藤原冬嗣の長男、長良は、淳和天皇の治世の824年(天長元年)、従五位下に叙爵した。
当時、長良は、春宮の正良親王の信頼が、篤く、常に近侍していた。
833年(天長十年)、正良親王が、即位して、仁明天皇になると、藤原長良は、正五位下、836年(承和三年)に、従四位下に叙爵して、順調に昇進している。
しかし、藤原冬嗣の次男、良房は、仁明天皇の即位後、一年程度で、従五位から、参議に至る等、急速に昇進し、兄の長良を官途で追い抜いた。
藤原長良は、844年(承和十一年)、従四位上・参議に叙任され、良房に10年に遅れで、公卿に列した。
850年(嘉祥三年)に、藤原長良及び、良房等の兄弟である、文徳天皇が、即位する。
藤原長良は、正四位下、次いで、従三位、翌年には、正三位と続けて昇叙されるが、同年、10歳以上年少の同母弟、藤原良相が、先に権中納言に任ぜられ、後塵を拝することになる。
854年(仁寿四年)、長良は、権大納言に昇進した、良相の後任として権中納言に昇進し、856年(斉衡三年)6月に従二位に叙せられるが、同年7月3日に死去、享年55。
藤原長良は、昇進は、良房、良相の後塵を拝したが、弟達に比べ、子女に恵まれており、長良の子孫は、大いに繁栄した。
特に、藤原良房には、息子がいなかったため、長良の三男の藤原基経は、良房の養子となった。
血筋的には、藤原良房の子孫は、存在せず、藤原長良の息子の基経の子孫が、北家を反映させたため、長良が、北家の嫡流と言える。
藤原冬嗣の五男、藤原良相は、仁明天皇の治世、838年(承和五年)従五位下に叙爵した。
藤原良相は、841年(承和八年)に従五位上、843年(承和十年)に正五位下、更に846年(承和十三年)従四位下と順調に昇進し、848年(承和十五年)は、参議となって、公卿に列した。
850年(嘉祥三年)、甥の文徳天皇が、即位すると、正四位下に叙される。
同時に、藤原良相は、皇太子の惟仁親王の春宮大夫に任ぜられた。
851年(仁寿元年)に、良相より、先に参議に任官していた長兄の長良を越えて、従三位に昇叙されると、権中納言に任ぜられる、854年(仁寿四年)年、大納言兼右近衛大将と文徳天皇の治世朝で、急速に昇進し、857年(天安元年)2月、右大臣に就任。
859年(天安三年)正二位に至る。
藤原良相は、清和天皇の治世では、中納言兼民部卿の伴善男と共に太政官政治を牽引した。
864年(貞観六年)正月、清和天皇の元服に伴って、娘の多美子を入内させ、女御とした。
清和天皇と多美子の間に、皇子が、誕生すれば、天皇の外祖父で、太政大臣の兄・藤原良房の立場を継ぐことが可能になったのである。
同年冬頃、太政官の首班、兄の太政大臣・藤原良房が病に伏したため、藤原良相は、多くの太政官符にて、上卿を務める等、太政官政務を掌握しており、太皇太后の藤原順子及び、その信任を得ている、右大臣の藤原良相、太皇太后宮大夫兼大納言の伴善男の三者連合が、清和天皇の政権の中枢を担っていたと思われる。
866年(貞観八年)3月に藤原良相の西三条第(百花亭)に清和天皇が行幸して、40人の文人を参加させた、大規模な花見の宴を開催した、その頃、兄の藤原良房の健康が、回復し、閏3月には、良房の染殿第にて、清和天皇の行幸を伴う、観桜宴が競うように開催された。
即ち、藤原良房と弟の藤原良相の権力闘争が顕現化したのである。