柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)は面白い。『ゲンロン17』の旧ユーゴ特集の東浩紀の論考の参考文献として挙げられていて、ユーゴの歴史を前提知識として知る為に読み始めたのだが、1300年代にまで遡り、またオスマン帝国とハプスブルク帝国の間にあって、南スラヴとしての民族意識を、宗教や来歴が異なりながらも培っていく様は、複雑にして、その複雑さが、この地域の特徴をよく示している。なので、注意深く、地図と照らし合わせて読まないと、その変遷はよく理解できない。流し読みができないところが、こうした歴史本の醍醐味でもある。
時代は丁度「サラエヴォ事件」の箇所に差し掛かった。サラエヴォという地名は、中高の世界史で「サラエヴォ事件」という歴史語句を通じて知った地名だ。
ある年代にとっては、サラエヴォ・オリンピックのほうが名高いそうだ。そのオリンピック自体も、東西冷戦下にあってとても看過できぬ出来事であることが、当該書でも後に記されるのだろう。
健康診断でBMI、血圧、尿酸値等が高めだったので、食事に加えて運動もいよいよ生活に取り入れなければならなくなった。
正直言って、運動は大嫌いだ。スポーツを楽しいと思ったこともない。出来たら日がな一日寝ていたい。
しかし、そうしたエモーショナルなものでは、もはや見過ごせないところまできている。このまま放っておけば、身体がぼろぼろになり、動くこともままならなくなる可能性も高くなる。そうした可能性を少しでも下げるため、つまりは、健康で文化的な生活をできるだけ長く続けるという大目標のために、自身の感情を殺し、運動習慣という小目標を達成するのだ。凡そ多くの結果を出している人物は、そうして事を成してきた。自分の身体は、自分という存在とは決して切り離せぬものだ。しかし、同時に自分のものでありながら、自分にはままならぬものでもある。身体は最も身近な他者なのだ。そうしたことを改めて強く感じる。それがきっと年齢を重ねるということなのだろう。つまりは老いだ。老いとは、自分の身体の他者性を意識しだすことである。誰にでも訪れる健康の問題について、否応なくそんなふうに考えるこの頃。
小説は引き続きシルヴィア・プラス『ベル・ジャー』(晶文社)を読む。精神を崩した憂鬱症の一人称で書かれる小説は、一人称の記述で冷静さを保っているように思えるものの、実際行われている行為は、幻覚や幻聴の描写であったり、自傷、自殺の試みであったりと、カタストロフの予兆を次第に帯び始めている。