飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間⑩飛行機

  <コットンツリー>

9日目11/15 フリータウンの街散策

タクシーはバイクやトゥクトゥクが主流

日本人旅行者が最も訪れる事の少ない国々

でした。私達の14名のメンバーはいい方

ばかりで面白い旅行でした。みんな100国以上

180国未満のベテランばかりで経験談を

聞けるので楽しかったです。

シエラレオネコットンツリーの見学

コットンツリーはシエラレオネの首都

フリータウンの歴史的なシンボル


1792年にかつて奴隷だったアフリカ系

アメリカ人のグループがこの地に到着した際に

この木の下で自由の民として新たな生活

を始めることを祈ったとされており国を象徴

する木となりました。しかし2023年5月24日

暴風雨で倒壊・根は残りました。そして今

この1792年からフリータウンに根を

下ろしています。18世紀末にイギリスの

奴隷解放運動により,ジャマイカやアメリカ

などの英語圏の解放された奴隷たちが移住し

つくられたのがフリータウンの街で

それを見守ってきたのがこの木です。

 

1991年から10年も続いた内戦による影響は

大きく,貧しい国になってしまい,今では

平和な国に生まれ変わっている。

奴隷貿易で開放された奴隷の居住地となった

「フリータウン」のシンボルの高さ70m

コットンツリーは見る方向によってはいい感じ

フリータウンの歴史は奴隷制度の廃止と深く

結びついていて1787年英国の博愛主義者達が

ロンドンや他の地域で解放された元奴隷達

の為に,アフリカに新たな定住地を設立する事

を決定した。この計画はシエラレオネ計画

呼ばれフリータウンは中心地として選ばれて

いる。1792年にはノバスコシア(カナダ)

から400人以上の元奴隷たちが到着し,

フリータウンの基礎を築いた。その後,

ジャマイカやアメリカなど,他の英語圏からも

解放された奴隷たちが移住していてこの多様な

背景を持つ人々がフリータウンの独特の文化と

社会を形成していった。1808年フリータウンは

イギリス直轄植民地となり,西アフリカにおける

イギリスの拠点として発展している。この時期

フリータウンは奴隷貿易撲滅の為の重要な基地と

しても機能しイギリス海軍が解放した奴隷達の

多くがここに定住した。(記事抜粋)

1961年にシエラレオネが独立を果たすと

フリータウンは新生国家の首都として重要な

役割を担う事になっています。1991年から

2002年まで続いた内戦によりフリータウンは

大きな打撃を受けた。多くの建物が破壊され

インフラも深刻なダメージを受けています。

内戦終結後,フリータウンは復興の道を歩み

始めた。現在では西アフリカにおける重要な

港湾都市として,政治・経済の中心地として

機能している。フリータウンの歴史は奴隷制度

からの解放と自由の象徴としてフリータウン

(自由の街)と名付けられた。※記事抜粋

コットンツリーの前の政府の建物

 

全て観光が終わりバスで高台にある

ホテルに戻ります。バス時計17:51

バスからの車窓 学校の帰り 

 

貧困層も高台に村を作って住んでる。

↓貧困層の住居

海が見えてきました。ホテルもすぐ

ホテル着・部屋からの大西洋の海

夕食はホテルで飲み物も置いてある

ものは飲み放題の最後の晩餐でした。

10日目11/16 時計3:00ホテル出発

船で45分で空港に着き8:35分の飛行機に

乗る為,朝ホテルは3時出発.朝は沢山入った

ボックス・ランチが出る。でも食べず

ドライバーにあげると喜んでくれた。

時計5:33空港に着きチェツクイン

飛行機エチオピア航空でワガドゥグ経由

アジスアベバへ 2時間15分

アジズアベバ着.航空機を乗り継ぎ

ソウル経由で成田へ 11時間10分

エチオピアのアジスアベバの空港

機内食ナイフとフォーク赤ワインチキンかビーフでチキン

機内食ナイフとフォーク赤ワイン チキンかフィッシュ

ソウル経由は一度ソウルで機内から

出て,空港ゲートで待ち・入り直す。

11日目11/17      成田着時計19:30

   お疲れ様でした。

次の海外を探しているのですがなかなか

決まらず,今決まっているのはパキスタン

16日間だけ。2回目のピースボードの

世界一周も行く予定で全額払い込んで

いたのですが中国人が4割前後乗る様に

なったのでキャンセルしました。

 

飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間⑨飛行機

  <チンパンジー保護区>

9日目11/15

チンパンジー保護区に行く為,車で

麓まで来たのですがここから30分程

山を登らなくてはいけなく,道が舗装

されてないのと少し湿度が高い為

中型バスを呼ぶ事に・・

首都フリータウンの郊外,車で約45分の

ジャングルの中にある

「タクガマ・チンパンジー保護区」

 広大な保護区内には100頭を超える

チンパンジーがより自然に近い形で

保護されています。 餌を与え,病気に

なったら治療もして育てるのに,なんと

1頭につき年間1000$かかるそうです。

10分ほどでチンパンジー保護区に着く。

 

 

 

 

タクガマチンパンジー保護区の主な目的は

シエラレオネの野生生物法を施行し,救助された

チンパンジーに安全で自然な避難所を提供

すること。保護区に到着する殆どのチンパンジー

は5歳未満で,通常はまだ母親からミルクを授乳

する時期になります。多くのチンパンジーは

飼い主から虐待をされていたり,負傷や

栄養失調,障害のある状態でやってきます。
ペットとして違法に販売されたり,放置されたり

したチンパンジーだそうです。

お土産屋さん

 

京都大学のボランティアで数ヶ月

こちらでお手伝いをしている樺沢さん

沢山チンパンジーのお土産が売られて

ました。

可愛いぬいぐるみ

 

 

DVDも置いてありました。

 

 

今からチンパンジーに会いに行きます。

チンパンジーに食事を与えるのを見る時間には

間に合わなかったのですが・・

専門の知識を持ったスタッフの方が幼い

チンパンジーの母親となって彼らを育てます。
一匹ずつの名前をちゃんと把握している

スタッフさん。食事の時間には名前を呼び

ながら食べ物を投げ渡すそうです。
チンパンジーはちゃんと自分が呼ばれている

ことがわかるそうです。

 

本来は15から100の家族と共に暮らす

チンパンジー。しかしここに来る子達は

バラバラな環境下から集まるので,時間を

かけて集団形成をしていく必要もあるそう。
自然とリーダーも決まっていくそうで

みんなのリーダーになったチンパンジーは

仲間を守る行動を取ります。

最年長で15歳という人間でも一番ヤンチャな

時期なので,みんなとにかく動き回ります。
誰かが声を出すとそれに応じてみんなで一斉に

盛り上がったり,仲良くしていると思ったら

急にケンカのようなものが始まったり。
思わず見ていて笑ってしまうような本当に

微笑ましい光景です。

母親や家族が違法なブッシュミート

(野生動物の食用の肉)の取引や

一方的な作為によって狩られた結果,残された

幼いチンパンジーは密猟者によってペット

として売られています。生き残った

チンパンジー1匹につき5〜10匹の

チンパンジーが殺されていると公表しています.
サイズが小さい幼いチンパンジーは

ブッシュミートとしての価値が低い為に

殺すよりも生かす方が価値があるとされてます。
タクガマに到着する全てのチンパンジーは

人間の暴力によって家族から分離された結果と

して何らかの精神的トラウマを負っており

さらに多くはショットガンなどによる身体的な

傷も負っています。

(参考:タクガマチンパンジー保護区Webページ)

シエラレオネにかつて40000匹いた

チンパンジーは5500匹にまで減っています。
そんなチンパンジーたちを保護し最終的には

野生に還すことを目指すタクガマチンパンジー

保護区のスタッフさんたち。

リハビリは段階的に進みます。木登りの仕方を

習得したり生活スキルを身につけたり。
何より大事なのは食料を自分で確保すること。
最初は一日に5〜6回与えていた食事も少し

ずつ回数が減らされていきます。
そうして徐々にスタッフの手から離れて

いく様にすることで,外の世界で生きる力を

身につけさせることが大切なんだそうです。

 

 

 

 

 

 

何回もお辞儀をしたり拍手をしたり

笑わせてくれました。

 

お別れの時間です。

皆が帰るとき,見送ってくれました。

チンパンジー保護区を後にします。

バスフリータウンの街に戻り観光です。

十字架マルーン教会

ジャマイカ系の解放奴隷マルーンが

建てたセントジョンズ・マルーン教会

は1820年に建てられたフリータウン

最古の教会で1956年に国家遺産に

指定されている。

 

 

 

 

教会を出て・・

 

 

 

 

 

 

十字架セントジョージア大聖堂

植民地支配の遺産として植民地政府に

よって1928年に完成されました。

英国国教会よって組織されている。

シエラレオネのクレオール人と強く

結びついた象徴的な建物として

セントジョージ教会はクレオールの砦

と表現されました。建設は1817年に

始まり1828年に完成。

シエラレオネクレオールの人々は

シエラレオネの民族グループで1787年から

1885年頃の間にシエラレオネの西部地域に

定住した解放されたアフリカ系アメリカ人

アフリカ系カリブ人,および解放された

アフリカ人奴隷の子孫です。

 

 

天井が船底みたいになっていて

木で出来ている。

 

 

      最終日につづく・・

飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間⑧飛行機

 <シエラレオネ共和国>

8日目11/14 

バスケントビーチへ向かい昼食

昼食のレストランへ行くのに村で

遮断機が有り開けてもらって入る。

レストランの前が美しいケントビーチ

折角なので私と数人は海を見ながら

ランチスプーンフォークジュース

シエラレオネの美しい海岸線にある

ケントビーチ

ランチはピラフと海老の炒め物

デザートはフルーツ

食べ終わったのですが,石の上にずっと

座ってる女性がいたので観光客かなと

思ってたら,私達の食べ残した残りを

待っていたのです。まだ,若い女性です。

他にも来て食べ残しですが喜んで食べて

いるのです。これが世界最貧国の

シエオラレオネの現状です。上のレストラン

で食べていたメンバーも残りのピラフと海老

を集めて村の人に,お店の人があげてました。

私達は食べ残したら捨てているご飯を

美味しそうに食べているのを見て

考えさせられました。

山と海の調和が美しい静かなビーチ

昼食後は,首都のフリータウンバス

時計15:52バス車窓から

 

 

こんなに大きな物を落とさないって・・

バス

 

 

バスフリータウンまでの道中での光景

 

これには驚き,よく落とさずもてるね。

シエオラレオネの首都の

フリータウンに近づいてきました。

フリータウンの街に入り海が見えて

丘に上がると一番いいロケーションの

場所にホテルがありました。

国旗も沢山掲げられて大きなホテルだな

と思って入ったら,何か胸騒ぎ

中国の提灯が・・そう中国系のホテル

アフリカの途上国は殆ど中国が政治・

経済で支配が強く,中国系のホテルが

多いです。最後のホテルで期待した

けど,セネガルの旅行社が決めたから。

ホテルも部屋も大きいし,ビューも海の

前でいいんだけど,お湯が出て水が

出ないとか小トラブルはありました。

でも,ここはシエラレオネだからね。

気にしない,アフリカあるあるです。

部屋からの夕焼けは湾岸のビュー

夕食はホテルレストランでナイフとフォーク赤ワイン

ビュッフェだったのですが,肉が好きじゃ

ないので,このスパイスの効いたピラフ

ばかり沢山食べてました。スプーンフォークジュース

9日目11/15 時計6:30朝食のレストランへ

今回,円高で高額なツアーなのでお金持ちが

多くて,洋服沢山頂き着てみました。残りは

次回着てみよっと。今回一人参加でビジネスの

人って11日間のツアーで230万円だって。凄い!

毎月の様に海外行ってる方も多くすごーい。

このスパイスピラフにスプーンフォークコーヒー

はまってしまい朝から

時計8:30ホテル出発

ホテルからバス船着き場

船着き場

アバディーン橋

ボートに乗り奴隷貿易の拠点バンス島

いろんな船が・・・

ペペル島(シオラレオネ川で一番大きな島

2000人以上が住んでいる。最初に作られた

奴隷の島であったが,島が大きい為に奴隷を

コントロールできず逃げ出した。その為,

隣のバンス島に奴隷を収容しました。

ここの島の奴隷には食物を作らせた。

フリータウン半島にはバナナ島,

バンス島ヨーク島やタートル諸島

など幾つも島がある。

ぺぺル島・鉄鉱石の積み出し港

1時間弱でバンス島へ着きました。

↓バンス島の桟橋

バンス島・奴隷貿易の積み出し港。

他の国の奴隷の積み出し港は,綺麗に

されていますが,ここは当時のままの

状態で残っている。16C後半,英国が

ここに要塞を作り,その後,フランス・

オランダ・ポルトガルがここに来た。

↓英国による奴隷収容所跡など当時の

生々しさが残る小さな島

バンス島英国奴隷貿易の拠点の島

1663年にイギリスが貿易の中継地点として

バンス島に要塞を築き利用していた。

イギリス最大の奴隷貿易の拠点だった島。

その莫大の資産価値から1702年からフランス

1719年にフランス,1728年にポルトガルなど

多くの国に攻撃され占領・奪回を繰り返した。

1750年に王立アフリカ会社(英国)はこの島を

民間会社に売り,同年から1800年のバンス島は

奴隷貿易の主要積出港とした。

1670年代に設立,1808年に閉鎖される迄

捕らえられた多くの黒人の人達が,

北アメリカやカリブ海の西インド諸島へと

送られた。現在,世界遺産登録申請の準備中

で,他の西アフリカ奴隷貿易の拠点

(ガーナのエルミナ城、セネガルのゴレ島)

に比べ整備されず観光地化もされていない為、

より一層その当時の様子を思い浮かべる事が

できる場所。

バンス島の見学

 

↓ここは2階建ての商館。1Fは倉庫で

2Fは住居。

 

 

 

 

 

 

 

内部・2Fに英国人が泊る。1F2Fとも

窓があり奴隷を監視するためです。

↓暖炉跡・英国人が懐かしんで作った。

↓長官の家・3階建て

↓2F建ての商館・1Fは倉庫 

2Fは長官の住まい

 

 

男性部屋全体・200~300~1000人

程いた。奴隷部屋は女性・20~150人

子供とわけていました。女性部屋と

男性部屋は分かれて収容されていた。

↓火薬庫入口

↓外敵に対する大砲・王室のサインと

 王室の飾りが大砲に書いてあります。

 大砲は重い為,ここに残ったが

  鎖は持っていった。

夕方,白人が酒を飲む所(白人は20~50人

程いました。監視の為,沢山いました。

黒人はそれぞれ,言葉が違うため反抗が出来

なかった。奴隷狩りをする黒人帝国はない為,

白人自身が毎日の様に近くの黒人を

奴隷狩りをしていた。)

島の井戸・淡水がありました。

↓坂根の木(コットンツリー)

アメージング・ツリーとも

呼ばれているようです。

バンス島には有名な曲アメージング・グレイス

を作詞したジョン・ニュートンが来たと何かで

読んだ。1772年アメイジング・グレイスで

黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と

それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する

感謝を表したそう。

ボートでフリータウンへ戻り昼食

フリータウンの街並

高台にあるレストランへ

フリーランスの街の湾岸の風景

時計12:30昼食のレストランス

高台の海が見えるお店で

高台には高級な家も目立つ。

ナイフとフォーク赤ワイン

写真撮るの忘れていてシェアした

海老のピラフの残り

スプーンフォークアイスクリーム


西アフリカの奴隷にされた国に

いくつも行って見てきたけど

人間を動物の様に扱ってきた白人の

神経を疑う。日本人ならするだろうか

   チンパンジー保護区へつづく

飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間⑤飛行機

  <シエラレオネへ>

7日目11/11

リベリア発祥の地プロビデンス島

メスラド川に三角洲のプロビデンス島がある。

プロビデンス橋

モンロビアの街中,川の中の三角州の島

プロビデンス島。この島はアメリカの奴隷解放

により,アメリカから戻った黒人が初めに上陸

した島だといわれている。リベリアはアフリカ

の中でも早い時期に独立し,この島から

リベリアの歴史が始まったといっても過言

ではない。リベリアは2000年前後に内戦が

続いたが,内戦の終結と平和の象徴としても

位置づけられている様です。

リベリアの人種の歴史

アメリコ・ライべリアンとは

アメリカ合衆国の解放奴隷

(アフリカ系アメリカ人の子孫の黒人の呼名)

リベリア全人口のわずか5%しかいない

少数派ですが1847年の独立から1980年まで

リベリアの政治・経済を支配していた。彼らの

ルーツはアフリカ人だけど,自分達がアメリカ

での奴隷生活を通じて“文明化”されたと感じて

いた為,大多数を占める現地部族を軽視し差別

してきた。一方現地人の方も奴隷生活の中で

白人的価値観を叩き込まれた彼らを

アフリカの文化を知らない黒い白人とみなして

軽蔑した。混血や1944年からの同化対策などで

緩和されてきたが,対立は変わらず,1980年に

現地部族出身の軍人サミュエル・ドウによる

クーデターでアメリコ・ライベリアン

政権は倒され、アメリコ・ライベリアン

リベリア支配は終わった。

中に入るには鍵を開けて貰いこの螺旋を

上がって入ります。

リベリアには16の部族が住んでいた。

そこに解放奴隷が帰ってきた。

アメリカからの解放奴隷の家族と

現地のリベリアの人の出会いの像

プロビデンス島・・この島に初めて

解放奴隷は上陸した。

↓リベリアはアメリカの解放奴隷

 を中心に建国された国

プロビデンス島を見学後、

バスバスバス2台で国境越えです。

リベリアのモンロビアから

シエラレオネのボー

基本的には木々と舗装されてない道

を走って行きましたが,村に入ると

こうして市場があり賑わってました。

 

 

シエラレオネとの国境に近づいて

きました。

国境に入ると写真NGなので撮れま

せんでした。国境では時間がかかり,

やはりチップやお金を要求されてるのかな

とも思いました。聞かなかったけど・・

アフリカ途上国あるあるです。

国旗

シエラレオネはスペイン語で

ライオンの山脈」の意味。国旗の

緑色農業,,天然資源を,青色は天然の

良港であるフリータウンを,そして

白色団結と正義を表している。

シエラレオネはスペイン語で「ライオンの山脈」の意味。国旗の緑色は農業、山、天然資源を、青色は天然の良港であるフリータウンを、そして白色は団結と正義を表している。

シエラレオネの入国は時間は取らず

リビエラの出国に時間がかかった。

シエラレオネ共和国

面積:日本の約1/5

人口:900万人(2024年)

首都フリータウン

言語:英語,クリオ語,メンデ語,テムネ語

民族:テムネ人,メンデ人,リンパ人

     クレオール(黒人と白人との混血)等

宗教:イスラム教60%,キリスト教10%

           アニミズム信仰30%

奴隷1787年 英国で奴隷貿易廃止

促進協会が設立され,黒人移住希望者の

シエラレオネへの入植が開始

植民地1808年英国領植民地化

独立1961年英国から独立

シエラレオネ共和国入国後のボー

の街までの途中の村のホテルヘ

今回,唯一3つ星ホテルだったので

期待してなかったけど,思ったより

いいホテルでよかったです。

殺風景だけど,お湯も出るしエアコンも

聞くしTVも冷蔵庫もあるし・・・

唯一,シーツのかけ布団がなく要求

8日目11/14 朝食のレストランへ

ホテルのレストラン 夕食もここで

だったけど,写真が暗くてNG

時計8:30出発バス小さな村々を車窓で

見学しながら第二の都市ボーから

シエラレオネの歴史

15世紀.ポルトガル人が上陸

18世紀後半.イギリスで奴隷廃止運動が

起き,解放された黒人の移住希望者の

シエラレオネへの入植が始まる

1808年.イギリスによる植民地化

1961年4月.イギリスから独立

1991年.内戦勃発
2002年.内戦終結
2014年.エボラ出血熱が流行。

・2015年.エボラ出血熱末に終息。

シエラレオネ共和国は過去11年間に及ぶ

内戦や,エボラ禍の経験により,2016年迄

世界で一番平均寿命短い」と言われ

現在でも国民の4割が絶対的貧困化

(1日1.9ドル以下)で生活してる。 又,

子どもの3人に1人が児童労働に従事し,

5人に1人が小学校を卒業することが困難な

状況にる。シエラレオネは世界でも乳幼児と

妊産婦の死亡率がもっとも高い国の一つ

であり,5歳の誕生日までに死亡する子供は

1,000人中167人,出産時の妊婦死亡率は

10万人中1,300人 もいる。

シエラレオネの1991~2001年頃迄

実際に起きた内戦を描いた映画

「ブラッド・ダイヤモンド」がある。

1991年に反政府軍が武装蜂起し,内戦が

勃発した。内戦では100万人を超える

避難民が発生し同国の経済社会インフラは

壊滅的な打撃を受けました。2002年の

停戦合意以降政治的安定に及びます。

2016年のエボラ終息宣言まで4000人近く

の犠牲者を出し,シエラレオネの社会に

大きな爪痕を残しました。エボラ終息後,

シエラレオネの主要な輸出産品である

鉱物資源価格が世界的に低迷し外貨収入

は急減,現地通貨は下落,インフレが

高止まりし同国は低成長に苦しんでいる。

シエラレオネは,世界の最貧国の一つ

であり,電気,水道,病院,学校等の

基礎的社会施設の多くが未整備です。 

バス車窓からは村がいくつも

10年以上続いた内戦と,高いHIV感染率

による影響で,2020年時点で平均寿命

世界で11番目に短い国(2020年推定で

59.8歳(男性:57.1歳、女性:62.6歳)

 

バスを止めて村の学校に寄ることに

学校が見えてきて突然立ち寄る事に

先生に聞いてOKが出たので教室へ

制服を着てたので私立かな

バスが着いたのがわかると子供が

出て手を振ってくれました。

 

教室をのぞかせてもらう事に・・

みんなキチンと挨拶が出来て素直

 

時間割かなあ・・

何のアポもないのに突然訪れた私達に

皆で挨拶してくれお利口さんな子供達

 

 

 

目が輝いている

 

旅行社のガイドがドローンを飛ばしたので

皆空を見てる

ドローンなんて見た事ないんだろうな

 

カメラを向けるとみんな笑顔

 

 

私達の突然の学校訪問を見ていた先生かな

学校関係者かな・・

 

 

着なくなったTシャツやズボンなど

ほんの10数枚持ってきて,あげたら

取り合いになり,もっと沢山持って

きたらよかったなあと・・・

シエラレオネ世界197国の中で

最貧国の下から13番目

 

お別れしてバスに乗り込みました。

バス私達のバス

バスはゆったり

バス車窓

時計12:55

凄いバランス感覚・いくら輪っかを

頭に乗せていてもこんなに重い物を

 

 

  シエオラレオネ ケント村へ

 

飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間⑥飛行機

  <モンロビア市内>

7日目11/13  バスモンロビア市内の観光

リベリアの首都モンロビアの観光

アメリカの解放奴隷を中心にリベリアは

建国された為、最もアメリカと結びつき

が,強い国

 

マゾニック寺院は1867年にアメリカ

植民地教会の支援を受けて建てられた。

軍事クーデターが起きるまで政治に

使われていたが,リベリア内戦の影響を

受けて倒壊し廃墟となってしまった。

フリーメイソンのリベリア支部

ワシントン ニュートンや

高須クリニック院長や鳩山由紀夫も

会員だそうです。

現在は復旧が進み,建物の一部は再び使用

されている。アフリカ唯一のフリー

メイソンの建物でもあり,モンロビアの

貴重な歴史的建造物となっている。

モロンビアの街並み

↓タクシーはオート三輪

日傘をさしたバイクタクシー

カメルーンでもこの日傘の

バイクタクシーはよく見かけた。

↓ドゥコールホテルの看板

リベリア共和国の首都モンロビア

リベリア最大の都市で政治や経済の

中心地。1989年から2003年にかけて

2度の内戦を経験してきた。現在は

復興の途中にあり,内戦の傷跡を残す

ホテルも点在。↓高級ホテルの看板

1960年代のリベリアは日本に次いで

二番目の高い経済成長率を誇り,当時は

アフリカ諸国の中で最も発展していた

国一つだった.その証に高級ホテルがある

廃墟のDucor Hotel(ドゥコール)

1960年代に建設された首都・

モンロビアの丘の頂上に立つ8階建ての

5つ星ホテル,デュコール・ホテル。

1989年に内戦のため閉鎖される迄は

西アフリカ随一の評判を誇り,数々の

要人やセレブリティが訪れたという。

当時はアフリカ全土でも数少ない

5つ星ホテルの1つだった。

1989年から2003年まで約14年間

続いた内戦の為,ホテルのありとあらゆる

ものは略奪・破壊され,内戦後は多くの

違法居住者がここに住み込んでいた。

2008年にリベリア政府はこのホテルの

リノベーションをリビア政府に委託する

ことになり,カダフィ政権の元で

プロジェクトが進められたが,2011年に

カダフィ殺害を受けて,このプロジェクト

は頓挫した状況となっている。

廃墟のドゥコール・ホテル

小山を上がると美しい海が見える

↓モンロビアは大西洋に面して海

 

 

ドゥコールHの反対側にあるリベリアの

初代大統領のジョセフ・ロバート像

リベリアでは建国以来アメリカからの

帰還者(Americo-Liberian)のグループ

が政治・経済の実権を握り,多数派の

先住民族を抑圧するという,黒人が黒人

を支配する構造が続いていた。これが

結果的に先住民族の反感を買い,

1980年代に第一次内戦という悲惨な

結末をもたらす引き金だった。

ジョセフ・ロバーツの像

1847年7/28日独立宣言し,1848年~

1856年初代大統領となった。この人は

先住民との融和政策をとり,各州を取り

まとめ,リベリア連邦としました。

第2代はエドワード・ロイでしたが,

皆より嫌われ暗殺された。その後,

ジョセフ・ロバートが1872年~

1876年まで大統領をしました。

1822年米国から解放された奴隷達が

初めてリベリアに到着し,1824年

モンロビアと名付けられる1847年

リベリアは独立。ロバーツ大統領が

初代大統領として就任。

↓下の台座はストーリーになっている。

↓独立の為,お金や大砲も使った。

↓中央が全体の酋長で洋服を着ている

人がアメリゴ人,裸は先住民,アメリゴ人

と酋長が握手をしています。

↓独立の旗です


 

↓大砲も置かれていた。

リベリアの首都モンロビア

人口は167万人(2023年)

19世紀初頭,アメリカ植民協会

(後のリベリア植民協会)が解放された

奴隷たちの為のアフリカでの新しい

居住地を探していた。1821年現在の

モンロビアの場所に最初の入植地が

設立され,翌年,この地はモンロビア

名付けられ,リベリアの中心地として

急速に発展していきました。

メズラード川の河岸にあるウォーター

サイド市場は,モンロビアの人々が

利用する日常のマーケット。道路上に

までお店や人があふれ,いつも活気に

満ちているそう。1階だけでなく2階にも

品物がずらりと並べられていて,市場の

雰囲気に圧倒。

世界最貧国の10位とは思えない程の

マーケットが並ぶ

道路にもパラソルが並び商品が満載

モンロビアは坂の多い町。そこに

市場がひしめいているので独特の

眺めが広がる。

3輪のタクシーも買い物客を乗せて

走る。

 

 

 

 

モンロビアの中心部にあるウォーター

サイドマーケットは,地元の雰囲気を

味わえる活気あふれる市場。カラフルな

織物,レザー製品,地元の工芸品など

リベリアならではのお土産が並ぶ市場

 

 

 

 

2階にまで商品が並ぶ

 

 

↓ジュネーヴ諸条約50年記念で

1999年に第一次内戦の終結を記念して

建てられたモニュメントの設置も虚しく

リベリアは2003年より第二次内戦に

突入することになる。

リベリア国立博物館

リベリア大統領のプライベート文書や

政府幹部の写真などが展示。リベリア

で使われている郵便切手や日刊新聞、

伝統的な家庭用文具や調理器具など。

国立博物館の裏

リベリア国立博物館へ入ります。

国立博物館に入ると・・

リベリア建国以前から現在まで歴史や

文化をものがたる,数々の貴重な資料が

展示されてる。

伝統的なダンスのとき使用される仮面

 

 

 

 

 

 

 

 

民族と歴史を展示の博物館

リベリアの歴史が書かれている

 

奴隷狩りの絵

 

リベリアの内戦の歴史の写真

2014年6月以降,シェラレオネから

エボラ出血熱の流行が拡大して

リベリアも甚大な社会的・経済的被害

を受けた。

国立博物館を出て近くに建つ

百年記念パビリオン

(センテニアル・パビリオン)は

リベリア共和国建国100周年を記念して

1947年に建てられました。ここは

リベリア大統領の宣誓に使用されるなど

国の大切な行事が行われる場所で

モンロビアの人々のアイデンティティー

となっている。

百年記念パビリオンの塔

 

百年記念パビリオン

リベリア共和国建国100周年を記念

して,1947年に建てられた。リベリア

大統領の宣誓に使用されるなど,国の

大切な行事が行われる場所で入口に

立つリベリアの人々の平穏な生活を

願う金色の像がとっても印象的

 

 

↓街には内戦で燃えたビルがそのまま

 残っていた。

   リベリアの歴史の島へつづく・・

 

 

飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間⑤飛行機

  <リベリア共和国へ>

6日目11/12 今日は1日飛行機で移動日

6日目はギニアビザウからリベリアへ

移動の為,朝ホテルをバス時計4:30に出発

ビサウ 6:30飛行機7:30ダカール

ダカール8:20飛行機11:50ロメ

 

ロメ 14:50飛行機11:10アクラ

アクラ15:50飛行機17:50モロンビア着

一日2機乗り継ぎ11時間後に到着

飛行機アスカイ航空リベリアまで

 

空港バスに乗り機内へ

アスカイ航空(ASKY Airlines)は

トーゴロメを拠点とし旅客運送を

行う航空会社。 西アフリカ諸国

政府が主導し設立した。 主に

西アフリカ,中央アフリカに就航してる。

一端,セネガルまで行き空港へ

セネガルから飛行機を乗り換え

リベリアモンロビア

いろんな飛行機が着いてました。

空港内

 

2回目の機内食ナイフとフォーク赤ワイン チキンを選択

時計17:39やっとリベリアに着きました。

国名の「リベリア(Liberia)」は

自由(Liberty). に由来。

アメリカから戻った解放奴隷が建国

1847年アフリカ最初の共和国として

独立。 

リベリア共和国

面積:日本の約1/3

人口:1866万人(2024年)

首都モンロビア

言語:フランス語,ウォルフ語

民族:クペレ族,バサ族,グレボ族等

宗教:キリスト教85%,イスラム教12%

奴隷制度1822年米国から解放された

奴隷グループが初めてリベリアに到着

独立1847年独立

   1822年米国から解放された奴隷グループが

初めてリベリアに到着。1824年,首都が

モンロビアと名付けられる

解放奴隷アフリカ移住を支援した

米国のモンロー大統領にちなんでいる)

 

バスホテル時計20:45着

↓MAMBA POINTホテル 4つ星

 

 

ホテルのレストランの夕食へ

とても最貧国の国のホテルとは

思えない素敵なホテルでした。

廊下にいろんな仮面が飾って


時計21:39スプーンフォーク夕食はカボチャのスープ

ホテルでお寿司の夕食でした。割り箸お茶

お寿司は日本と同じ美味しさ

スプーンフォークデザートはアイスクリーム

シンプルだけど綺麗な部屋

お風呂もお湯も心配なく出て・・

7日目11/13   時計6:18朝食のレストランへ

ホテルの中庭

ホテルのプール

レストランへ

朝食のレストラン

 

朝食は軽くナイフとフォークコーヒー

ホテル フロント

絵画や仮面が沢山飾ってある。

朝,ホテルの前が海だったので見に・・

リベリアはアメリカの影響を強く

受けており,さらに主権国家として

確立していた為,ヨーロッパの国々

はリベリアに手を出せなかった。

1989年から約14年にわたり続いた

内戦終結後,復興にむけて緩やかな

道のりをたどっていたリベリア.

2014年3月のエボラ出血熱の

感染拡大によって前例のない甚大な

被害を受けた。今も世界最貧国の

一つで世界197国中,最貧国10番目

 

 

 


     リベリアつづく

飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間④飛行機

 <ギニアビサウ共和国>

4日目11/10時計18:43ビサウの街に着く

ポルトガルの植民地であったこともあり

ブラジル移民の子孫が多くカーニバルも

リオ並みに賑わうといいます。

クーデターや内戦の影響や島が多い事から

南米からヨーロッパへの麻薬の中継地

になっているといわれます。

三重県の鳥羽水族館にはこの国のジェバ川

で捕獲されたアフリカマナティーがいます。

車窓からなのでUがかけてしまった。

1446年にポルトガル人が上陸し

南北アメリカ大陸への奴隷貿易の

中継地として栄えたギニアビサウ。

幾つかの河川が流れる大陸部と多くの

野生動物が生息するビジャゴ諸島から

なる自然豊かな国。1990年代以降は

内戦が勃発し,軍の反乱やクーデター

が頻発するなど不安定な政治が続き

経済的にも世界最貧国の一つでした。

近年,ようやく観光客も増えはじめ,

ギニアビサウの自然が注目される様

になってきた。

ギニアビサウ共和国

面積:九州とほぼ同じ

人口:220万人(2024年)

首都ビサウ

民族バランタ,フラ,マンジャカ

           マンディンカ、パペウ等

言語:ポルトガル語

宗教原始宗教、イスラム教、キリスト教

独立15世紀ポルトガルの植民地

   1973年ポルトガルより独立

↓ギニアビサウの国旗

国旗は汎アフリカ色の旗,ギニア・

カーボベルデ・アフリカ人独立等の

旗が原型。 黄は北部サバンナ地帯

緑は南部森林地帯を,赤は沿岸地方を

表している。

ギニアビサウの国旗

HELD ROYALホテル着 5つ星ホテル

↓ホテルフロント

ビサウではこのホテルは立地と

ロケーションは最高のホテル

夕食はホテルでビュッフェナイフとフォーク

↓部屋

この国では最上級のホテル

屋上にはプールもあり近くに

独立広場と大統領官邸がある。

5日目11/17時計7:49部屋からの景色

ギニアビザウの歴史

ギニアビサウはアフリカ諸国の中でも

最も面積の小さい国の一つ

1446年にポルトガルがこの地域一帯

領有を宣言した。ポルトガルは

ギニアビサウのカシュウを拠点に

後にアフリカ全土でそうしたように

この地でも奴隷貿易を開始しこの地

からも多くの黒人奴隷が南北アメリカ

大陸やヨーロッパに送られた。

ビサウは,その地理的な位置と天然の

良港により西アフリカにおける重要な

交易拠点として機能している。

植民地時代を通じてポルトガルの影響

を強く受けた街並みや文化が形成され

現在でも名残を見られる。

首都のビサウですら電力供給は不安定で

私達の泊まった5つ星ホテルでさえ3回の

停電(1・2分程度)がありました。

法務省議会

再建されて近代的な外観ですが

ギニアビサウの民主化を象徴する建物

祖国の自由の戦士 大通り

時計朝9時に2台の小型バスに分かれて

観光バス まだ旅行社や大型観光バス

もない国です。

街は車と市場で活気に溢れていました。

バス車窓から・沿道沿いに並ぶお店

8つの州から成るビオンボ州の

キニャーメウ区に位置する

ビザウ郊外の小村キニャ-メウ

バスを降りて散策です。

ビサウの様子は信号も無くノンビリ。
観光客はまったくと言って良いほど

来ない国。この国はまだチップや

マネーとうるさく言われない。

↓キニャーメウ村のメインストリート

ギニアビサウは原始宗教が強く服装に

関してはかなり開放的。女性が華やかな

服を着て市場を出歩いていたり

周辺国とは異なるゆるい空気を感じる。

 

ビサウ郊外の素朴な小村 

キニャーメウ村を散策

全人口のうち7割近くが1日2$未満の

暮らしで世界最貧国の一国

これといった産業がなく,輸出の

8割前後をカシューナッツが占め,

それが国家の主な収入源となっている。

 

洋服屋さん

 

ギニアビサウは世界197国の

最貧国23番位(2023年)

アフリカの女子って髪の毛がおしゃれ

 


 

バス少しバスで移動して地酒工房

サトウキビから造る地酒

カナ」(ラム酒)の工房

※毎年1月から稼働

 

今の時期は稼働してなかったので

ラム酒を造る行程の説明

造られたラム酒を入れておく缶

ラム酒工房を出て国立博物館バス

バス

ギニアビサウの国立民族学博物館

国立民族学博物館内 ↓伝統の民族織物

伝統布「パヌリピンディ

 

↓伝統楽器や木彫り

音楽とダンスは西アフリカ文化に

不可欠な部分

地元の伝統や芸術を描いた仮面,衣装,

工芸品が展示。ここは写真OKでした。

伝統音楽の民族楽器

 

ガイドの説明を真剣に聞いている


 

↓伝統的な太鼓

国立民族博物館を出て昼食へバス

大統領官邸前の独立英雄記念広場

大統領官邸は2013年に中国の投資

より資金提供を受ける形で改装され

再び運営されている。中国はアフリカ

の沢山の国をお金とインフラで支援し

影響力を行使し圧力を加えている。

今はアフリカの途上国に行くと

「ミーハオ」で声かけられる事が

多い。20年前はそんなことなかった。

独立英雄記念碑

時計13:30昼食はサラダとチキンナイフとフォーク赤ワイン

デザートは手作りプリンとジュース

昼食後,ビサウの旧市街観光

十字架ビサウ大聖堂閉っていました。

 

 

 

 

こぶしの像

モニュメントは“Timbaの手”と呼ばれ

Pidjiguiti の虐殺に対する慰霊塔

マルティレス公園

ギニア・ビサウ解放の指導者

アミルカル・カブラルの像

ギニアビサウとカーボベルデの

独立を主導したそう

独立広場や大統領府に続く

メインストリートに革命家 

アミルカル・カブラルの胸像

 

 

コロニアルな雰囲気建物旧市街

近くのアムラ要塞を見学・写真NG

ギニアビサウにもトヨタ車

ビサウ港

 飛行機  リベリアにつづく

 

飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間③飛行機

  <セネガル・ゴレ島>

ゴレ島・・セネガルの負の世界遺産

1444年にポルトガルが船の停泊地と

してこの島に上陸し,1536年に奴隷貿易

の拠点として奴隷の家を建ててから

4世紀に渡り,約2000万人と言われる

数の奴隷がこのゴレ島を経由して,

新大陸へと連れて行かれた。その数は

総計で1500万人にも及んだと

言われている。

ゴレ島はフェリーで20分位と近い

フェリーは満席で観光化された島

観光地によくある「I LOVE ○○」

 

ゴレ島の地図

15世紀から19世紀まで「三角貿易」

と呼ばれる奴隷貿易の拠点となった島。

三角貿易は製品の(武器など)・素材

(蜜蝋、ゴムなど)・奴隷(労働力)

交換し合う諸国の取引。

 

 

 

 

「奴隷の家」として博物館になっている

建物は家族で連れて来られてここで

離れ離れにされた親子も少なくなく

父親はルイジアナへ,母親はブラジルへ

そしてその子供はハイチへといった

ケースも。この館の廊下に並ばされた時

故郷アフリカ,そして家族との永久の別れ

を意味していた。

1776年に建設された奴隷の家は2階建て

の屋敷でオランダ人が建てた。1階が

奴隷の部屋で常時150~200人が

詰め込まれ動物扱いされ衛生的にも

劣悪な環境だった。多くの奴隷が伝染病

などで亡くなりサメの餌にされた。

↓1階の奴隷の部屋から見学です。

かつてゴレ島は、フランスの奴隷貿易

の拠点でアフリカ各地で捕えられたが

人々がこの島に集められ売られていった。

劣悪な環境でお手洗いもなく手足を

縛られ絶望の日々だった。

家族で連れて来られて子供も別室へ

奴隷達はカリブ海やアメリカ大陸で

コーヒーや砂糖,たばこなどの強制労働を

強いられ,動物以下の扱いを受けた。

沢山の人がこの悲惨な現場を見学

 

抵抗したり言うことを聞かない奴隷は

この暗くて狭い場所に何日も閉じ込め

られた。

「帰らざる扉」

奴隷達は一筋の光が差し込む扉を潜ると

その先には,奴隷を乗せる船が待って

ました。ここから多くの奴隷達が

送り出されたという。もう帰れない事を

覚悟して・・・・船に乗ってからも

劣悪で病気になると感染防止の為

海に捨てられサメの餌にされた。

 

 

2階では奴隷商人たちが優雅な暮らしを

していたという。2階は見学するのかと

思ってたらスルー・折角きたのに

壁の色などは塗り替えられていた。

 

奴隷の家を出て街を歩く

 

ゴレ島には芸術家が多く住んでいる

 

十字架セント・チャールズ教会

 

コロニアル風南国リゾートの様な小路。

海の向こうはダカールの街

 

 

観光化されているのでお土産屋も

沢山あった。レストランもある

 

(旧エストレ要塞)・現在歴史博物館

奴隷逃亡防止や外敵への侵攻を防いだ。

ここも時間が少ない為行けなかった。

帰りの船を待ちます。

海では地元の子供が泳いでいた。

 

帰りのフェリーが見えてきました。

200人位乗れるのかな,満席

船着き場

お土産って余り買わないけどセネガル

の帽子を購入,ズンバやKポップダンス

で被ろうと思って・・・第二の趣味

帽子は集めていて50個位あるかな。

ここには夏の帽子が1/3 

ゴレ島から戻り昼食へ時計13:15

セネガルスタジアム

昼食のレストランは4つ星ホテルで

ホテルでのビュッフェナイフとフォーク

レジスタンホテルでのビュッフェ

ナイフとフォーク赤ワインビュッフェ

空港へ

 

飛行機私達はギニアビザウへ向かう為

アスカイ航空で1時間のフライト

 

ギニアビザウ共和国へつづく・・

飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間②飛行機

  <ギニア共和国>

2日目11/9時計17:59コ ナクリの高台に

あるツインタワーの屋上から市内を眺望

ギニアは世界179国の最貧国の25番目。

貧富の差が激しくこの高台から見る

眺望に見える建物はオレンジの家の

新しいお家ばかり・・開発中の土地

近年建設中の建物が増えているものの

多くは建設途中のまま放置されている。

運転資金の尽きた建設会社は次の

建設資金が入るまで建設を中断して

しまう為,建設予定が読めない。

大西洋に面してるギニアはギニア湾

通称,象牙海岸(かつてこの地方の

海岸で象牙が多く取引された事に由来)

日本の本州と同程度の国土を有する。

↓2009年9/28

「コナクリスタジアム虐殺事件」

競技場で行われていた市民団体や

野党支持者による集会に対し,

治安当局が発砲。157人が亡くなり

1,000人以上が負傷したほか,109人の

女性が性的暴力を受けるなど,

白昼に蛮行が横行した。

↓モスク

↓イスラム教の学校か施設かなあ・・

信号がない為,渋滞,これでは動かない

 

 

遠くは海で開発中の土地

ギニアは貧しくとも自由を選んでフランスから

一方的に独立。怒ったフランスが,ギニアの町を

破壊したり,重要書類を略奪したりした。その際に

ギニアの地図も持ち去られてしまった。地図が

ないと国のインフラ整備は進まず,不便で貧困に

なっていった。そんな中,日本の測量士達

地図作りをかってでて,なんと4年もかけて

ギニアの地図を作ったそうです。そのエピソード

がかつてNHKのドキュメンタリー番組

「プロジェクトX」で取り上げられました。

↓展望から戻り,レストランで夕食ナイフとフォーク

レストラン・セットしてありました。

夕食はビュッフェで美味しそう・・

高級レストランなので沢山並んでる

ギニアの産業は独立時に経済を支えていた

バナナ,パイナップル,コーヒー,ピーナッツ

パーム油などの農産品の輸出から,全世界の

3分の1の埋蔵量を占め,世界第2位の産出量を

誇るボーキサイト,その他金やダイヤモンド

などの鉱業とその輸出に移ってきている。

あまり食べすぎない様に・・

バナナの揚げた物やシーフード

夕食後,コナクリの空港へ行き

飛行機エアーセネガルセネガル

1時間半乗り23時着 ホテルヘ

4日目11/10 セネガルAL AFIFAホテル

夜中の12時前に着いたので早く部屋へ

4つ星ホテルで綺麗なホテル

 

部屋も綺麗ですが短い停電が3回

1~2分で着くけど懐中電灯必要

朝食が6時半からなのでレストランへ

 

廊下やロビーに絵画が沢山飾ってある

ホテル

 

まだ,6時半でも朝は暗く・・

朝食のレストランも可愛い

小さいけど綺麗

セネガルは仏の植民地だったので

クロワッサンやパンは美味しい

スプーンフォーククロワッサンとコーヒー

セネガル共和国

面積:日本の約半分

人口:1866万人(2024年)

首都ダカール

言語:フランス語,ウォルフ語

民族:ウォロフ,プル,セレール等

宗教:イスラム教,キリスト教

独立1960年フランスから独立

時計8:30バスホテル出発 

ダカール市内観光ゴレ島

アフリカン・リメンバランス大聖堂

屋根には多数のビザンチン様式のドームがあり

中央の大きなドームの周りにはギリシャ風の 

20 個の窓があります。

大聖堂はスーダン産の砂岩と英国産の

花崗岩で建てられ,1924 年に建設が

始まり12年後に完成。 1936年2/2に

パリ大司教ジャン ヴェルディエ枢機卿

によって奉献されました。


正面玄関は3つのドアがりかなり壮麗で

両側には壁に取り付けられた4つの

聖母マリア像があります。彫像の上には

「救い主イエスの母である聖母マリアへ」

と訳された碑文があります。

1936 年に建てられた華麗な大聖堂

奴隷解放イベントや祝日のイベント

などを行います。

 

祭壇には黒人のステンドグラス

セネガルの市内観光バス

1815年から独立1960年迄フランス

の植民地となる。 1848年に奴隷貿易

が禁止され,フランスは新たな輸出品

として落花生を栽培させ現在の主要

な換金作物の一つになっている。

祈りの場・説教

モスク

 

イファン博物館

 

イファン博物館

 

 

 

セネガルの大統領官邸

セネガルの初代大統領レオポルド氏は

フランスの中等教育の教員,詩人でも

あった。黒人としての自覚,黒人文化

の特質など示すネグリチュードの概念

をその著書の中で発展させたのも彼。

スタイルの良さもさることながら

セネガルの人々はかなりオシャレ。

アフリカの中でも民主化の進んだ国で

あり文化的な香りの漂う国セネガル。

官邸の為、写真撮影は遠目しか駄目

と言われ遠くで写そうしたら、

そうしたら,わざわざこちらに来て

数分ならOKと言われた。

1815年から独立の1960年迄フランス

の植民地となる。 1848年に奴隷貿易

が禁止され,フランスは新たな輸出品

として落花生を栽培させ現在の主要

な換金作物の一つになっている。

独立広場 国旗の意味

旧宗主国のフランス3色旗を手本に

緑・黄・赤のアフリカの色を用いる。 

中央の星はアフリカの自由のシンボル

で,セネガルの単一性も表現している。 

緑は農業希望を黄富と資源

赤は独立の苦難と尊い血と犠牲を表す

ダカール駅 

新空港鉄道計画(ダカール新空港と

ダカール駅を結ぶ高速鉄道計画)の

展示がある。セネガルとマリを結ぶ

1287kmを結ぶダカール・

二ジュール鉄道で1924年開業

第1・2次世界大戦の命を落とした

小銃兵の記念碑

ダカール・二ジュール鉄道

世界遺産 ゴレ島へ↓船着き場待合室

船に向かいます。

↓高校生みたいな地元のスポーツ

選手の学生が大勢乗ってました。

フェリーの2階に乗りました。

満席でした。

 

ダカールの港3kmからゴレ島は20分位

一日2隻がピストンで運行してますが

この日は1本で見学時間が短くなり

見えてきました。

奴隷貿易の拠点になった悲劇の島

セネガルの負の遺産「ゴレ島」

歴史博物館

エストレ要塞

外敵の侵攻や奴隷の逃亡を防ぐ為,

南北の岬に城塞が築かれた。その

北側のエストレ要塞を転用した物が

歴史博物館。内部にはゴレ島の起源

から独立までに関する展示がされて

いて痛ましい奴隷貿易の資料も見学

出来る。屋上にはレプリカの大砲が

ある。奴隷の家で収容出来なかった

奴隷を一時的に押し込めていた場所

も,残っている。

私は今年2月に1度来れたけど,今回

船が1隻の為,時間がなくここには

行けなかった。

要塞の上には大砲が置かれている。

ゴレ島は東西300m,南北900m

セネガルでは最古のイスラム教の

モスクも残っている。

ゴレ島は1444年にポルトガル人に

発見され,その後、ヨーロッパ列強国

の間で主権争いが繰り広げられ最終的に

フランス領となった。1848年の

奴隷貿易が禁止される迄は新大陸への

奴隷の積み出し港として発展する。

「奴隷の家」はオランダ人によって

建てられたもので,常時150人~200人

が押し込められていた。彼らは鉄の

首輪と腕輪をはめられ衛生状態も

非常に悪くペストなどの伝染病が

流行する事もあった。この場所に

家族が連れて来られバラバラに引き

離され別々の国へ送られた。

ゴレ島に到着,下船

ゴレ島の観光へ

  

飛行機西南アフリカ5ヶ国11日間①飛行機

<リベリア・シエラレオネ・ギニアビサウ

セネガル・ギニアの5ヶ国>

2024年11/7~11/17

ツアー人数:14名

ツアー代金139万円+燃油8万円他

一人合計150万円

旅のデザインルーム 

1日目11/7時計20:30成田出発

エチオピア航空でソウル迄2時間40分

機内食:チキンカレー選択と白ワインナイフとフォーク

ソウル経由:機内から降りて再び搭乗

ソウルからアジズアベバまで13時間

2日目11/8

機内食はチキンか魚でチキン選択ナイフとフォーク

必ずキムチが付いている。 

3回目の機内食はオムレツかワッフル

アジスアベバで乗り継ぎ便へ

エチオピアの空港で3時間待ち

アビジャン経由でギニアコナクリ

アビジャンで経由しますが降りず

コナクリへ・約8時間のフライト 

機内食チキン選択

古くから機内食の肉料理は牛肉と鶏肉

からの選択で豚肉は羊肉等とともに

選択肢になかった様です。今は

牛・鶏・魚のうちの選択が多い

成田を出発してから26時間で6回目

機内食:サンドイッチ赤ワイン

アフリカのギニア

成田からギニアに着くまで飛行時間

24時間,そして成田からトータル

26時間後,ギニア共和国着

入国審査ヴィザのブースではチップチップと

言われたり,メンバーの人はバックを開け

させられ勝手に10ユーロ抜き取られました。

アフリカの秘境は本当にチップの要求がうんざり

ギニア共和国

面積:日本の本州とほぼ同じ

人口:1450万人(2024年)

首都コナクリ

言語:フランス語

各民族語(プル、マリンケ、スースー等)

民族プル,マリンケ,スースー等,20あまり

宗教イスラム教,キリスト教,伝統的宗教

独立:古くはガーナ王国,マリ王国の

領土,1904年フランスの植民地に・・

1958年住民投票の結果フランス

からギニア共和国として独立

フランスの植民地の中で最初の独立国

独立後,一方的な独立にフランスは

ギニアへの一切援助を打ち切り,

公共施設や道路を破壊し尽くし,

国土台帳の書類や公共施設の備品など

をフランスに持ち帰った。

ギ二アホテル時計19:31

(国際会議がその日行われるのでメンバー

  半分づつホテルが分かれました)

2日目11/8

日本との時差9時間(日本が9時間早い)

貧困国はホテルがいいのに泊れないと思って

たけど,最初から5つ星ホテル!流石

5つ星ホテル HELD HOTEL NOOM

夕食はホテルのビュッフェで後,部屋

とても綺麗な部屋でここギニアかなと

3日目11/4  朝食へ

ホテルのプールへ出て朝の海を見て

少しづつ明るくなってきた・・

ホテルから

時計6:30朝食のレストランナイフとフォーク

朝食はパンやクレープ・ヨーグルト

なつめやしがありました。

世界にはギニアの名がつく国4つある。

ギニアビサウ」に「赤道ギニア

「パプアニューギニア」と「ギニア

その為,ギニアのことを地元の人たちは

他と区別するために「ギニアコナクリ

と首都の名前と合わせて呼びます。

部屋からのホテルの前の景色

ホテルの横は海

シエラレオネと並び世界の最貧国に

リストアップされるギニア。貧しい

けれど人々は明るくエネルギッシュ。

フランスの植民地として豊かに生きる

より,貧しくとも自由に生きることを

選び,ギニア人は1958年に一方的に

フランスからの独立を宣言した。

そうしたら上に書いた様にフランスが

嫌がらせをして全てを破壊した。

バス時計9:15出発コナクリの市内観光

グランドモスク

5000人収容の巨大なイスラム寺院

ミナレット(尖塔)は細く長く150m~

160mもの高さで聳え立ち,美しい

モスグリーンのドーム屋根を持つ

クリーム色の壮麗なモスク。

セクティール大統領が1960年に建立。

1984年にサウジアラビアにより

修復されたそうです。

今回の旅行の4国は写真が撮れない

建物が多くあり残念ですがここはOK

 

 

この日は大統領が官邸に滞在していて

近くの博物館や観光は入って行けず

モスクは離れていたので観光出来た。

教会内

 

 

 

 

コナクリの講師の月収は2万円弱

(2024年)年収20万円に満たない

一般市民は1万円少し・・

ステンドグラス

バス西アフリカ最大のモスクで

グランドモスク

ギニアは国民の85%がイスラム教を

信仰する国でこのモスクはギニアで

重要な宗教的・文化的ランドマークで

あり社会で重要な役割を果たしている。

西アフリカ最大のモスク

12000人を収容できる礼拝所があり

1984年にサウジアラビアの寄付で

建てられたものを2023年12月

サウジアラビアが再度多額の寄付

リノベーションされたばかりだそう。

グランドモスクはサモリトゥーレと

彼の曾孫セクトゥーレ(初代大統領)の

零行がありサウード家での

アブドゥルアジス王(サウジアラビア)

の資金提供で1984年に完成した。

一度に男性4000人,女性1800人,

外で12000人が礼拝出来るそう。

 

 

 

↓天井・ドーム

礼拝所

イスラム文字

 

↓中庭

2階は女性用の礼拝室

2階から見る大広間

 

グランドモスクを見学後,外に出ると

屋根がある座れる休憩場がいくつもあり

ギニアは11月30℃前後,朝晩は10~15℃

バスで移動マディナ(市場)へ

市場の中へ入ります。床は物で散乱

綺麗と言えない市場・昔の駅

列車が当時のままで置いてあった。

 

↓列車の駅が市場になってました。

この格好,いつもひらひらスカートが

好きだけど,今回一番TPOが合ってるかな

整備士みたい・自分でも笑ってしまう・・

写真は嫌がる人がいるので聞いてから

これ落とさず商売してるのですから

何と言う根性かバランスの良さ

この旅行の西アフリカはまだまだ観光化

されておらず,旅行社も少なく大型バスも

ない。このバスならいい方でした。

バス市場を観光して昼食のレストランへ

前菜

 

メーンはチキンか牛肉ナイフとフォーク

デザートはフルーツスプーンフォーク

昼食を終えてバス観光へ

写真を撮ってはいけない所が多いので

いい見所の写真が少ないです。

着いたのは首都コナクリの人民宮殿

コナクリの象徴的建物・イベント用の

複合施設・中国人が建てた建物

 

民族衣装を見た女性

この日は結婚式の前の集まりみたいな

事をやっていて民族衣装を着た女性が

 

結婚式の前日のパーティだそう

 

 

 

 

キャンプ・ボイロをバスの中から見る

仏の植民地化の際に造られた憲兵隊

収容所で,その後・軍事収容所をなった。

「1960年に改装したこの収容所で、食事は初めて

収監された9日間はまったく提供しておらず,

朝にマッチする急なパン彫刻,夕方には汚れた水

に炊いた米飯など以外はほとんど食べ物が

与えられておらず,劣悪な衛生状態で囚人達は

きちんと治療も受けられなかった。さらに,

この収容所では裁判のない超法的な処刑も多く

囚人が一度入ると,収容所の外では誰も彼を

見たり聞いたりする事が出来ず,入った人も

生きていく事が殆どなくこの収容所の中でのみ

5千人が死亡したと推定される。」

バスバスで説明を聞いて写真が撮れないので

その後,バスから降り次の見学をする為

バスから降りて歩いていたら,私達のバスが

警察に止められて何か因縁をつけられていた。

きっとお金を要求されるんだろうなと推測して

いたらその通りだった。アフリカあるあるです

この国いえ、アフリカの途上国はチップとマネー

を何回も要求される事がある。まだ途上国なので

仕方ないのかも知れないけどうんざりな所もある。

他社のギニアツアーのブログを読んでたら

1日3回警察に因縁をつけられお金を要求された話が

書かれていたから,観光客にはいつもこうなんだ

ろうと思いました。

その後,西アフリカ最大のマーケットへ

マディナという地区にあるこちらの

市場がこれまた西アフリカの中

最も大きいマーケット。凄い人と車の

混みようで人の目と混雑で写真も余り

撮れず,ついていくだけで精一杯でした。

迷子になったら大変なので必死で

ついていく・・

何故か道には靴がいっぱい敷き詰める

様に捨ててるの舗装の代わりにしてる

のか沢山の靴が道に埋っていました。

この後,路地に入ってもぎっしりのお店

ギニアではパーニュと呼ばれる独特な

デザインのがとても有名。マディナ

市場ではパーニュや市場ならではの

野菜や果物,日用品が並んでいました。

マーケットを観光してバススーパーへ

 ギニアつづく・・・