読書。
『残された者たち』 小野正嗣
を読んだ。
五人しか住んでいない海岸沿いの集落、尻野浦。校長先生と若い女性教師、そして父、息子、娘、の一家がその居住者のすべてです。また、近くには干猿というガイコツジン(外国人)が住む集落があります。尻野浦と干猿ともども、限界集落以上に限界状態なので、もはや地図上からは消えてしまった土地だったりします。そんな土地での日常から生まれた物語でした。
まず。純文学の語り方って、過去と今の間の垣根が低かったりします。混同まではしていないけれど、峻別とはほど遠い。時間認識が、人の意識の自然な再現に近いのかもしれません。人はいろいろ考えながら頭の中で自在かつ自由に時を超えながら1日を過ごしているものですから。そういった感覚かと思います。エンタメだったら、過去と今の垣根が低くなって、読者にも気づかれず行き来するときはトリックとしてのときです。そのトリックを際立たせるためだったり、もしくは読みやすさのためだったりのために、過去と今の間の垣根は平常時には高くして峻別的な語り方をしがちでしょう。
ということに半分ほどまで読み進めたときに気づかされて、最後まで読み終えてみると、これはもっと雄大な小説的思想に基づいた作品だったのではないだろうか、となにかの尻尾がみえはじめ、頭をひねりはじめることになりました。
巻末で西加奈子さんが解説していて「そうか、そうか」とはっきり気づかされたのですけれども、三人称の語りである本作のその視点は、読んでいるうちに、主眼となっている誰かがいつの間にか切り換わっています。また、過去と現実のあいだの時間移動、リアル世界とリアルではないような世界との空間移動(世界移動)もその境界がはっきりしません。型取りをして、あるいは型を仮定して、それから世界を示す、といった方法ではなく、ただ中身を書いていくというような書き方というといいでしょうか。
どうしてそのような方法で小説を書いたのか?
僕が考えてみた答えはこうです。紙にペンで線を引っ張るようにして書いていくと、輪郭のある物語になります。それは多くの小説がそうであるようにです。現実のシーンがあり、回想のシーンがあり、夢のシーンがありというようにはっきりそれらがわかる書き方がされ、主人公を見守る視点は固定されて変わることはなくといった書き方がされるのが、輪郭のある物語だとしましょう。一方、『残された者たち』で用いられているのは、時間や空間そして視点の切り換わりのタイミングが秘密裏に行われていて、読者に明示されない書き方であり、うまくいけば輪郭を書かなくてすむ物語ができあがっていきます。そこを狙った方法だったのではないか。
輪郭を決めてしまわないことで、まるごとをその世界の中に入れることができる、とも考えられるのです。なぜならば、輪郭で区切って排除する部分がないからです。だから輪郭を書かないこの技法は、書かれていないことまでをも、「可能性」として折りたたんで存在させることができる方法でもあるといえばいいのでしょうか。そういった技法だと思いました。
ちょっと、ひとり、興に乗ってきたので、もう少し深掘りしていきます。
大げさに言うと、この小説の構造は宇宙においての星の分布に似ていると言えるかもしれません。星は密集して銀河を作っているし、その銀河も他の銀河たちと近い場所に群をなすように偏って位置しているものです。ということはそれとは逆に、星がほとんど存在していないエリアもあるわけで、宇宙とは平均的に星が位置しているものではありません。つまり、宇宙には、星が密集している宙域と、星がほとんどない宙域が存在していて、宇宙はそのような、密集と過疎でできたアンバランスな有り様をしている。
密集と過疎は、この小説の文章の配置、濃淡にも言えるのです。はじまりから40数ページくらいまでは過疎といっていいような、まあアマチュアリズムのような楽し気なところはいいとして、でも軽薄な中身でした。僕は最後まで読んでみようという気でいましたけれど、世の数多の読者はこの小説世界に引き込まれないうちに序盤でページを閉じてしまう可能性がけっこうある気がして、ちょっと作りとしてはまずいのではないか、なんて老婆心が起こったくらいでした。それが、40数ページ目以降、読ませる文章と内容、そして考えさせる深淵と謎、パズルのようなものが出てきます。ここは密集にあたるのではないか、と。エンディングから20ページほど遡った箇所も、過疎のようなところがありまして、登場人物のひとりである「校長先生」というキャラクターが、相変わらずのどうにも軽薄な英語ジョークを使い、それが中身のないものが多く感じられるのです。再び過疎がやってきた箇所です。
また、銀河にもさまざまな性質の銀河がありそれらが隣り合っているように、本作の各シーケンスの色合いにも性質がさまざまです。それは前述のように視点が変わることもそうですし、過去と現在が並列に語られることでもそうで、とある過去という銀河、とある現在という銀河、というかたちで本作の中に存在していると見ることができるのではないかと思いました。
そして、宇宙人モノ映画『E.T.』の話が本作の中に深く糸を通すように使われてもいて、そこでも宇宙と本作の構造との連関の示唆が感じられもしたのでした。でもまあ作者にそんな意図はなく、僕の気のせいレベルかもしれないですが、上記のような力技な考察も可能だったということはこうして書き残しておきます。
再度書きますが、輪郭を決めてしまわないことでまるごとをその世界の中に入れることができる書き方は、果てのない宇宙の構造を模倣したとも言えるでしょう。果てがないということは、輪郭がないということですから。
そうすると、本作のタイトル『残された者たち』という言葉から解釈されるのは、かなり強引になるのですけれども、形ある者、輪郭のある者というのは、宇宙の成り立ち上、どこか、辺境に残された存在であり、つまり「生きている」ということは、宇宙的な意味では「残されている」に解釈されるのではないのか、と思えてくるのです。ここまでくると、もう僕のアタマ自体がユニバースです。それでもまあ、純文学ですから、そういった試みがなされていてもおかしくはない。芸術の領域の仕事としてはやりかねないことです。
というところで、最後に引用を。
__________
だから人は笑うのだ。だから人は泣くのだ。笑うことと泣くことは安全弁なのだ。自分を開くことだ。そうやって穴を開けて、世界と心のあいだに空気を行き来させ、笑いと涙によって穴を広げ、もっと広げ、いつの間にかできていた仕切りを取り壊し、世界に心を、心に世界をしみ入らせ、心にその広がりを回復させるのだ。(p93)
__________
→人が人としていることの基本ですね。基本なんだけれど、なかなかこういったことを言葉にはしてこなくて、言われてみてはっとするというような文章ではないでしょうか。泣くときに泣ける人に育てるのが大切だ、ともいわれますし、あんまり笑わなくなった友人をみて「大丈夫かい」と声を掛けたりするのは笑いの意味を意識せずにでもみんなわかっているからですよね。この引用箇所は、実に力のある、そして力をもたらす部分ではないでしょうか。
また、孤児がその自分の存在の原初的な意味でのつらい部分をしっかり書いている部分(p68)もあって、存在否定っていうものが子どもには強烈なつらさをもたらしますから、そういった痛みがあることを忘れないでいたいですし、ほんとうに多くの人にもわかってほしいことだなあと、思いました。
『残された者たち』 小野正嗣
を読んだ。
五人しか住んでいない海岸沿いの集落、尻野浦。校長先生と若い女性教師、そして父、息子、娘、の一家がその居住者のすべてです。また、近くには干猿というガイコツジン(外国人)が住む集落があります。尻野浦と干猿ともども、限界集落以上に限界状態なので、もはや地図上からは消えてしまった土地だったりします。そんな土地での日常から生まれた物語でした。
まず。純文学の語り方って、過去と今の間の垣根が低かったりします。混同まではしていないけれど、峻別とはほど遠い。時間認識が、人の意識の自然な再現に近いのかもしれません。人はいろいろ考えながら頭の中で自在かつ自由に時を超えながら1日を過ごしているものですから。そういった感覚かと思います。エンタメだったら、過去と今の垣根が低くなって、読者にも気づかれず行き来するときはトリックとしてのときです。そのトリックを際立たせるためだったり、もしくは読みやすさのためだったりのために、過去と今の間の垣根は平常時には高くして峻別的な語り方をしがちでしょう。
ということに半分ほどまで読み進めたときに気づかされて、最後まで読み終えてみると、これはもっと雄大な小説的思想に基づいた作品だったのではないだろうか、となにかの尻尾がみえはじめ、頭をひねりはじめることになりました。
巻末で西加奈子さんが解説していて「そうか、そうか」とはっきり気づかされたのですけれども、三人称の語りである本作のその視点は、読んでいるうちに、主眼となっている誰かがいつの間にか切り換わっています。また、過去と現実のあいだの時間移動、リアル世界とリアルではないような世界との空間移動(世界移動)もその境界がはっきりしません。型取りをして、あるいは型を仮定して、それから世界を示す、といった方法ではなく、ただ中身を書いていくというような書き方というといいでしょうか。
どうしてそのような方法で小説を書いたのか?
僕が考えてみた答えはこうです。紙にペンで線を引っ張るようにして書いていくと、輪郭のある物語になります。それは多くの小説がそうであるようにです。現実のシーンがあり、回想のシーンがあり、夢のシーンがありというようにはっきりそれらがわかる書き方がされ、主人公を見守る視点は固定されて変わることはなくといった書き方がされるのが、輪郭のある物語だとしましょう。一方、『残された者たち』で用いられているのは、時間や空間そして視点の切り換わりのタイミングが秘密裏に行われていて、読者に明示されない書き方であり、うまくいけば輪郭を書かなくてすむ物語ができあがっていきます。そこを狙った方法だったのではないか。
輪郭を決めてしまわないことで、まるごとをその世界の中に入れることができる、とも考えられるのです。なぜならば、輪郭で区切って排除する部分がないからです。だから輪郭を書かないこの技法は、書かれていないことまでをも、「可能性」として折りたたんで存在させることができる方法でもあるといえばいいのでしょうか。そういった技法だと思いました。
ちょっと、ひとり、興に乗ってきたので、もう少し深掘りしていきます。
大げさに言うと、この小説の構造は宇宙においての星の分布に似ていると言えるかもしれません。星は密集して銀河を作っているし、その銀河も他の銀河たちと近い場所に群をなすように偏って位置しているものです。ということはそれとは逆に、星がほとんど存在していないエリアもあるわけで、宇宙とは平均的に星が位置しているものではありません。つまり、宇宙には、星が密集している宙域と、星がほとんどない宙域が存在していて、宇宙はそのような、密集と過疎でできたアンバランスな有り様をしている。
密集と過疎は、この小説の文章の配置、濃淡にも言えるのです。はじまりから40数ページくらいまでは過疎といっていいような、まあアマチュアリズムのような楽し気なところはいいとして、でも軽薄な中身でした。僕は最後まで読んでみようという気でいましたけれど、世の数多の読者はこの小説世界に引き込まれないうちに序盤でページを閉じてしまう可能性がけっこうある気がして、ちょっと作りとしてはまずいのではないか、なんて老婆心が起こったくらいでした。それが、40数ページ目以降、読ませる文章と内容、そして考えさせる深淵と謎、パズルのようなものが出てきます。ここは密集にあたるのではないか、と。エンディングから20ページほど遡った箇所も、過疎のようなところがありまして、登場人物のひとりである「校長先生」というキャラクターが、相変わらずのどうにも軽薄な英語ジョークを使い、それが中身のないものが多く感じられるのです。再び過疎がやってきた箇所です。
また、銀河にもさまざまな性質の銀河がありそれらが隣り合っているように、本作の各シーケンスの色合いにも性質がさまざまです。それは前述のように視点が変わることもそうですし、過去と現在が並列に語られることでもそうで、とある過去という銀河、とある現在という銀河、というかたちで本作の中に存在していると見ることができるのではないかと思いました。
そして、宇宙人モノ映画『E.T.』の話が本作の中に深く糸を通すように使われてもいて、そこでも宇宙と本作の構造との連関の示唆が感じられもしたのでした。でもまあ作者にそんな意図はなく、僕の気のせいレベルかもしれないですが、上記のような力技な考察も可能だったということはこうして書き残しておきます。
再度書きますが、輪郭を決めてしまわないことでまるごとをその世界の中に入れることができる書き方は、果てのない宇宙の構造を模倣したとも言えるでしょう。果てがないということは、輪郭がないということですから。
そうすると、本作のタイトル『残された者たち』という言葉から解釈されるのは、かなり強引になるのですけれども、形ある者、輪郭のある者というのは、宇宙の成り立ち上、どこか、辺境に残された存在であり、つまり「生きている」ということは、宇宙的な意味では「残されている」に解釈されるのではないのか、と思えてくるのです。ここまでくると、もう僕のアタマ自体がユニバースです。それでもまあ、純文学ですから、そういった試みがなされていてもおかしくはない。芸術の領域の仕事としてはやりかねないことです。
というところで、最後に引用を。
__________
だから人は笑うのだ。だから人は泣くのだ。笑うことと泣くことは安全弁なのだ。自分を開くことだ。そうやって穴を開けて、世界と心のあいだに空気を行き来させ、笑いと涙によって穴を広げ、もっと広げ、いつの間にかできていた仕切りを取り壊し、世界に心を、心に世界をしみ入らせ、心にその広がりを回復させるのだ。(p93)
__________
→人が人としていることの基本ですね。基本なんだけれど、なかなかこういったことを言葉にはしてこなくて、言われてみてはっとするというような文章ではないでしょうか。泣くときに泣ける人に育てるのが大切だ、ともいわれますし、あんまり笑わなくなった友人をみて「大丈夫かい」と声を掛けたりするのは笑いの意味を意識せずにでもみんなわかっているからですよね。この引用箇所は、実に力のある、そして力をもたらす部分ではないでしょうか。
また、孤児がその自分の存在の原初的な意味でのつらい部分をしっかり書いている部分(p68)もあって、存在否定っていうものが子どもには強烈なつらさをもたらしますから、そういった痛みがあることを忘れないでいたいですし、ほんとうに多くの人にもわかってほしいことだなあと、思いました。