正しい答えよりも、正しい問い
私は、小さい頃から問題を解くことが好きだった。そのため解釈によって答えが複数になってしまう国語よりも、算数や数学を好んだ。解法はいくらもあれど、答えは決まって1つしかないからだ。
その影響は、今の仕事に対する取り組み方にも反映されている。
- 解法を探すこと(検索)
- 1つの公式に当てはめて解き続け、こなし続けること(効率)
これまでがむしゃらに吸収しよう、学ぼうと思い、好奇心の向くまま、向上心のむくままに取り組んできた。しかし、これから先にもう一歩も二歩も前に駆け上がるには、それだけでは到達しないのではないかと考えるようになった。
解くことは誰でもできる
なぜなら、問いを解くことは誰でもできるからだ。解法だって綺麗である必要もない。類推でもいいし、変数xに0から順に数字を代入して計算し続けてもいい。学力関係なく、問いに対して諦めなければ、人は必ず「正しい答え」に辿り着くものだからだ。
一方で、正しい問いを提示することは誰もが出来ることではない。いや、出来るのかもしれないが、その担い手になろうとする人は極端に少ない。さらには、問題提起が得意な起業家や政治家でも、その問いの正しさを証明できたのは一握りしかいない。
正しい問いを見つけるには
それは、「自身で仮説を立て、問題提起し、答え(結果)を出す」という一連のサイクルを、「あなたは正しかった」と言われるまで、繰り返し続けることなのではないだろうか。当然、知識や技術も必要だろうが、何よりも「思い込み」「根気」「覚悟」「勇気」が必要不可欠なのは間違いないだろう。
かつて、トーマス・エジソンは言った。この姿勢が、正しい問いを導く最良の方法なのかもしれない。
I have not failed. I’ve just found 10,000 ways that won’t work.
今の時代は、エジソンの時代より多くのデータや情報を世界中から手に入れることができる。そのため、正しい問いを証明するまでに10,000通りの時間や労力は必要ないのかもしれない。足りない技術も仲間で補い合うことができるだろう。
正しい問いとは、あなた自身が「思い込み」「根気」「覚悟」「勇気」を、いずれも欠けることなく、それらを抱き、取り組み続けた先にしかないのだ。