知り合いに、絵の個展に誘われた。
本当にその日は用事があったので行けなかったが、後日一人で見にいった。
個展なぞというものに行ったことはない。だから通常では「行きません」と言うか、いろいろ口実をつけて行かないはずのものである。
なぜ行ったのかといえば、『ブルーピリオド』の影響である。
芸大生である主人公・矢口八虎もやはり個展というものには行ったことがない。
矢口は
雑居ビルの1室って入りづら…!
大丈夫か? なんか買わされたりしないよな?
なんかみんな知り合い同士っぽいし…
と躊躇する。それはそのまんまぼくの躊躇なのである。実際、つれあいを誘ったが、「買わされたりしない?」と言っていたし、「話しかけられたらどう答えていいかわかんない」と言っていて結局行かなかった。
だが、矢口は、最近出入りしている芸術集団のリーダーに気に入られたくて(話題を作りたくて)、その気持ちが優って、出かけるのである。
これが矢口の観に行った絵であるが、ぼくには率直に行ってよくわからない。
だけど、矢口は次のように感じる。
かっこい…
線とか力強いのに
細部が繊細で
めちゃくちゃ
素材感感じるのに
奥行きがあって…
実物を見ていないから尚更感じにくいのかもしれないが、そう感じる矢口がかっこいいなとさえ思う。
ぼくが誘われたのも抽象画だった。
「現代アートには、決して一つの正解があるわけではない。いろんな見方があっていい」ということに気づけば、もはやあなたは、どんなボールが飛んできても受け取ることができるようになっているでしょう。それを繰り返せば、多様なものの見方ができるようになるはずです。(秋元雄史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』大和書房p.227)
を頼りに、作品は作者からすでに手を離れているんだから、別にどう見ても構うものか。わからなければそれまでだ、と思い定めて出かけてみる。
そして、実際によくわからなかった。
『ブルーピリオド』みたいに「その手法、その素材でいいんですか?」などと内語してみても、やっぱりキャンバスに描いたものと、和紙に描いたものの違いはわからないのであった。
だけど、その個展では、あわせて作者が撮影したアウシュビッツのカラー写真などが展示されていることからも分かる通り、現代に対する批判的な意識がある。そういう雰囲気の中で一つだけ目にとまった作品は、同心円を描いたと思しきものだった。
格別その絵が心を打つというものではなかったけども、同心円っていうモチーフは、まず「原爆=爆心地」を思い出させた。他にも原発事故の際に影響が同心円でモデル化されたりする。
さらに、911のテロの跡地も「グラウンド・ゼロ」でイメージされている。原爆のような影響が広がるわけでもないのに「爆心」というとらえられかたをしていることに改めて思いが至った。
それから、地震である。
地震は現代では「震源地」というものが概念化され、そこからの同心円的な影響(必ずしもそれほど一様に広がるわけではないらしいが)が視覚化される。
そして、パンデミック。どこが感染の起点になるか、それは必ずしも同心円ではないにも関わらず、ぼくの心の中で同心円としてイメージされた。中国のある場所を起点にする/しないという話題が出ているように、少なからぬ人にとって、やはり感染症の爆発は「同心円」としてイメージされるのではないか。
そういう意味で「同心円」というモチーフは現代的な厄災、禍々しさの一つのイメージの核にある。特にその中でもぼくは原発事故にはそのイメージが強い。「平和利用」しているはずのものが、人間の意志とあたかも無関係に同心円で被害を広げるその有様は、生き物のようでもあるが、無機質極まる機械のような気もしてくる。実際には人間が作り出した事故であり、「同心円」という形は近代以前にはあまりない災厄の姿ではないかと想像する。
その個展を後にして、一人で映画「すずめの戸締まり」を観に行ったわけだが、期せずして、そこでの災害の姿はある起点から広がるというイメージだった(下記のPVの48秒あたり)。
「いやいや同心円じゃないやろ」というツッコミはあるかもしれない。
災いが封印されているというのは昔からあるわけだけども、そこからエリア全体に広がって、きれいな同心円ではないが、地域全体が面として影響を受けるというその姿はある意味で現代的ではないのかと思う。昔の地震というのはもっと遍在感があるように思うのだが、ここでのイメージは一つの中心から這い出して、周辺に広がっていくというものだから。
そんなわけで、観終わった後に、その個展の同心円の絵を思い出し、しかも絵の同心円には小さな矢印が糸のように同心円の中心に引かれていたから、「絵の作者は『すずめの戸締まり』を観たに違いない」などと妄想した。もちろん、絵の方が先に描かれたのであるから、そのようなことがあるはずはないのだ。
「個展に行く」という行動は、ヤングケアラーの再生を描いた水谷緑『私だけ年を取っているみたいだ』にも影響された。
年を取ってくると行動が保守的になってくるから、これまでの生活や思考の様式を変えようとしなくなる。
しかしあえてそこを逆らって、何かをやってみる。新しく面倒なことに飛び込んでみる(飛び込むべき新しいものは、自分でコントロールできるものに限るのだが)。
そうすると確かに「新しい自分が出てくる」のだ。もしその面倒さを避けていたら、どれほど古ぼけた自分のままであったのかと思うとゾッとしさえする。
*1:ちなみにこの人の個展です。 http://igallery.sakura.ne.jp/aiga31.html