックしてるのか」

「ふふ、なかなかに通だね……あっ、そうだ!」


 そんな二人のやり取りを微笑ましげに見つめていたローザが、不意に何かを思いついたように顔を煌めかせた。


「ニィ、この後の予定ってダンス動画の撮影だよね?」

「あ、ああ……そうだけど……」

「せっかくだし、ざくくんに見学してもらおうよ。お互いの強みとか売りとか、分かっておいたほうがいいと思うし!」


 「ざくくんもこの後はフリーだもんね?」と問われて、反射的に首を縦に振る。

 確かに、メディア露出の多かったローザに関しては多少の事前情報があったが、研修生であるニゲラについて、柘榴はそこまで情報を持っていない。

 レッスン中に観察すると言っても、当面は自分のことで精一杯であろうことは容易に予想できるため……この機会に落ち着いて見せてもらえるというのなら、願ってもない提案だ。


 それに、目の肥えているあの妹が、素直に賞賛するほどのダンスだ。

 正直なところ、仕事を抜きにして純粋に興味があった。


「ね、ね? いいでしょ、ニィニィ~」

「分かった、分かったから……その呼び方はやめてくれ……」


 猫撫で声のローザに絡みつかれ、たじたじになったニゲラが音を上げる。


「……まあ、断る理由もないしな。俺のでよければ、見ていってくれ」

「わあ……! ありがとう……!」

「やったあ~! 楽しみ~!」


 何故か一番はしゃいでいるローザの姿に、柘榴とニゲラは苦笑いを交わすのだった。

 

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