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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『残された者たち』

2025-01-05 23:21:34 | 読書。
読書。
『残された者たち』 小野正嗣
を読んだ。

五人しか住んでいない海岸沿いの集落、尻野浦。校長先生と若い女性教師、そして父、息子、娘、の一家がその居住者のすべてです。また、近くには干猿というガイコツジン(外国人)が住む集落があります。尻野浦と干猿ともども、限界集落以上に限界状態なので、もはや地図上からは消えてしまった土地だったりします。そんな土地での日常から生まれた物語でした。

まず。純文学の語り方って、過去と今の間の垣根が低かったりします。混同まではしていないけれど、峻別とはほど遠い。時間認識が、人の意識の自然な再現に近いのかもしれません。人はいろいろ考えながら頭の中で自在かつ自由に時を超えながら1日を過ごしているものですから。そういった感覚かと思います。エンタメだったら、過去と今の垣根が低くなって、読者にも気づかれず行き来するときはトリックとしてのときです。そのトリックを際立たせるためだったり、もしくは読みやすさのためだったりのために、過去と今の間の垣根は平常時には高くして峻別的な語り方をしがちでしょう。

ということに半分ほどまで読み進めたときに気づかされて、最後まで読み終えてみると、これはもっと雄大な小説的思想に基づいた作品だったのではないだろうか、となにかの尻尾がみえはじめ、頭をひねりはじめることになりました。

巻末で西加奈子さんが解説していて「そうか、そうか」とはっきり気づかされたのですけれども、三人称の語りである本作のその視点は、読んでいるうちに、主眼となっている誰かがいつの間にか切り換わっています。また、過去と現実のあいだの時間移動、リアル世界とリアルではないような世界との空間移動(世界移動)もその境界がはっきりしません。型取りをして、あるいは型を仮定して、それから世界を示す、といった方法ではなく、ただ中身を書いていくというような書き方というといいでしょうか。

どうしてそのような方法で小説を書いたのか?

僕が考えてみた答えはこうです。紙にペンで線を引っ張るようにして書いていくと、輪郭のある物語になります。それは多くの小説がそうであるようにです。現実のシーンがあり、回想のシーンがあり、夢のシーンがありというようにはっきりそれらがわかる書き方がされ、主人公を見守る視点は固定されて変わることはなくといった書き方がされるのが、輪郭のある物語だとしましょう。一方、『残された者たち』で用いられているのは、時間や空間そして視点の切り換わりのタイミングが秘密裏に行われていて、読者に明示されない書き方であり、うまくいけば輪郭を書かなくてすむ物語ができあがっていきます。そこを狙った方法だったのではないか。

輪郭を決めてしまわないことで、まるごとをその世界の中に入れることができる、とも考えられるのです。なぜならば、輪郭で区切って排除する部分がないからです。だから輪郭を書かないこの技法は、書かれていないことまでをも、「可能性」として折りたたんで存在させることができる方法でもあるといえばいいのでしょうか。そういった技法だと思いました。

ちょっと、ひとり、興に乗ってきたので、もう少し深掘りしていきます。

大げさに言うと、この小説の構造は宇宙においての星の分布に似ていると言えるかもしれません。星は密集して銀河を作っているし、その銀河も他の銀河たちと近い場所に群をなすように偏って位置しているものです。ということはそれとは逆に、星がほとんど存在していないエリアもあるわけで、宇宙とは平均的に星が位置しているものではありません。つまり、宇宙には、星が密集している宙域と、星がほとんどない宙域が存在していて、宇宙はそのような、密集と過疎でできたアンバランスな有り様をしている。

密集と過疎は、この小説の文章の配置、濃淡にも言えるのです。はじまりから40数ページくらいまでは過疎といっていいような、まあアマチュアリズムのような楽し気なところはいいとして、でも軽薄な中身でした。僕は最後まで読んでみようという気でいましたけれど、世の数多の読者はこの小説世界に引き込まれないうちに序盤でページを閉じてしまう可能性がけっこうある気がして、ちょっと作りとしてはまずいのではないか、なんて老婆心が起こったくらいでした。それが、40数ページ目以降、読ませる文章と内容、そして考えさせる深淵と謎、パズルのようなものが出てきます。ここは密集にあたるのではないか、と。エンディングから20ページほど遡った箇所も、過疎のようなところがありまして、登場人物のひとりである「校長先生」というキャラクターが、相変わらずのどうにも軽薄な英語ジョークを使い、それが中身のないものが多く感じられるのです。再び過疎がやってきた箇所です。

また、銀河にもさまざまな性質の銀河がありそれらが隣り合っているように、本作の各シーケンスの色合いにも性質がさまざまです。それは前述のように視点が変わることもそうですし、過去と現在が並列に語られることでもそうで、とある過去という銀河、とある現在という銀河、というかたちで本作の中に存在していると見ることができるのではないかと思いました。

そして、宇宙人モノ映画『E.T.』の話が本作の中に深く糸を通すように使われてもいて、そこでも宇宙と本作の構造との連関の示唆が感じられもしたのでした。でもまあ作者にそんな意図はなく、僕の気のせいレベルかもしれないですが、上記のような力技な考察も可能だったということはこうして書き残しておきます。

再度書きますが、輪郭を決めてしまわないことでまるごとをその世界の中に入れることができる書き方は、果てのない宇宙の構造を模倣したとも言えるでしょう。果てがないということは、輪郭がないということですから。

そうすると、本作のタイトル『残された者たち』という言葉から解釈されるのは、かなり強引になるのですけれども、形ある者、輪郭のある者というのは、宇宙の成り立ち上、どこか、辺境に残された存在であり、つまり「生きている」ということは、宇宙的な意味では「残されている」に解釈されるのではないのか、と思えてくるのです。ここまでくると、もう僕のアタマ自体がユニバースです。それでもまあ、純文学ですから、そういった試みがなされていてもおかしくはない。芸術の領域の仕事としてはやりかねないことです。

というところで、最後に引用を。
__________

だから人は笑うのだ。だから人は泣くのだ。笑うことと泣くことは安全弁なのだ。自分を開くことだ。そうやって穴を開けて、世界と心のあいだに空気を行き来させ、笑いと涙によって穴を広げ、もっと広げ、いつの間にかできていた仕切りを取り壊し、世界に心を、心に世界をしみ入らせ、心にその広がりを回復させるのだ。(p93)
__________

→人が人としていることの基本ですね。基本なんだけれど、なかなかこういったことを言葉にはしてこなくて、言われてみてはっとするというような文章ではないでしょうか。泣くときに泣ける人に育てるのが大切だ、ともいわれますし、あんまり笑わなくなった友人をみて「大丈夫かい」と声を掛けたりするのは笑いの意味を意識せずにでもみんなわかっているからですよね。この引用箇所は、実に力のある、そして力をもたらす部分ではないでしょうか。

また、孤児がその自分の存在の原初的な意味でのつらい部分をしっかり書いている部分(p68)もあって、存在否定っていうものが子どもには強烈なつらさをもたらしますから、そういった痛みがあることを忘れないでいたいですし、ほんとうに多くの人にもわかってほしいことだなあと、思いました。




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愛すべき、アイドル卒業後の彼女たち。

2025-01-04 17:36:24 | 考えの切れ端
卒業したアイドルさんが彼女たちのイメージに無いような卒業後の行動をふつうにとっているとき、それはたとえば、居酒屋とかスナックでおしゃべりしながら楽しく飲んでいたり、町中華の小上がりであぐらをかきながら瓶ビールをぐひぐびやっていたり。これらの、なんてことはないのだけど、ちょっと「どうしてだろう?」とファン側からは思えてしまう振る舞い。そんな彼女たちにたいして、僕には「現役アイドル時代、いろんなファンと向き合ってきたから仮説」がある。あくまででっかい仮説です。勝手な想像の産物に近いですが。

仮説とはこういうもの。お金のないファン、人生負けっぱなしのファン、嫌われ者のファン、悲しみや苦しみを背負ってるふうなファン、身なりが汚いファン、言葉遣いが荒いファン、表情も口数も少ないファンその他などなど、いわゆる「少数派に割り振られる人」だったり「社会の周縁がやっと自分の居場所」だったりした人たちもいたと思うのですよ。そういった、通常とか一般とかの文脈ではとらえきれないような、その個人個人ならではの情報量を多く抱えた人たち、といったらいいのでしょうか。そういう人たちもアイドルを応援しているわけです。

アイドルを卒業すれば、一般ファンたちもそうかもしれないけれど、そういう人たちともちょっと距離ができるような気がする。でも、現役の頃にそういった、一般の枠からはみ出ているようなファンの人たちを受け止めたのはウソではなく、さらに、卒業したから断ち切ろうとすることは現役の頃の自分をも断ち切ることにつながりもするし、前述の「瓶ビールをぐひぐび」やったようなアイドルさんは受容し包摂したように感じられた。

いろんな人生の人と正面から「ありがとう」のやりとりをしたし、その自覚があるから、自分が成功者になっても、彼らとまったく違う地面に立つことは自分の在り方ではないと感じるゆえなのかもしれない。まあ、一般の枠からはみ出ているようなファンの人たちを例にするのはちょっと突飛だったかもしれませんし、一般的な枠内にはまっている「庶民的なファン」を例にするだけでもよかったかもしれません。

あくまで仮説、勝手な想像なのですけど……、僕は大好きだ。

アイドルとファンの関係性を「ケア」から見ることは可能なんですよねえ。でも、これこそ「秘すれば花なり」であって、論じることではないのかもしれない。ただ、自分がいったい何者なのかわからなくなったアイドルやファンの人はちょっとこのあたりを考えてみて自分を取り戻したりできそう。
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謹賀新年 2025

2025-01-02 18:18:29 | days
あけましておめでとうございます。

僕は、体調とくにメンタルが落ち込んでいて休みを積極的にとりにいっている最中です。このぶんだと、長編執筆にとりかかるのはもう少し先になりそうです。書き始めても、途中でダウンするのが目に見えているので。

ということで、今年は、心身の健康に気遣うことをいちばんに考えようと決めました。ネガティブにもポジティブにも休息する、身体をあたためる、無茶しない。あと、気に掛けるのは金銭面。noteで有料記事を書こうか、と考え中ですが、それじゃなくてもアクセス数が少ないのに、購読してもらえるものだろうか、とあんまり乗り気じゃなかったりはするのですが。

昨年見たドラマやアニメでは、『君が心をくれたから』『アンメット』『推しの子(二期)』がよかったです。まだ、10月期に録画したものには手を付けていないので、3/4年での感想です。音楽では、ビル・エバンスと坂道さんをよく聴いた気がします。乃木坂46『歩道橋』はパフォーマンスや衣装含めたトータルですばらしいですね。読書以外で創作の刺激や勉強になるものは大切だと言われますが、やっぱりそう感じます。本だけだと視野が狭くなってしまうんじゃないかなあ。

そんなところでしょうか。家庭はまだまだまったくのアウェイ状態です。内戦状態みたいな感じで。役所の地域包括支援係からも見放されてもうノータッチです。そんななかでも、支援団体が役所へ抗議の電話を入れるという話が聴こえてきて。なかなか落ち着かないですが、まあ一歩一歩、踏みはずさず歩いていきたいです。

また、こういった日記調の記事を今年も何度かアップすると思いますが、よろしくお願いします。
それでは。

読みに来ていただいて、いつもありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
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『日向撮 VOL.01』

2024-12-30 10:45:41 | 読書。
読書。
『日向撮 VOL.01』 日向坂46
を読んだ。

2021年4月発刊の、日向坂46メンバーみんなによる日向坂46の写真集。気の知れた仲間同士だからこその、わちゃわちゃ感のあるショットや楽しくふざけているショット、隙を捉えたショットなどが盛りだくさんでした。

日向坂46といえばハッピーを生み出すことをモットーとしたアイドルグループですが、彼女たち自身のあたかかな楽しさに満ちた幸福感が本書のページからあふれ出してくるような写真集になっていました。眺めているだけなのに、彼女たちのエネルギーに押され気味になるくらいです。また、メンバーみなさんの個が立っていますから、どのメンバーのショットにも惹きつけられるのでした。

僕は小坂菜緒さんや山口陽世さん、加藤史帆さんや上村ひなのさんたち、名前をだしていくとどんどん出てきてしまいますけれども、まあ「推し」たいメンバーさんたちがいるわけで。でも、日向坂にぐっと注目したのはここ一年ほどですから、知らない時代の彼女たちの輝いているさまを初めて新鮮な気持ちに見られるというのが、なかなかにうれしかったりするのです。そしてそれとともに、この時代からも注目して応援したかったな、という想いも生まれてくる。もう卒業されたメンバーが何人もいらっしゃいますから、そういう意味合いもあります。

さて、そんな卒業メンバーの宮田愛萌さんがホワイトボードに上田秋成の名前を書き込んでいるショットがあって、それには只者ではない感じがすごくしましたね。上田秋成は江戸時代に『雨月物語』を書いた人ですけど、僕も興味がありながら積読なんですよ。宮田さんはたしか日向坂卒業後に小説を何冊か出されています。ちょっと気になってきます。

また、#055のショット。三期生・髙橋未来虹ちゃんをかわいく撮った上村ひなのちゃんのコメントが、「未来虹ちゃんが椅子の間から顔を出して、カメラをじっと見ていました」なのがギャップコメントで、けっこうシュールでツボにハマってしまいました。

というように、前述のようにみなさん個が立っている人たちですし、自分のペースやリズムを持ちつつ仕事をされているその楽屋やレッスンの風景が多いので、キャラの立った人間味のある写真、それも若い女子たちの活気ある写真が、僕には「とっても楽しいなあ」とずっと感じ続けながら読み終えました。

こさかなこと小坂菜緒さんが、メンバーにくっついたりする甘えん坊キャラなところがあるのがイメージとして部分的にピッタリくるところもあったり、今までよりもより彼女たちのイメージがくっきりしたような気がします。

それよか、ほっこりでした。平和な中でたのしく活気あるさまは、眺めている人にも元気をもたらすものなんですねー。




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『「利他」とは何か』

2024-12-29 11:20:41 | 読書。
読書。
『「利他」とは何か』 伊藤亜紗 編 中島岳志 若松英輔 國分功一郎 磯崎憲一郎
を読んだ。

東京工業大学のなかにある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」に集まった研究者のうち、「利他プロジェクト」の5人のメンバーでそれぞれ<「利他」とは何か>について執筆したものをまとめたものが本書です。発刊は2021年。

「利他」といえば、「利己」の反対の行為で、つまり自分の利益を考えて振舞うのではなくて、他者の利益になるように助けてあげること、力になってあげることとすぐにわかるじゃないか、とせっかちにも僕なんかはすぐに答えを出してしまったりするのですが、本書を読んでみると、一言に「利他」といっても、たとえばそこに「利己」が裏面にべったりとひっついていることがわかってきて、かなり難しいのです。

そりゃあそうなんです。利他、とか、善、とか、すごく簡単であれば、とっくのとうにみんながそれを行っている世界が実現しているでしょう。それだけ、人間の表面的な欲望よりも、裏面的な欲望、それは自己顕示欲だったり承認欲だったり、見返りが欲しい欲求だったり、権力欲や支配欲だったりなどするものが、強烈に人間の根幹を成してもいるからなのかもしれません。だからといって諦めるのではなく、客観視することで自覚が芽生えるものでもありますから、善の押し付けで他者の迷惑になることなどをできるだけ防ぐため、こうした研究は役に立つかもしれません。また、すぐに役に立たなかったとしても、深い意味を宿した人間考察の記録としての面がありますから、知的好奇心を持つ人達らにこれから考えの続きを委ねることができるかもしれません。

それぞれの執筆者が「利他」について掴んでいるものは、言葉にしづらい抽象的で透明なといってもいいような概念でした。そんな概念を、研究者たちは言葉でなんとか表現しようと力を尽くしているようなところがありました。「利他」のあるべき姿を表現するのは、ストレートにはできないことのようです。なので、読者として受け取るときも、彼らが言葉で端的に表現できてはいないことをわかって、それでもなお、彼らが書き記した数々の言葉をいくつかの点とし、それらを読者が線で結び合わせて考えてみることが大切になります。そうやって見えてきた、まるで星座のようなものが「利他」、というふうになります。そんな星座のような「利他」座から、具体的な像まで想い浮かべることができたなら、その人の精神性が一皮むけるものなのかもしれない。

では中身にも入っていきますが、まず始めのほうで地球環境の問題も利他に関係するものとして触れられるのですが、「わあ!」と驚くようなトピックが語られていました。それは、アメリカ人の平均的な生活を世界のすべての人がするとしたら、必要な資源を確保するのに地球が五個必要だといわれているらしい、というところでした。こんなの普通だな、と思っている生活も、かなりの贅沢をしているんですねえ。僕らが様々な不満を持つ不公平な「社会」は、もっと大きな「世界」に包まれていますが、そもそもその「世界」自体においても不公平な構造をしている。強者と弱者の構造を当たり前のものとするならば、アメリカ人の生活、もっと広く言うと先進国の生活の何が悪い、ということになるますけれども、弱者をつくることで自分が強者となって快楽に溺れたり、贅沢をしたりするのってどうだろう、とも思える人も多いのではないでしょうか。強い者が弱い者を攻撃したりいじめたりするのって卑怯ですが、それを、卑怯っていうほどじゃないでしょ、というふうに詭弁と心理術で倒錯させてしまうその原動力がお金の影響を受けた人間心理なのかなあと思ったりもします。

では次のトピックへ。ブッダが、アートマンの否定というのをやった、と書かれています。アートマンは絶対的な自我のことで、ヒンドゥー教では、ブラフマンすなわち宇宙と本質的に同一のものとされていたそうです。で、ブッダは、絶対的な自己は存在しないと考え抜いたそうなんです。我はどこまで追求しても存在しない。これはブッダの開いた仏教でとても重要なところだそうです。ここは中島岳志さんの執筆部分にあったところでした。この、自我があると考えるか、無いと考えるかは、「利他」行為をするうえで、重要なポイントになるでしょう。

ここにつながるような部分を、伊藤亜紗さん執筆の章から引用します。
__________

「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。
私たちのなかにもつい芽生えてしまいがちな、見返りを求める心。先述のハリファックスは、警鐘を鳴らします。「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」。(p51-52)
__________

→ただまあ、自己犠牲とは見返りを求めない無償の行為なのではないのかな、という自己犠牲の定義に関わるところで考えてしまいもするのですけれど、それはまず置いておいて。自我があると考える向きが強ければ、自分がしてやっている、という意識が働くでしょう。「自分がやってあげている」という思いで、利他をするでしょう。そうすると、行為者としての感覚が、「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、」につながるような気がしてきます。となれば、「気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」になっていくので、それはそれで、認知の歪みを呼ぶような性格の変容になってしまう。善いこと(善いだろうと自分が判断したこと)をしたがために、自分のパーソナリティによくない変化がもたらされてしまうのは、誰でも心外ですよね。



なかなかまとめきれないのであきらめることにして、ここからは引用をしていきます。

__________

「10時までに全員入浴」という計画を立てたとします。けれども、それを実行することを優先してしまうと、それがまるで「納期」のようになってしまって、お年寄りを物のように扱うことになる。お年寄りは、そんなビジネスの世界では生きていけません。計画を立てないわけではないけれど、計画どおりにいかないことにヒントがあるのだと村瀬さんは言います。

とくに「ぼけ」のあるお年寄りはこちらの計画に全く乗ってくださらないし、それを真面目に乗せようとすればするほど、非常に強い抗いを受けます。その抗いが、僕たち支援する側と対等な形で決着すればいいのですが、最終的には僕らが勝ってしまう。下手をするとお年寄りの人格が崩壊するようなことになります。だから計画倒れをどこか喜ぶところがないと。計画が倒れたときに本人が一番イキイキしていることがあるんです。――――伊藤亜紗、村瀬孝生「ぼけと利他Ⅰ」、「みんなのミシマガジン」2020年8月13日 (『「利他」とは何か』p56-57)
__________

→物扱いか、人間扱いか。介護現場に限らず一般社会でも、もっと人間扱いのふるまいやそういった気持ちの持ちようがつよくなるといいなあと思います。



__________

たとえばどうしても問題行動を繰り返してしまう人がいる。その人に対し「なぜこんなことをしたのか」と叱責するのでも、専門家がその人を診断して病名を与えるのでもなく、問題行動を起こした本人が自分について研究するのが当事者研究です。そして当事者研究においては、「外在化」といって行動を一度単なる現象としてとらえることが重要だと言われています。それはつまり、行動を神的因果性においてとらえるということです。
神的因果性においてとらえるということは、その人を免責することです。つまり自分がやってしまった問題行動をひとつの現象として客観的に研究するのです。そうすると、不思議なことに、次第にその人が自分の行動の責任を引き受けられるようになるのです。つまり一度、神的因果性において行為をとらえることで、人間的因果性への視線が生まれるわけです。(p173-174)
__________

→当事者研究という言葉を目にすることがありますが、こういう効果があるのだな、とわかる部分でした。でも、問題行動のある人が他責思考でいる場合はどうなんだろう、という気がしました。自分に責任はないとするところで神的因果性に近いですが、責任を他者という人間に背負わせている時点でまたメカニズムが変わっているのではないでしょうか。他責思考の人ってけっこういますし、自分もなにかの局面で責任逃れを反射的にやってしまって他人にかぶせるみたいなことは、とくに若い頃にやってしまったことがあります。そういうタイプの人は、どうやって神的因果性に向かわせるといいのでしょうねえ。



といったところなんですが、内容がなかなか難しかったうえに、何度も小休止を挟んでちまちま読んでしまったので、どこか誤読しているような感覚が強くあるんです、あるんですが、まあしょうがない。あしからず、ということで。




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