くじらいさんの以下の記事を読んで考えたことを書きます。
いきなりですが、本記事では以下を前提とします。まあまあ強めの仮定ではあるけれど、いったん飲み込んでください。
- フィクション作品を鑑賞しているとき、われわれはそこから読み取れる情報を非可逆に圧縮しつづけながら「理解」している
- 非可逆であるのは、たいていのフィクション作品は意味論的に稠密だからというのもあるけど、基本的には人間の認知・記憶資源1の問題によるもの
- 具体的な圧縮手法としては、自然的/社会的な因果を利用した物語としての理解や、「作者のメッセージ」だったり典型的な関係性(「百合」とか)への落とし込み、描写される情景と現実の対応(指示。そのまま覚えなくとも参照関係だけ覚えていればよいので圧縮にはなる)の利用、論理による演繹、視覚的イメージの想像2などが挙げられる
- 「ひとことでまとめられるなら作品なんて作っていない」という常套句はむろん正しいのだが、それはそれとして、われわれの限界としてそのように鑑賞するしかない。常に目の前に知覚されるものだけを味わう姿勢もあるが、直接相対しての鑑賞体験すべてをそれで尽くすのさえ難しい場合がほとんどであろうし、なんなら鑑賞が終わったあとの内省などについても説明できないとおもわれるため、ここでは措く
そのうえで本記事は、「奇想作品」を「特有の手法によって情報の圧縮を困難にすることで鑑賞者に理解のハードルを設け、その理解の過程におもしろみを感じさせるような作品群」と考えてみることを提案します。もちろん、ここでポイントとなるのは「特定の手法」がなにかということでしょう。この限定がない場合、「(なんらかの意味で)わかりづらい作品」というものがすべて「奇想」になってしまうからです(それでもいいというラディカルな姿勢もあるかもしれませんが、いったんやめておきましょう)。
というわけで以降では、この「特定の手法」がどんなものかということについて、前掲のくじらいさんの記事の助けも借りながら、自分の考えるところを言葉にできないか、やってみることにします。
まずは、前掲のくじらいさんの記事の内容のうち、本記事に関連のあるところだけまとめておきます。けっこうシンプル……なはずです(めちゃくちゃズレてたらすみません)。
- 奇想、つまり「奇妙な発想」とはどのような発想なのか
- 日常において「当然とされていること」から離れた発想
- なぜ奇妙な発想がおもしろいのか
- 日常において「当然とされていること」で割り切れない不合理さが日常に潜んでいることにわれわれは気付いており、不安にも思っているが、一方それに魅力を感じてしまう性向があるから。あるいは、その不合理という緊張が緩和されたときにおもしろみを感じる性向があるから
- くじらい記事のおもしろさはこれを「狂気」とつなげて論じるところにあるのだけれど(なのでここに採り上げたポイントはおもしろさをあえて無視しているとさえいえるのだけど)、以降では採り上げない
シンプルではあるのですが、正直すこしもどかしさを感じることは否めません。それは記事末尾にもあるとおり、基準を設けることの権力性に配慮しているからこそなのでしょう。とはいえそれでも、たんに「日常からの逸脱」というだけでは、「奇想」のおもしろさをとらえるには網の目が粗すぎるように、どうしても感じてしまうのです。たとえば「殺人」ひとつとったって、世の中のそれなりに多数の人間(自分も含む)の日常にとっては「逸脱」に感じることでしょう。けれど、それだけではふつう「奇想」とはおもわない。
というわけでここでは、これらを修正するというよりは、新しい視点をつけくわえることを目指したいのです。より限定してみたいとなったときの一つの尺度の提案、といった温度感。もしこれを取り込むならば「奇想的な作品」の外延もくじらいさんのそれと異なってくることになるのですが、それはまあ、それでもいいんじゃないかな。
そして冒頭にも書いたとおり、その提案というのが「特有の手法によって情報の圧縮を困難にすることで鑑賞者に理解のハードルを設け、その理解の過程におもしろみを感じさせるような作品群」ととらえることなのでした。これは実際、「特有の手法」の制限を排してしまえば、くじらい記事における「奇想」の特徴づけから導かれることと言えるかもしれません。「当然とされていること」から離れていることにより、より理解が困難になるのはおおむね確かであろうと考えられるからです(もちろん逆に、「単にわかりづらいだけ」みたいなのを紛れ込ませてしまうという問題があることもすでに述べたとおりですが)。
とはいえやはり「特有の手法」について、仮にでも内実を与えようとしなければ意義が生まれませんね。これが難しいんだけど……ヒントも見えてきました。その手法はおそらく、「日常からの逸脱」となんらかの関係があるのだろうということです。
ではたとえば、こんなのはどうでしょうか。「日常にみられる自然的法則または論理的規則からの逸脱を示す手法」とか。つまり、「日常にみられる自然的法則または論理的規則からの逸脱を示す手法によって情報の圧縮を困難にすることで鑑賞者に理解のハードルを設け、その理解の過程におもしろみを感じさせるような作品群」。日常的な法則性を援用して情報を圧縮できないから理解もしづらい、けれどそれを理解しようとするのがおもしろい、そんな作品……というのは、どうでしょうか、なんだかイメージに合っていたりしませんか?
……いや、嘘やね。正直これではぜんぜん不満です。たとえば、あまりに多くのSFやファンタジー作品がここに含まれてしまう。SFやファンタジーってものはけっこうな割合で「日常にみられる自然的法則」から逸脱しているさまが描かれている。そういうのも好きなのだけど、ここで言いたいのはそのことじゃありません。論理法則からの逸脱についてもそう。あまりに野放図な不条理も含めてしまうことになりそうだけれど、それでよいのでしょうか。どうもよくない、ような気がします。
解決策を考えてみましょう。まず、前者の「SFやファンタジーのあまりに多くが含まれてしまう」という問題について。思い付くのは、SFにせよファンタジーにせよ、多くの場合ジャンルという準拠枠があることです。SFであればおそらく自然科学的なスタイルで説明できるであろう、ファンタジーであればおそらく過去に積み重ねられた神話等々で説明できるであろう、みたいな。そう考えれば、「情報の圧縮を困難にする」というほどのものではない3。どうにかこのへんのニュアンスを取り込めるとよさそうです。
後者の「あまりに野放図な不条理も含まれてしまう」という問題についてはどうでしょうか。こちらの場合は、そもそも(真の乱数列が圧縮できないのとおなじように)そもそも「圧縮して理解する」ことを拒むんだから、それは「難しくする」とは別だよ……という言い方ができるかもしれない。それこそ「常に目の前に知覚されるものだけを味わう姿勢」で挑む、あるいはフネスのように完全に記憶するしかないものでありそうだ。つまり、そもそも上記の記述にははじめから含まれていなかったと言っていいかもしれませんね。
では結局、そこにあるのはなんなのか。「作品に内在的なロジック」といってしまうとなんだか胡乱だし、これはこれでなんとでも取り扱えてしまう表現なのだけど……「これはどこか法則性がありそうではある、きっとある、けれど、既存の知識や法則や論理の応用だけではうまく説明できない」という状況をつくるような手法。なんなら、くじらい記事の「緊張の緩和」の話もここに取り込めるのかもしれません。ロジックはある、あるように見える、それを探求するのがおもしろいし、仮に答えを出してみて不合理にフタをしてみられれば緩和する。でもそれでいいのかな? いややっぱ不安もあるな……。そういう状況をつくりだす手法。
「日常にみられる法則性、および、それに対する二階の把握戦略からの逸脱」とか?うーん。
……というところで、時間がきてしまいました。「日常にみられる法則性、および、それに対する二階の把握戦略からの逸脱を示す手法により情報の圧縮を困難にすることで鑑賞者に理解のハードルを設け、その理解の過程におもしろみを感じさせるような作品群」。今日のところはこれでいいことにしますが、あんまりうまくありませんね……。
以下、盛り込めなかったトピックについて。
驚きが探求を生むんやでみたいなことを言った(らしい)パースにあやかるわけじゃないけれど、不安を埋めること、怖いものみたさといった消極的なとらえかただけじゃなく、縮減させてやろうという探求心と、縮減してみろやという制作者との戦い(そしてどうしても合理化できない残余のそれはそれでのおもしろさ)として積極的にみることができるのかもしれない。というか、そもそも「理解のおもしろさ」をピックアップしたことについて今回まったく説明していないのだが、基本的にはこのへんの発想がもとなので、むしろこっちを先に説明しようとしてみるべきだったかもしれない。
没論理についてももうちょっと踏み込みたい。たとえば、「四角い三角形」と書くことはかんたんだけど、それを想像するのはむずかしいこと。それでも「四角い三角形」と書くだけで、文字どおり「四角い三角形」を立ち現わさせてしまえること。これだけだと野放図な不条理ではあるけれど、そうならないものを組み立ててみることはできそうで、それは「奇想」になりそう。……というと言語表現を特権視しているようにみえるかもしれないが、逆もありえて、たとえばゲームならできる、映画ならできる奇想というものは似たようなかたちであるとおもう。言語の場合は良くも悪くも統語論的に分節化されてるってのはあるわけだし。
おわりです。
- かなりざっくりした意味合いで使ってる。ほんとはこのあたりはもうすこしちゃんとしたほうがいい。あと、「意味論的に稠密」というのはグッドマンのあれです。↩
- 場合によってはこれにより情報量が増えることも考えられるし、なんならそういった「想像を膨らませられること」が作品の評価につながりさえするのだけれど、今回の話とは関係ない。あるいは、圧縮による認知的な余裕ができるからこそそういうことができる、とは言えるかもしれない。↩
- もちろんいずれの場合もそうでない作品があることは承知していますが、なんならそれこそを「奇想」と呼んでもよいのではないか。そういういみではどうしてもジャンルに対して周縁的なものであらざるをえないのかもしれない。↩