こんにちは、のら印です。
京都を起点とする旧街道をたどってみようと思います。
三条大橋は、江戸時代に東海道五十三次の西の起点とされた橋です。
まだ改装中でしたが、新しい木の香りを放っていました。
後方に、これから越えていく東山を望みます。
橋の西よりにある銅製の擬宝珠には、幕末の池田屋事件のさいについたのではとも言われる刀傷が残っていたりもします。
橋の東詰めでは、勤王思想家であった高山彦九郎さんが、御所を遥拝しています。
土下座をしているわけではありません。
高山像の右手後方に見える建物は、1869(明治2)年に開校した元有済小学校です。
屋上に、人々に太鼓で時刻を知らせた木造の望楼が、小さく見えます。
今も、遠く明治のはじめから、太鼓の時報が響いてくるような気がします。
三条通を東へ進むと、一部には昔ながらの建物も残っています。
こちらは、「千鳥酢」で知られる村山造酢さんの裏手です。
創業は、江戸享保年間だそうですが、この醸造蔵?はいつ頃のものでしょうか。
東大路通をすぎると、すぐに古川町商店街のアーケードに出会います。
雰囲気のある商店街ですが、道幅は近ごろの商店街よりも狭いように感じます。
アーケード商店街となるのはもちろん後のことですが、通りそのものの歴史は古く、1762(宝暦2)年の『京町鑑』には「最古の若狭街道也」と記されているようです。
狭い道幅は、昔の若狭街道のままなのかもしれません。
きっと江戸時代のこの場所は、東海道を東からやってくる人や物資と、鯖街道として日本海側からくる人や物資とが行きかう、にぎやかな交差点だったのでしょう。
商店街を過ぎると、白砂の川底と河畔の柳が美しい白川を渡ります。
白川橋のたもとに、道標があります。
「三条通白川」「是よりひだり ちおんいん ぎおん きよ水みち」と書かれています。
裏側の面には、延宝6年(1678年)と記されており、京都に現存する最古の道標のようです。
近くには、新しいものですが、こんな石柱もありました。
坂本龍馬の結婚式場跡とありますが、この地が青蓮院の塔頭金蔵寺跡であり、ここで龍馬がお龍さんと内祝言をあげたということのようですね。
まもなく、粟田神社の一ノ鳥居の前にさしかかります。
旧東海道は、この粟田神社のところでは、少し三条通をはなれて南へと迂回していたようです。
少し奥に入ったところにある、二ノ鳥居前の細い道が旧街道のようです。
ルートが、この神社のところだけ迂回しているのは、東海道を通る人々が必ず立ち寄る場所だったということなのでしょう。
粟田神社は京の東の出入口にあるため、東へ往く人は旅の安全を願い、東から来た人は無事に到着できたことを感謝したのではないでしょうか。
道は、再び広い三条道に合流します。
九条山の日岡(ひのおか)峠にむけて、少しずつ登り始めます。
右側にあるウエスティン都ホテル京都の前あたりから、勾配がきつくなり始めます。
ここが蹴上(けあげ)です。
この発電所は、琵琶湖疎水の水力を利用し、日本で初めて一般に供給するための発電を行ったところです。
1891(明治24)年に運転を開始し、発電された電気は京都の街灯や電気鉄道などに用いられて、京都の近代化に大きく貢献したと言われています。
現在も残るこの建物は、1912(明治45)年に完成した第2期のものとのことです。
蹴上の坂を進むと、今度は「ねじりまんぽ」とよばれる、珍しい名前の煉瓦造トンネルに出会います。
「まんぽ」とはトンネルを意味します。
琵琶湖疎水を通って大津から物資を運んできた船は、ここで高低差があるため、インクラインという装置をつかい、陸上を台車に載せて運ばれていました。
そのインクラインの下につくられた通行用のトンネルが「ねじりまんぽ」です。
上部には、「雄観奇想」と北垣国道知事が揮ごうした扁額があります。
インクラインの重量に耐えられるよう、内部の煉瓦は斜めに、ねじるように組まれています。
まもなくすると、左手に日向大神宮の鳥居があります。
この神社もまた、東海道を通る人々が道中の安全を祈願する場所として、多くの参詣者を集めたようです。
「京のお伊勢さん」とよばれ、伊勢神宮同様に内宮や下宮、そして天の岩戸も備えているわけですから、ぬけ参りが流行した江戸時代に大にぎわいしたことは、容易に想像できますよね。
三条通から横道にそれますが、日向大神宮を少し登っていくと、琵琶湖疎水第3トンネルの出口と、その前に小さいながらも瀟洒な煉瓦造の建物が見えます。
旧御所水道ポンプ室です。
ポンプ室とは思えないこの建築は、明治建築三大巨匠のひとり片山東熊が設計しています。
アーチ窓が並び、珍しい屋根部分に設置されたバルコニー、明りとりのドーマー窓。
美しさが凝縮されているように感じます。
その北側には、インクラインの装置も置かれています。
トンネルを抜けてきた船は、このように台車に載せられて、ぐんと低い次の疎水までレールの上を運ばれていました。
そして、このすぐ近くに、「蹴上」の名前の由来を伝える場所があります。
『異本義経記』によると、平安時代の末期に、鞍馬山から奥州へと向かう途中の源義経が、行く手から来た平家一団の乗る馬が蹴り上げた泥水によって衣服を汚されたため、怒って9人を切り殺したとのことです。
源平合戦に続く流れがあるとはいえ、ずいぶん乱暴な話が「蹴上」の由来となっているようです。
このまま東海道は、急坂を登ります。
さあ次は、最初の難所、日岡峠越えです。