集中が切れたサムノムは床を拭く手を止めた。


ーきた…これがチャン内官が言ってた事だ…きっと…ー


「違うといえば嘘になります…」

 サムノムはワザと声を落とし自嘲気味に答える。

「最も思い浮かぶのは?」

 問われて、この間まで自由に過ごしていた街を思い出し、思わず笑みがこぼれた。

「ガヤガヤした雲従街(ウンジョンガ)…もうもうと湯気が上がった餅…楽しい催し物……全てです」

 懐かしそうに語るサムノムにヨンはキラリと目を光らせる。

「……王宮はしては成らない事ばかりで……」


「そうだな…自由に生きてきた者にはさぞ窮屈だろう」


 ヨンの声にはあからさまな同情が含まれていた。


「はい…我々は外出も制限されていますし…」
 サムノムは不満そうに口を尖らせる。
「かわいそうに…っ」
 わざとらしい声に内心笑いながら床拭きを再開する。

 ヨンは ここだ ! と、読んでいた本を閉じると身を乗り出した。


「出かける支度をせよ! 私が王宮の外に連れ出してやる!」


「誠ですか?!」


 目を輝かせたサムノムにヨンは満足そうに頷く。


ーチョロいもんだ(笑)ー


「これ程までに!……チャン内官から伺っていた話通りとは…っ」

 呆れた様に言うサムノムにヨンは内心舌打ちをする。


ーチッ やはり言い含められていたか…ー


「決してなりませんっ。 世子様の口車に乗って一緒に外に出たりしたら酷い目に遭うと! …念を押されましたのでっ」


「わーかった! もういい!」


ーくそう…これでは前より厄介ではないか!ー


 今更サムノムに世子の威厳など通用しない。

 

 仕方ない。


 この手だけは使いたくなかったが、背に腹はかえられない。


「あ!……ああ……腹が………」


 ヨンはお腹を押さえて蹲る。


 それを見たサムノムは呆れて体を起こした。


「まさか…腹痛を訴えるおつもりではありませんよね」


「………………」

 完全に読まれている。


 が、引くに引けずヨンは三文芝居を続けようとガクッと膝をついた。


「いやいや…まさか花世子様が…そんな事は……」
 なまじ親しくしていたせいか、ヨンの性格をある程度把握しているサムノムはこれまでのどの内官よりも強敵だった。
 サムノムを懐柔するのは無理だと悟ったヨンは作戦を変更せざるを得なくなり、がばっと体を起こす。

「書庫に参る! 書物を持ってついて参れ!」

 頭の中で次の作戦を考えながら立ち上がりサムノムに指示を出す。


ーもっと融通の利く奴かと思っていたのに…!ー


 先に立って歩き出したヨンを見送りサムノムは笑った。
 ヨンはやっぱりヨンだ。

 身分が変わっても、着ている官衣が変わっても中身は変わらない。


 それが嬉しかった。



***



 急いで外に出たヨンは書庫に向かう途中で自分と身長や体格が似ている新入りの内官を1人捕まえた。


 書庫の一番奥へと連れて行く。


「あ、あの世子様…?」

 戸惑う新入りの内官の官衣を脱がせると御衣と交換する。

「よいか…」

 そして、その内官に秘密裏に指示を出した。




「世子様ー?」

 ヨンの後を追って書庫に入ってきたサムノムから身を隠し、新人内官とともに本棚の奥から様子を伺う。

「ある書物を探して欲しいのだ」

「探し物ですか?」

「そうだ。 茶が溢れて字の滲んだ書物がこの中に一冊だけあるはずなのだが、どうにも題名が思い出せないのだ」

「ええー?! この中から?!!」
「どうしても必要な書物なのだ」

「分かりました。 題名思い出したら教えて下さいよ」

「分かってる!」

 書物を探し始めたサムノムを尻目に新人内官に目を向ける。

「必ず指示通りにせよ。 分かったな?」

 密やかな声で念を押すと新人内官も緊張した面持ちで頷く。


「そうだ…この書物を胸に抱えておけ(笑)」


 新入りの内官に一冊の書物を渡すと、そぉっと書庫を出て行くヨン。


 探し始めてから小半刻、サムノムは本棚の隙間からヨンに声をかけた。

「世子様ー。ひと通り見ましたがお探しの書物はありません」

 言いながらヨンに近づいていく。

「まだ題名を思い出せませんか? “茶が溢れて字が滲んだ”という手掛かりだけでは、こんな書物の山からは探せませんよ!」

 背を向けて黙って立っているヨンを見上げる。


「お応え下さい!」


 しばしの間の後、クルッと振り向いた顔はヨンではなかった。


「……?!…??!」


「  “2人でいる時は今まで通り友として接して構わぬ、いや、そうしろ”」


 棒読みの台詞を吐いているのは同期の内官パク・ソンヨルだった。


 胸に抱えている様言われた書物はヨンが袞竜の刺繍を隠すのに用いた物だ。


  無駄に演出が細かい。


「な、何の真似だ! なぜ、お前が御衣を着ている?!」
「私も知ら~ん! 世子様にこう言えと言われて…」
 ソンヨルはヨンの帽子を取りながら答える。
「は……! 信じらんない…そこまでする?! 開いた口が塞がらない…」
「何? 開いた口が塞がらない? ホン内官! 今すぐ医者の元へ行け!」
 再び帽子を被ってふざけるソンヨルにサムノムは怒りを向ける。
「ふざけている場合か?! この! 今すぐ御衣を脱げ! 世子様の外出を許したら罰を受けるんだぞ!!」
「そんな事言ったって世子様の命に逆らえるわけないだろ~(涙)」
 御衣を脱がされながら訴えるソンヨルに仕方ないとは思いつつも、ヨンに出し抜かれた事に腹が立つサムノムだった。