五十にして天命を知ることができるか,よく分からない
このところ暇とか周囲の流動性が災いしてか,今のように漫然と仕事を続けていてどうなるんだろうかと悩む.悩むと居場所を変えてみようかとなるし,そういう誘惑もあるにはあるのだが,もう少し考えを進めると居場所を変えれば目標が生まれるのだろうかと思い至る.
然るに立ち止まって悩む暇があるのも恵まれた立場ではなかろうか.正気を忘れるほどの矛盾も,葛藤も,不幸も,他者の悪意もそこにはなく,悩んで他に進む道がありそうな程度に,潰しが効いているということだ.それは充分に恵まれた立場であって,次に行った先でその程度に恵まれていたとしても,似たような悩みを抱えるのだろう.
違うところに行ったら行ったで,まずは周囲を理解し,人脈を広め,組織の目的と自分の目標とを揃えることから始まる.溶け込むのに数ヶ月かかるし,地盤が固まるには何年もかかる.そしてうまくいったとしても,また目標を見失いはしないだろうか.
論えば身の回りに問題も矛盾も山ほどある.そういったものを理由に立ち去るべきだろうか.何らかの綻びはどこに行ったところであるに決まっている.今,目の前にある問題や矛盾から目を背けて立ち去った自分が,居場所を変えたからといって何をできるというのか.また安定した途端,ちょっと逆境に陥った途端,漫ろ神に誘われるのではないか.
確かに居場所を変えれば,もっと生産的に自分が関与して物事を動かし,或る種の充実感を味わえる可能性もある.くだらない社内政治よりも,いま打ち込むべき生産的な仕事が転がっているかも知れない.そうでないかも知れない.踏み止まるのと,見切りをつけるのと,どちらが正しいか.後付けで色々いえるが,結局のところ運でしかない.
キャリアパスとかキャリアプランというと,誰もが確たる目標を持っていることを暗黙の前提としている.けれども自分も含めて多くの人が,今の自分に何ができて,努力して自分に何ができるようになるかなんてことは,分からない.色々と試して,手応えのあったことを深掘りするより他ないのである.後から振り返って,努力せずとも体得できたもの,いくら努力しても手に入らなかったことが分かるのである.
然るに五十にして天命を知るという言葉は言葉に沁みる.自分が何をすべきかとか,したのかということは,もうこれ以上伸びることが難しくなったときに初めて確定できるのだろう.だとすれば,今の居場所で目標を見出せないからといって,小さなリセットをかけても,また何度も煮詰まるたびにリセットをかけることになるかも知れない.
自由とか選択肢はなければ渇望するのが人間だけれども,あればあったでうろたえてしまうのも人間である気がする.「三十にして立つ」というが,来年の自分は今ごろもう少しは頼りになっているのだろうか.ちょっと不安だ.