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弔いのカタチ

少子高齢化により「弔い」が多様化する時代。お墓、葬儀、終活の新たな在り方、人々の葛藤をお伝えします。

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弔いのカタチ

「体力、気力の限界」明治学院の礎築いた、会津藩士の墓じまい

井深梶之助の墓があった東京都立青山霊園の跡地。背景に六本木ヒルズがそびえる=東京都港区で2021年8月撮影、親族の伊藤三千子さん提供
井深梶之助の墓があった東京都立青山霊園の跡地。背景に六本木ヒルズがそびえる=東京都港区で2021年8月撮影、親族の伊藤三千子さん提供

 東京都港区の一等地にある都立青山霊園。六本木ヒルズを望む一角に、ぽっかりと空き地が広がっていた。

 ここには「2代目総理」として学校法人明治学院(港区)の基礎を築いた旧会津藩士、井深梶之助(いぶか・かじのすけ)(1854~1940年)の墓が3年前まであった。

 梶之助のひ孫、伊藤三千子さん(71)が40年以上にわたって管理してきた。

 「家は継がなくても、お墓は見てほしい」

 梶之助の孫にあたる母、井深幸子さんからの言いつけを結婚後も守った。

 しかし、「体力、気力の限界」を感じた伊藤さんは「墓じまい」を決断。すると、梶之助をしのぶ地を残したい明治学院側との話し合いの末、予想外の「着地点」にたどりつくことになった――。

 弔いが多様化する時代。お墓、葬儀、終活の新たなあり方、人々の葛藤をお伝えします
 <主な内容>
・「八重」と戦った戊辰戦争
・「やっと楽になるね」
・「別の形」で残せないか
・お墓なくても語り継げる
泉鏡花の墓石が霊園から消えた… 歴史的著名人の「墓じまい」相次ぐ【https://mainichi.jp/articles/20240709/k00/00m/040/042000c】
 次回は7月17日に公開予定です
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「八重」と共に戦った戊辰戦争

 梶之助は数奇な運命をたどった人物だ。

 会津藩(福島県)に生まれ、14歳のときに戊辰(ぼしん)戦争に遭遇。藩主のそば…

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