ここを読んでいる人の大半は、検索で引っ掛かった本ブログを見て、「どんな人が書いているのだろう?」と気になって来てくれた方だと思います。
そうした人に、僕と、このブログの説明をしたいと思います。
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そうした人に、僕と、このブログの説明をしたいと思います。
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今は仕事も忙しくなく、良い生活を送れているな~と思う。
4月になったら仕事内容も変わり、また生活も変わっていくと思うので、
今の生活を記録として残しておこうと思う。
<一日の流れ>
5:30 起床
そのあと15分くらい布団でスマホなどを見て目を覚ます。
5:45 朝食の準備
バナナ、フルグラ、牛乳。娘と自分の分。
6:00 娘を起こす
中々起きないが我慢強く起こす。
その後、2人で朝食を食べ、出かける準備。
7:00 保育園へ出発
7:15 保育園に子供お預け。会社へ向かう。
電車内ではNHKニュースのチェックと、単語帳アプリ(資格試験の専門用語。今は情報処理安全確保支援士)
8:15 会社到着
8:30 始業
今の部署はあまり忙しくない(子供が小さいので定時退社できる部署にしてもらった)
12:00 昼休み
15分でご飯(コンビニのパン等)を食べ、15分資格試験の勉強。
残りの30分は、勉強するか、疲れていたら寝る。
13:00 業務再開
17:15 退社
基本的に定時退社できる。電車内では読書。
18:30 帰宅
奥さんが夕食を作ってくれる間、娘と遊んだりEテレを見たり。
19:15 夕食
20:00 娘をお風呂に入れる
20:20 娘の寝かしつけ
寝室で絵本の読み聞かせをし、添い寝。
完全に寝付くまで寝室から出してくれない。
21:30 家事
皿洗い、洗濯物たたむ、ゴミ出し、役所からの書類を見るなど。
22:00 奥さんとお茶
紅茶を飲みつつお菓子を食べたり、雑談。
一人の時は漫画を読んだり。
22:30 就寝
睡眠時間7時間確保。
---
以上。
良い生活ですね。
家族とか、仕事とか、いろんなものが偶然うまくいっているな~と思う。
何か少しでも事情が変われば、こんな生活は送れなくなるんだろうな。くわばらくわばら。
—-
・他、日記。
・今日は朝から気分が優れず。昨日暗い記事を書いたからかな……。
発言が社会に影響を与えない無力な個人であることが嫌で辛くなってきた。
・奥さんが仕事で、娘と二人。
五日ぶりに整形外科に行き、腰痛の経過観察。
生まれて初めて電力を流された。
ただ、もうほとんど痛くないので次の予定入れなかった。
・その後は病院近くの公園へ。新しい滑り台が出来ていた。
・家でお昼(パン)を食べ、午後にまた出かけようかと思ったが、眠い+あまり元気ない+子供も出かけたがらないので家で過ごす。
当方35歳男性。都内で働く普通のサラリーマン。
結婚して子供もおり、仕事も忙しすぎない。
はたから見れば、平穏に暮らしている幸福な男に見えるかもしれない。
しかし実際には常に心に不安をかかえ、自殺願望に苛まれている。
「今後、社会人としてやっていける自信がない」
「自分みたいな夫(父親)で申し訳ない。いずれ妻や子供に捨てられるに違いない」
「今後何十年もこんな憂鬱な気持ちで生きていかなきゃいけないなんて、うんざりする」
「いずれ本格的にメンタルを病み、休職して周囲や家族に迷惑をかけるに決まっている。その前に自殺したい」
こんな風に、自己肯定感の低さに毎日苦しんでいる。
私がこんな生きづらさを抱えている大元の原因は、65年前の祖父の不貞にある。
このエントリでは、祖父の甘い考えが、いかに周囲を不幸にし、そして孫の私にまで悪影響を及ぼしているのかを書いていきたい。
今更、祖父(や母親)を糾弾したいという訳ではない。
ただ「不貞行為は周囲の人間を深く不幸にする」という主張をネットに残しておきたくてこれを書いている。
祖父は1935年の生まれで、今年で90歳になる。
今はもうヨボヨボで足腰もまともに立たない様子だが、
まだ元気な頃の祖父は、大柄で荒っぽく、よく怒鳴る、威圧的な男だった。
妻や娘に強い口調で「灰皿もってこい」などと指示をしたり、レストランの店員にも「ここはいつも提供が遅いんだ、今日こそ早く持って来いよ」などと凄んで見せることもあった。
聞いたところによると、子供のころからガキ大将で、よく他の男子たちを従えていたらしい。
戦前教育においては、「あいつは立派な兵隊さんになる」なんて教師から褒められた、と自慢げに語ってもいた。
中卒か高卒で働き始めたらしいが、どんな仕事をしていたのかは聞いたことがない。
何やら色々な職場を転々としていたらしいが、その理由についても聞いたことがない。
娘(つまり私の母親)のことは、彼なりに可愛がっていらしく、門限などのルールを厳格に決め、それを破るようなことがあれば怒鳴り散らしたとのこと。
娘に対する口癖は「お前が男だったらぶん殴っているところだぞ」で、つまり娘に手は出していなかったらしい。
孫である私のことは、大抵いつも甘やかしていたと思う。初の男孫で、祖父からしたらそれが嬉しかったらしい。
「欲しいものは何でもやってやるからな」といつも口にしていた。
実際、子供時代の私が「ONE PIECEの新刊が欲しい」と言った時には、町で一番大きな本屋まで車を飛ばし、
店員に「新刊はまだ置いてないのか。本当は店の奥にあるんじゃないのか」と凄んでみせるなんてこともあった。
そんな祖父のことを、私は子供心に「恥ずかしいな」と思っていた。
幼い頃から「お爺ちゃんとお店に行くと、店員さんに絡んだりして周囲に変な目で見られるから気まずいな」「どうしてお爺ちゃんは普通に人と接することができないのだろう」と感じていた。
そんな祖父が、妻を裏切って不倫を働いたのは1960年ごろ。
20代で結婚したばかりの祖父は、仕事に行くと嘘をついて愛人の家に足繁く通っていたらしい。
同じく20代の妻(私の祖母)が、愛人の存在に気付いていたのかどうかは分からない。
時代が時代だし、亭主関白な祖父のことだから、気づいていても言い出せなかったのではないかと思う。
そして、祖父は愛人を孕ませた。
堕ろせないほど胎児が大きくなった頃、どうしようもなくなった祖父は、不倫していることを妻に打ち明けたのだという。
その時、本妻(つまり私の祖母)との間には子供は居なかった。
当時の関係者たちは、話し合いの結果、子供の扱いを以下の通りに決めた。
・これから生まれる愛人の子供は、「本妻の子」として、夫婦(つまり私の祖父母)で育てる。
・出産が終わったら、愛人とは手を切る。子供とも会わせない。
今の感覚からすると、ちょっと不思議な取り決めではあるが、
その時代の人々は「女手一つで子供を育てるなんて無理だ」と考えたらしい。
愛人の子は、生まれてすぐに実母の手から引き離され、夫婦のもとで育てられることになった。
そうして愛人は、祖父と縁を切り、実の子供とも縁を切った。
この「愛人の子」というのが、私の母親である。
要するに、私は「愛人の子供の子供」というわけだ。
母は、かなり幼い時期(6歳くらいの時)に、自分の生みの親が別にいることを教えられたらしい。
母曰く「大人たちは子供に嘘をつき続ける罪悪感に耐えられなかったのだ。だから早々に全てを打ち明け、苦しみを子供である私に押し付けた」とのこと。
実際、打ち明けた後の祖父は気が楽になった様子で、「ま、何にせよお前は私たちの子供だからな。気にすんな」と半ば上機嫌に言ったのだという。
祖母がどういう気持ちだったのかは分からないが、その頃にはもう折り合いをつけていたようだ、と母は言う。
もちろん、出自を知らされた母の方は、そう簡単に折り合いをつけることは出来ない。
実父への恨み、軽蔑、自分自身への嫌悪感――彼女は耐え難い苦しみに苛まれながらも、相談できる大人もおらず、そのことを話題に出すことすら出来ず、毎晩布団の中で息を殺して泣いていたという。
「死にたい」「生きていても良いことなんて無い」――母が今後半世紀以上にわたって口にすることになるこうした考えは、幼少期にはもう形成されていたのだという。
その後、母は見かけ上は問題なく成長していった。
非行に走ることもなく、反抗期らしい反抗期もなく、真面目な女学生として青春を過ごし、短大に入り、事務職として就職した。
しかし彼女の中では、はっきりとした父への恨みと、男性への嫌悪感(ミサンドリー)、そして血の繋がった家族への憧れ(歪んだ家族観)が形成されていった。
母の男性嫌悪は、祖父の不貞の影響だけでなく、生まれ育った時代の影響も大きいと思う。
60年代生まれの女性は、夫に仕える母親の姿を目の当たりにしつつ、ウーマンリブ活動などの洗礼も受けた世代だ。
女性解放という理想を胸に抱いてはいたものの、実生活では、未成熟な社会により女性が不当な扱いを受けていた世代。
そんな時代を生きてきた母の男性嫌悪感はとにかく凄まじいものがあり、社会的に活躍している男性はすべて「男だから成功しただけ」と批判し、牛丼屋の前を通れば「男による男のための施設だ」と批判し、殺人事件のニュースを見れば「どうせ犯人は男だろう」と批判した。
そんな母だが、1985年、22歳で父と出会い、結婚した。そして寿退社して専業主婦になった。
22歳というのは、当時にしても早いほうだったという。
なぜ男嫌いの母が結婚をしたのか。母は以下のように語っていた。
「若いときは、自分に言い寄ってくる男が沢山いた。どれもろくでもない男だったが、私は自己肯定感が低いばかりに『誰か選ばなければ』という気持ちになってしまい、仕方なく結婚した」
この発言は、ある程度は事実だろう。
だが私が思うに、母は「血の繋がった自分の家族」に憧れがあったから、若いうちに結婚・出産をしたのだのではないか。
実父とのわだかまりがどうしても解消できず、もしかしたら実家に居場所を感じられなかったのかもしれない。
「自分こそは正しい家庭を作らなければならない。正しい居場所を作らなければならない」
そういった内なる声に突き動かされ、父との結婚を決断したのではないかと思う。
そうして結婚の1年後に娘が生まれ、さらに4年後に息子が生まれた。これが私だ。
母は自分の子供たちを心の底から大事にし、可愛がった。
絶対に明るく楽しい家庭を作るのだと、意気込んでいたのだという。
母はとにかく私を可愛がった
赤ん坊のころは、求めるだけ抱っこをし、求めるだけ食事を与えたという。
記憶にある範囲でも、食事はほとんど毎食手作りだったし、誕生日やクリスマスは部屋を飾り付けて祝ってくれた。
遊園地や海水浴、スキー、登山など、色々なところに連れて行ってくれた記憶もある。
ただ、悪い言い方をすれば、過保護・過干渉すぎる傾向もあった。
例えば小学校に上がるまで、子供のズボンや靴下を親が履かせていた。
小学校に入った後も、中学を卒業するまで着る服はすべて親が用意して布団の横に置かれていたし、友人と出かける際や修学旅行の荷物も、すべて親が用意してバッグに詰めていた。
お小遣いはなく、親が良いと思うもの(本、洋服、靴など)のみが買い与えられた。
また、私が成長するという事実が気に入らず、それを否定(無視)するような行動をとった。
子供の成長を無視していつまでも小さいサイズの服を着せた。
高校生になっても「まだ子供だから」といってシャーペンを使わせなかった。
思春期になり髭剃りが必要になっても、「子供にそんなもの必要ないでしょ」といって取り合わなかった。
※とはいえ髭は剃らない訳にはいかなかったので、父の髭剃りをこっそり使っていた。
特に身だしなみについては厳しく、「子供が色気づくな、汚らわしい」といって、七三分け以外の髪型を禁止し、母の選んだ服しか着させなかった。
更に、私が男らしくなっていくことも嫌だったらしく、声変わりや喉ぼとけが出てくることについて「気持ち悪い」「汚らわしい」「父親そっくり。近づきたくない」などと揶揄した。
父はほとんど家庭に干渉しなかった。
離婚や別居をしていた訳ではない。私が家を出るまで一緒に暮らしていたのだが、記憶にある限り父はほとんど口を開かなかったし、家事や育児を行うこともなかった。
これは、母が家庭や育児に関わることを全て自分でやりたがり、それが最善だと信じていたからだ。
炊事や洗濯、家計管理、教育、子供の進路決定など、すべて母が一人で行っていた。家族で遊びに行く場所もいつも母が決めていたし、引っ越しの決断や、車を買う時も母がすべて決めていた。
父は、そんな状況についてすっかり諦めているようだった。
父がたまに何か自分の意見らしきものを言ったら、母は烈火のごとく怒り、叫び、罵倒をした。
だから、父は朝早くに会社に向かい、夜遅くに帰宅した。休日は、自室でラジオを聴いているか、一人で近所を散歩しているらしかった。
こうした状況について、子供のころは「お父さんは可哀想だな」と思っていた。
しかしこの歳になって考えてみると、父は親としての責務を放棄していたのだと考えるようになった。家庭への参加を諦めた父の態度は、褒められたものではないなと思う。
そんな訳で、母の「完璧な家庭像」からくる過干渉(支配)と、男性嫌悪からくる人格否定は、着実に私の精神を蝕んでいった。
小学校に入るころから、得体の知れない生きづらさを感じるようになった。朝から晩まで憂鬱な気分でいっぱいで、腹痛にも悩まされた。
しかし母親に「気分が悪い」や「お腹が痛い」などと言おうものなら「また親に面倒かけて! 親不孝者!」と怒鳴られるのは分かっていたので、誰かに言うことはほとんどなかった。
人間関係もあまり上手くいかなかった。自分に自信がなく、何か言われても言い返してはいけないと思っていたので、人気のない当番や係を押し付けられた。
何か馬鹿にされたり、男友達に軽くぶたれたりしても、言い返したり出来ず、笑ってやり過ごすしかできなかった。
自殺願望が明確に芽生えたのは小学四年生くらいのころだと思う。自分の顔や体型、性格などが本当に気持ち悪く感じて、消えてしまいたいと感じていた。
しかしそれが親の影響だとは気づかず(むしろ「良い母親に育てられたのに死にたがっている自分はクズだ」と感じていた)、心療内科に行くという発想もなかった。中学生以降は、『完全自殺マニュアル』などを読みふけり、ホームセンターで首吊り用のロープを購入し、いつでも死ねる状況を作ることで何とか心の安定を保っていた。
転機になったのは、就活だった。
私は大学の機械科に進学していたので、いわゆるメーカーへの就職を考えていた。
安定性を考えて、全国に工場があるような大企業を中心に就活を進めていた。
そのことを話すと、母は激怒した。
「大きい会社なんかに行って、家から通えなくなったらどうするの! 私たちを見捨てるつもり!? あんた馬鹿なんじゃないの!?」
母の言うところによると、私は長男なのだから、当然実家から会社に通い、結婚しても実家に住み、両親が死ぬまで介護をするものだと信じ切っていたらしい。
そしてそれは長男の当然の義務であり、それを守らないのであれはお前は人間のクズだという。
私は驚きつつ、転勤のないメーカーなんてほとんど存在しないことや、自分には社会人になって何をしたいのかということを自分なりに説明した。
しかし母は聞く耳を持たず、号泣し、「絶対に転勤のない地元の会社しか認めない」「大企業を受けるというのなら今すぐ大学に電話して退学にさせる」「お前なんて産むんじゃなかった」と言って暴れた。
深夜になり帰ってきた父も、母に同調して「家を出るなら、お前を育てた意味がないじゃないか」「お前のやりたい事なんて興味ない。お前は親の面倒を見ればいいんだ」といって聞かなかった。
結局、その日は私が折れる形で終わった。
今になって思えば、親なんかに大学を辞めさせられる訳がないし、親の言う事なんて無視すればよかったと思う。しかし当時の私は親に洗脳されていいて、「親に嫌われたら社会で生きていけない」と考えていたから、「地元で就職するしかないんだ」「大学に行って勉強したのに、すべて無駄になるんだ」と思い、絶望感でいっぱいになった。
それからひどい体調不良に襲われた。
ここで初めて「もしかして私はうつ病なのか?」という考えに至り、心療内科(カウンセリング)に行こうと決意したのだった。
---
カウンセラーの先生に色々な話をした結果、「心身の不調の原因は親にある」をいう指摘された。
最初は「そんな筈はない、うちは絵のかいたような良い家庭で、問題があるのは僕自身だ」と思っていたのだが、勧められた本『毒になる親』を読んでいくうちに、どうやら親に問題があるようだということにようやく気付いたのだった。
それから、カウンセラーの先生と相談し、精神安定のために「ひとまず親と物理的な距離を取ろう」と決めた。
具体的には、親に内緒で全国転勤のあるメーカーを受け、全て決まった後で親に「会社の決定で遠方に勤務することにした」と事後報告した。
当然、親からは「親不孝者」「お前なんて産むんじゃなかった」「お前のせいで体調が悪い」などと恨み節をさんざん言われたが、結果として実家から離れた場所で一人暮らしを始めた。
その後は正月などに嫌々帰省していたが、その度に母が泣きながら罵倒してくるのにうんざりして、ある年から帰るのをやめた。
家を出て三年後、結婚を考える相手が出来たので、顔合わせをしたいと親に連絡した。
すると、
「勝手に家を出て、勝手に結婚だなんて何を考えているんだ。結婚なんて絶対認めない。そんな女には絶対に会わない」
「まずはお前が家に帰り、きちんと謝罪しろ。そして両親を一生介護すると誓え。その上で、そんな馬鹿な女とは別れろ」
と電話でまくし立てた。
私は、親とちゃんと話し合いをする最後のチャンスではないかと考えた。
それで、数年ぶりに帰省し、小さいころから親の過干渉に苦しんでいたことを伝え、一緒にカウンセリングを受けて健全な親子関係を築かないかと提案した。
しかし当然というか何というか、両親は聞く耳を持たず、
「ふざけるな。私達の子育てには一切の問題はない。問題があるのはお前の人格の方で、お前がどうしようもないクズ人間だから問題が起きているんだ」
「自分のことを棚に上げて両親を攻めるなんて、お前は本当に人間のクズだ。死んだほうがいい」
「カウンセリングなんて絶対に行かない。お前もカウンセリングなんてインチキに頼らず、まずは親孝行をすることを考えたらどうだ」
「いい加減わがまま放題を言うのをやめて、親のことを考えられる真っ当な人間になったらどうだ」
と何時間も私を罵倒した。
私は良い加減うんざりしたので、これを機に親を縁を切ることを決断した。
これ以降、私は実家と一切の連絡を絶つことにした。親の葬式にも行くつもりはない。
親と縁を切り、結婚して、今年で七年になる。
今のところ親からの連絡はない。住民票を調べれば私の現住所は分かるだろうから、今のところ私に連絡する理由(例えば金の無心だとか、誰かの訃報だとか)が無いのだろう。
親との連絡が完全に途絶えたことで、物理的に私は自由になった。
今は自分の好きなところに住み、自分の選んだ仕事をして、自分の選んだ家族とともに暮らしている。
表面上、大きな心配事はない。
それでも前述のとおり、私は常に憂鬱な気分でいて、自殺願望に苛まれている。
何をしていても、「親孝行しないお前はクズだ、死んだほうがいい」という母親の声が頭の中に響く。
新しいことに挑戦しようとすると、「お前なんかに出来るわけないだろう」という思考が思い浮かぶ。
駅のホームに立っていると、「今だ、飛び込め! 楽になれるぞ!」という自分の声が聞こえてくる。
子供がいるから、今死ぬ訳にはいかないと考えている。
心療内科とカウンセリングに通い、投薬もしているので、何とか死なずに生き続けてはいる。
それでも「生きた心地」はしない。心は晴れない。新鮮な空気を吸っている感じがしない。
こうした現状について、母を恨む気持ちはあまりない。
確かに母には酷いことを沢山言われたし、間違った教育もたくさんされた。
しかしそうした行為の根底にあったのは、ただ「良い家庭を作りたい」という気持ちなのだと思う。
その想いが暴走し、息子に過干渉になり、そして息子を家庭に縛り付けようとしたのだろう。
そしてなぜ母がそれほどまでに「良い家庭」に拘ったのかというと、それはやはり祖父の不倫が元凶であるように思う。
祖父の不倫が、一時の性欲が、母を苦しめ、狂わせ、巡り巡って私の精神を蝕んでいるのだ。
90歳になった祖父は、もうほとんど歩けず、居間にずっと座って過ごしているらしい。
認知症も進行して、同じ話を何度も繰り返していると聞く。
もう、不倫相手のことなんて忘れているかもしれない。自分が不倫したことすら覚えていないかもしれない。
しかし、彼が不貞を働いたという事実は消えない。祖母の苦しみは消えない。母の苦しみは消えない。私の苦しみは消えない。
今日も私は駅のホームに立ち、希死念慮と戦う。頭の中のもやは消えず、圧迫感のなかで「死にたい」と呟く。
長々書いたが、私が言いたいことは一つ。
不倫は絶対にするな。
一般に認識されている以上に、その罪は深く、悪影響は広く、長く続く。
今後私みたいな人間が生まれないためにも、これを最後まで読んだ人は、不倫は絶対にしないでほしい。
以上。
最後まで読んでくださって感謝します。
2025.2.21金
・このアカウントってどう使えばいいんだっけ? というのが、またまた分からなくなってきた……。
僕はざっくり言うとアカウントを2つ持っている。
1つは、奥さんや友人も多く見ている表のアカウント。ネット上の知り合いも見ている。
表アカウントでは、人に広く読んでほしいこと(自分が書いた小説や、おすすめ本や映画の紹介など)を書いている。
そしてもう1つが、知り合いがほとんど見ていない匿名アカウント(このアカウントのこと)。
SNS的な運用はほとんどしていない。だから読んでいる人はほとんどいない。
この匿名アカウントでは、知り合いの前では言いずらい悩みや、とりとめのない日記、物事に対するちょっとした感想などを自己満足で書くつもりだった。
こうしたものは、別に広く読んで貰わなくてもいいが、何か悩んでいる人などが検索サイトから辿り着いて「へえ、こう考えた人もいるんだな」くらいに思ってくれれば嬉しいな、と思っていた。
だが、毎日匿名アカウントで日記などを書いていると、「こっちのアカウントも色んな人に読んでほしい」という欲が出てきた。
それで、「noteではどういうタイトルだと読まれやすいのかな」とか、「色んな人をフォローして交流しようかな」なんて余計なことを考え始めてしまった。
要するに、表アカウントと匿名アカウントの立ち位置が曖昧になってきたのだ。
これは非常によくないと思うので、ここで自分にはっきり言っておこうと思う。
ここで書いているような、とりとめのない日記とか、内向的な悩みの話は、決して広く受け入れられるようなものではない。自己満足で書いているだけだ。だから、ここで書く内容について「もっと読んでほしい」と考えるのはやめよう。
あくまで、「たまたま通りがかった人が少し面白がってくれるといいな」というスタンスを忘れないようにしたい。
※例えば昨日は「作業習慣化のオリジナルメソッド」について書いたが、よく考えたらこれは知り合い含め色んな人に読んでほしい内容だった。こういうものはこのアカウントではなく表アカウントで書いていこうと思う。
—-
・腰の痛みはほとんど引いた。一週間くらいだったかな。
・『ブルーピリオド』2巻まで読了。絵を描き始めた高校生が(無謀にも)藝大を目指す漫画だが、2巻にして既に「受験に特化した絵画って本質的ではないのでは? 自分にとって絵画の本質とは?」みたいな話まで進んでいて凄い。高校生ここまで考えられるのは本当に素晴らしいことだと思う。
・『スキップとローファー』みつみと志摩くんがお友達に戻るところまで。みつみちゃん意外とリアリストだな……。確かに人生は何でもかんでもは出来ない。みつみちゃん本当に官僚になるのかな……官僚の生活は長くて辛いぞ……。
・チョコレート「Arista al latte e spezie」が美味しすぎる。デパートの催事場で買ったけど、これ普通は日本で買えないやつなのかな?
・カラタチのラジオを聞いてみた。オタク的話題をお届けしてくれるのが普通にうれしい。この二人が喧嘩っぽい話し方をするのって漫才の中だけじゃないんだな。
2025.2.19水
・「抱っこしすぎによる腰痛」が残ったまま出勤。腰を曲げて歩いていたら職場の皆様に心配されたり笑われたり。
・昨晩はフェイクドキュメンタリー『飯塚一家に謝罪します』全話見る。面白いですね。
このシリーズは何よりも役者さんの演技が凄まじいなと思う。今回で言えば、テレビ関係者たちのリアルなうさん臭さだとか、あのお婆ちゃんの不気味さとか、息子さんの笑っているんだか泣いているんだか分からない表情とか。
構成の話で言えば、イシナガキクエもそうだけど、最後の最後(ラスト数十秒)でドンとオチを付ける手法が観ていて心地いい。ミステリっぽい。
(以下最終話のネタバレ)
内容の話をすると、大まかな回答は提示されるものの、細部は交雑の余地があって、ネットでもいくつかの仮説が挙げられている様子。
ただ、いわゆる作劇的な論点から作者の意図を想像するに、ラストの台詞「オカルトにハマってたんですか?」「りんごを送ってますよね」と、暖炉の炎がクローズアップされる映像から、
・飯塚一家に呪いをかけた(もしくは呪い返した)のは明正
・良樹の体調不良の原因も明正(の呪い)
・火事の原因は明正(による放火)
の三点はほぼ確定かと思う。
りんごを送り続けている直接の原因ははっきりしないけど、純粋に「懺悔の気持ち」だと嬉しいなと個人的には思う。
ネットだと「りんごには呪術的な意味があるのでは」なんて考察もあったけど、(特殊な果物ではなく)単なるりんごにそこまでの意味を見出すのはちょっと無理があるかなと感じる。
「りんごを送ることで岸本さんの生死を確認している」という考察も見た。これも論理としては綺麗だなと思うけど、遺族が受け取るとか色々なことが考えられるので、そう上手い手でもないかなと思う。
(ネタバレおわり)
・他に『トリリオンゲーム』10巻も読んだ話、絶望パスタを食べた話、noteのいいねだけする人の話、POST HUMAN: NeX GEnを聴いた話などをしたいが、時間がないのでまた今度。
・そろそろ月一のカウンセリングの時間(今待合室)。何話そうかなあ……。
2025.2.18火
・今日も腰痛が残っていて有休。研修があるため行く準備をしていたが、スーツを着る時点で「無理だな……」となったので家で過ごす。
・『TOUGH外伝 龍を継ぐ男』が5巻まで無料になっていたので読んだ。ネットでネタ的に話題になっているな~くらいの印象だったが、読み始めたらしっかり熱い展開で面白い。特に絵が上手くて迫力があるので読むのが楽しい。
ただ4巻くらいから、主人公の性格が(悪い方向に)変わっていった感じがした。元は「生き甲斐を求めて、まだ見ぬ父へ名状しがたい感情を持つ男……」という感じだったが、坊主にしたあたりから格闘狂になってしまっている印象。
でも静虎さんがずっと大人な男って感じで良いですね。僕はこういう男に憧れます。
宮沢熹一は、全作までの主人公だったらしいけど、悪役っぽい登場の仕方。いわゆる闇落ちしたってことなのかな? 後でその辺の詳細が語られると嬉しい。
まだ何巻かアプリ(ゼブラック)で読めるようなので、ちまちま読んでいきます。
・他は毎日と同じようなことをして過ごす。
安全確保支援士の勉強。参考書『支援士R5』が終わりそうなので、『支援士R4』をポチった。
・お昼はウーバーイーツで奥さんとケンタッキー。レッドチリチキンを初めて食べる。コンビニのホットスナックみたい。美味しいという意味。
2025.2.17月
・腰痛が残っていたので有給。
職場の上司も、整形外科の人も「抱っこのしすぎで」
と言うと「ははは、大変だね笑」と笑うんだけど、当事者としては全然笑い事ではない。
・整形外科までの間、前から行ってみたかった近所の定食屋(FLANK)に初めて行く。
入ってみると、店の親父さんがカウンターに足を置いて(上げて)漫画雑誌を読んでいて、「あ、ガテン系のお店か?」と少し不安に。
よく見ると全ての席に灰皿が置かれているし、どれも安いし、入ってくるお客も肉体労働者の人ばかりで、かなり場違い感があった。
食べ物(生姜焼き定食)自体は美味しかったしコーヒーも良かったけど、喫煙可ということなので、今後奥さんや子供を連れて行くことはなさそう。まぁまた一人で暇な時間が出来たら……。
・人生初の整形外科。レントゲンしたが大きな問題なし。
生まれて初めてコルセット(服の下にするやつ)を貰った。少し大袈裟かなあ。痛みも引いてきたので明日には会社行けそう。まだ腰を曲げてじゃないと歩けないけど。
・ナコンさんの以下の動画が良くて少し泣く。
https://x.com/love_eminemu/status/1890370405606752337?s=46&t=l4zGMFJjh5m5iMZzFhoB-g
「自分の不幸を陳列だけはしねえよ」って良い言葉だな。noteには自分の不幸を陳列する人が沢山居るから……。
・娘が初の「じゃんけんぽい!」をしていた。でもルールはまだ分かっていない。