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浦添市(うらそえし)の浦添ようどれに行ってみた
浦添ようどれは、琉球王国初期の王陵だ。
ようどれとは琉球語で夕凪(ゆうなぎ)の事だ。
沖縄戦で破壊されたが2005年に復元されている。
↓浦添ようどれ (最上部の石垣は浦添城)
あの世へ行くような雰囲気の暗しん御門(くらしんうじょう)
沖縄戦以前は岩がせり出していてトンネル状になっていた。
一番奥の一番庭に入ってみると、
尚寧王(しょうねいおう)の葬られた東室(左側)と、
英祖王(えいそおう)が葬られた西室(右側)がある。
東室の左側には変わったシーサーがあった。
右側は沖縄戦で無くなってしまったようだ。
浦添ようどれの上は展望台になっていて、
市街地と普天間飛行場が見えていた。
浦添ようどれの後ろの高台は、
浦添城(うらそえぐすく)だった。
現在は、復元された石垣くらいしか残っていない状態だ。
浦添城のディーグガマ(中央左)と浦和の塔
近くにあった浦添グスク・ようどれ館に行ってみた。
西室(英祖王陵)が実物大で再現されていた。
前田・経塚近世墓群の発掘調査で発掘された、
三線音楽の工工四を創案した屋嘉比朝寄の厨子もあった。
1597年ころに首里から浦添グスクまで整備された
中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)に行ってみた。
平成になって復元された安波茶橋付近が復元されていた。
安茶橋は、北橋と、南橋の2つの橋があった。
安波茶橋 北橋は18~19世紀に改修された橋のようだ
滝の上にある安波茶橋 南橋は、
沖縄戦で破壊されたが復元された。
沖縄戦などで失われたものが多かったが、
復元され昔の琉球王国時代の雰囲気が
味わえる状態にになっていて楽しかった
浦添ようどれは、琉球王国初期の王陵だ。
ようどれとは琉球語で夕凪(ゆうなぎ)の事だ。
沖縄戦で破壊されたが2005年に復元されている。
↓浦添ようどれ (最上部の石垣は浦添城)
あの世へ行くような雰囲気の暗しん御門(くらしんうじょう)
沖縄戦以前は岩がせり出していてトンネル状になっていた。
一番奥の一番庭に入ってみると、
尚寧王(しょうねいおう)の葬られた東室(左側)と、
英祖王(えいそおう)が葬られた西室(右側)がある。
東室の左側には変わったシーサーがあった。
右側は沖縄戦で無くなってしまったようだ。
浦添ようどれの上は展望台になっていて、
市街地と普天間飛行場が見えていた。
浦添ようどれの後ろの高台は、
浦添城(うらそえぐすく)だった。
現在は、復元された石垣くらいしか残っていない状態だ。
浦添城のディーグガマ(中央左)と浦和の塔
近くにあった浦添グスク・ようどれ館に行ってみた。
西室(英祖王陵)が実物大で再現されていた。
前田・経塚近世墓群の発掘調査で発掘された、
三線音楽の工工四を創案した屋嘉比朝寄の厨子もあった。
1597年ころに首里から浦添グスクまで整備された
中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)に行ってみた。
平成になって復元された安波茶橋付近が復元されていた。
安茶橋は、北橋と、南橋の2つの橋があった。
安波茶橋 北橋は18~19世紀に改修された橋のようだ
滝の上にある安波茶橋 南橋は、
沖縄戦で破壊されたが復元された。
沖縄戦などで失われたものが多かったが、
復元され昔の琉球王国時代の雰囲気が
味わえる状態にになっていて楽しかった