西アフリカの旅9日目の続き。
実は、塔状の泥の家タキエンタに住むトーゴ北部からベナンにかけてのアタコラ山地のバタマリバ族の人たちは、かつて裸で暮していた裸族だったという。
そのあたりのことは元国立民族学博物館教授で文化人類学者である和田正平氏の「裸体人類学・裸族からみた西欧文化」(中公新書)に詳しいが、同書によれば、アタコラ山地に住むタンベルマの人々は男女ともほぼ全裸で暮していて、それは彼らだけでなく、1950年代まではトーゴ北部諸族の常態だったと考えられるという。
今回の旅に同行してくれたガイドさんも、ここの人々は西暦2000年近くまでほぼ裸で生活していたと解説してくれた。
彼らこそが人類最後の裸族、との説もあるほどだ。
アフリカ大陸では、サバンナで牛の群れを飼育している遊牧民も、田畑を耕す農耕民も、長い裸族時代があったが、トーゴやベナンの辺境地帯ではつい最近まで裸で暮らすスタイルが当たり前だったようだ。
さすがに今は、大人はみんな衣服を着ているが、子どもは裸が多い。
なぜ裸かといえば、そのほうが暮しやすいからにほかならない。
なぜ人は衣服を着るかといえば、冬の寒さとか、気候や環境への適応のために衣服を着るようになったのだろう。だが、熱帯に住んでいる人にとって衣服は必要ない。
サハラ以南のアフリカ人が衣服を着用するようになったのはそれほど昔のことではなく、綿花がアフリカに伝えられるようになった11世紀以降との説がある。
東アフリカではキリスト教の強い影響を受けて衣服の着用が始まったが、西アフリカの場合はイスラム教の影響が強いといわれる。
裸を非常に忌み嫌う宗教がイスラム教であり、とくに女性は、素顔を公衆にさらすことさえタブー視される。このため、裸族文化の世界だったアフリカにおいて、イスラム化とは、まず何よりも衣服の着用を意味していた、と説く学者もいる。
やがて黒人諸王国の王侯貴族が綿織物で着飾るようになったが、それでも当初は、衣服の着用は権威をあらわすためのものであり、しかも綿布は貴重だったので宮廷に伺候する者でもせいぜい腰布を巻くぐらいで、ましてや一般の人は裸であり、いわんや王国と無縁な森林やサバンナに住む大多数の部族民は長い間、完全な裸族だったといわれる。
何しろ熱帯の住民たちは、衣服がなくても自分たちは「太陽と空気を着ている」という意識を持っていた。同じ熱帯のニューギニアには、そういった意味の常套句があるという。
「自分たちは決して何も着てないのではない。自然を着ている」と思っているのかもしれない。
アフリカの王様が権威の象徴として身にまとうようになったのも、もともとはまじないから始まったのではないだろうか。きらびやかな衣服は、相手をひざまずかせる魔力を持っていたのだ。
性器を丸出しにしている裸族でも、まったくの素っ裸かというとそうではなく、頭飾りとか耳飾りとか体のどこかに飾りをつけたり、あるいは腰に紐を巻いたりしていたという。衣服の起源とは、実はそのあたりにあるのかもしれない。
インドの先住民ヴェッダ族は、結婚期に入ると男は未来の妻の腰に紐を結びつけるという。これは結びののろいであって、相手を縛りつけるために行うという。結びとは本来、呪術の一方法であり、そこから衣服が始まったとの説もあるらしい。
(そういえば日本でも、紐は男と女の間を結んでいるというので呪術的意味で使われていて、万葉集などにも紐で結ばれた男女の恋が多く歌われている)
飾りではなくても、体に傷をつけてそれを装飾というか身分を示す代わりにすることもあったらしい。
今回の旅では、体に傷痕模様を残している人を見た。
ベナンのタタソンバで出会った少年の顔。
よく見ると、まるで畳で昼寝したあとのような細い線の模様が施されていた。
これはどこの種族かを表す意味があるという。
生まれるとすぐにつけられるらしいが、裸で暮らす彼らだからこそ、すぐにわかる標識として施されたものなのだろう。
このように見ていくと、アフリカの人々が派手な原色の衣服を着る理由も、何だかわかるような気がしてくる。
寒いところで暮らす人々が、寒さをしのぐため、必要に迫られて着るのが衣服であり、そこからだんだんファッションとしての美しさに目覚めていったのと違って、別に衣服など必要としない地域で人々が衣服を着るのは、最初から自分を着飾り、アピールするためのファッションとして始まったのかもしれない。
だからなのか、今回の旅で目を奪われたのが、女も男も、着ている服の色鮮やかさだった。
しかも、デザインがまた、どれもすばらしい。
ところで、アフリカへの衣服の伝播については興味深い話がある。
東アフリカの布と西アフリカの布とではルーツが違うというのだ。
東アフリカのタンザニアやケニアなどで使われている民族衣装や生活用の綿布に「カンガ」がある。もともとインドから伝わったもので、植民地時代にポルトガルやフランスがもたらした布を、東アフリカの女性たちが創意工夫してつくり上げたのがカンガだった。
一方、西アフリカには伝統的なろうけつ染めの技法を使ったワックス・プリントがもたらされた。これは、遠く離れたインドネシアの伝統的な染物の手法をオランダが持ち込んだことが由来とされている。
17世紀中ごろ、オランダは東インド会社を通じて南アフリカや東南アジアに進出していった。その過程で、オランダは植民地であったインドネシアのジャワ島で発達していた伝統工芸品の更紗(ジャワ更紗)のろうけつ染め技法に目をつけ、オランダ独自のろうけつ染め技術を開発。植民地であった西アフリカ諸国にろうけつ染めの生地を輸出するとたちまち人気となり、今日のアフリカン・プリントに至ったのだという。
ジャワ更紗はバティックともいわれ、どちらも同じ意味だが、バティックはジャワ語でろうけつ染めを意味する。
更紗とは一般的に、鮮やかな色彩で繊細な模様が描かれた木綿の染色布のことをいう。その起源は古く、紀元前3世紀ごろにはインドで木綿の栽培および染織が始められていたといわれている。インドで生まれた更紗は西へ東へ、世界中に運ばれてそれぞれの地域で独自の更紗を生むことになる。
インドネシアではバティックの名前で知られるジャワ更紗となり、中国では中国更紗、日本では和更紗、沖縄に伝わって紅型となった。
紅型とアフリカン・プリントの色合い・デザインの何と似ていることか!
ジャワで生まれたろうけつ染めが、東は日本にまで、西はアフリカにまで伝わって、女性たち(男性も)のファッションに貢献している。
文化とはこうして伝播していくものだと思うと感慨深い。