Am Amp インタビュー|4人組ジャンルレスバンドの成り立ちと目指す場所

ロックバンドAm Ampが12月3日に初のCDシングル「ミス」をリリースした。

Am Ampは須賀京介(Vo, G)、宮城紘大(Dr)、矢沢もとはる(B)、JOHN(G)の4人組。舞台俳優やヴィジュアル系バンドなど、メンバーがそれぞれ異なる分野のエンタテインメントをバックグラウンドに持つ“ジャンルレスバンド”だ。2023年に現在の体制になったAm Ampだが、いったいどのように始動し、この4人がともに音楽を鳴らすことになったのだろうか。音楽ナタリーではAm Ampの4人にインタビューし、バンドの成り立ちを掘り下げつつ、ニューシングル「ミス」について話を聞いた。

取材・文 / 西廣智一撮影 / はぎひさこ

The Beatlesと同じ4人組バンドを組みたかった

──音楽ナタリー初登場ということで、まずはAm Ampの成り立ちから聞かせてください。このバンドは2022年、須賀さんが1人でスタートさせたんですよね?

須賀京介(Vo) はい。バンド自体は16歳の頃からずっとやっていて、大学時代も馴染みのライブハウス界隈の仲間と続けていたんですけど、そのあとは会社の経営や役者活動にシフトしていくことになって。いろいろやらせていただく中、「もう一度バンドを組みたい」という夢を捨てきれずにいたので、25歳ぐらいから準備をしていたんですけど、タイミングがなかなか合わず、2022年までズルズル引っ張ってしまったんです。それで、曲作りからミックス、マスタリングまでの作業を全部1人でやる“都内・一人組バンド”と銘打って、とりあえず曲を出してしまったのがAm Ampの始まりでした。

須賀京介(Vo)

須賀京介(Vo)

──そこまで自分1人で完結させられたのに、バンドにこだわった理由は?

須賀 昨今、すべて1人でやられているクリエイターさんやアーティストさんも多いと思うんですけど、やっぱり僕はバンドが好きで音楽を始めた身分なので、単純に仲間が欲しかったんです。もともとThe Beatlesがルーツにあって、4人組バンドこそが自分の中では至高というか、そこが原点で。もちろん、3人でも5人でも6人でも、バンドを組めたら幸せではあったんですけど、最終的にはThe Beatlesと同じ4人組バンドを組むことができた。そこに関しては感無量ですね。

──メンバーの皆さんはキャリアやキャラクター含め個性的ですが、それぞれどのような経緯でバンドに参加することになったのでしょうか?

須賀 まず最初に仲間に加わったのが、ドラムの宮城紘大。彼との出会いは5年前、僕が舞台活動を始めた頃のことで、初めて出演した作品の主演であり座長が宮城だったんです。それから付き合いが続いていたんですけど、彼が芸能活動を引退すると宣言した時期がありまして。彼は僕の1つ年下ですけど、役者としては先輩なのでずっとリスペクトしていましたし、こんなに信頼できる人間を引退させてしまうのはもったいないなと。それに、彼に対する恩を今の自分なら返せるんじゃないかということで、どうにか復帰できないかと微力なから手伝わせてもらいました。

──それがAm Ampのドラマーとしての起用だったと。

須賀 バンドメンバーを選ぶ基準において、僕はまず人間性を重視したんですが、そう考えたらなおさら彼しかいないなと思って。それで銀座の喫茶店に呼び出して、「一緒にバンドやらない?」と口説きました(笑)。

宮城紘大(Dr) 学生時代に軽音部でドラムをやっていたんですけど、部活でやっていた程度だったので、そんな自分に声をかけるなんて正直気が触れているなと思いましたよ(笑)。ただ、京ちゃん(須賀)からナムクリエイションという芸能事務所を立ち上げると聞かされたときに、8年続けた役者活動を引退したものの、心のどこかにあった「裏方でもいいから、この世界に携わっていたい」という思いが浮かび上がってきて。あとで「どんな仕事でもいいから、もう一度エンタメに携わりたい!」と本音を伝えたんです。僕自身も彼の性格は知っていたし、部活でやってましたレベルの人間を誘うほどこの世界を甘く見てないだろうというのもわかっていたうえで「自分のことを信じていてくれる」と確信して、引き受けることにしました。

宮城紘大(Dr)

宮城紘大(Dr)

──その時点では、ライブハウスシーンとの接点もなかったわけですよね。

宮城 もちろん。ライブハウスに行ったこともなかったので本当に何もわかっていなかったけど、彼の期待にだけは絶対に応えたくて。そんな僕にできることと言ったら、誰よりもスタジオに入ってドラムと向き合うことだなと思い、ひたすら練習を続けました。

選択を迫られた大事な時期に彼らと出会えた

須賀 宮城の次に声をかけたのが、ベースの矢沢もとはる。僕は18歳から20歳くらいまでの2年間、ヴィジュアル系バンド界隈にいた時期があったんですが、そのときに対バンや共通のミュージシャンとのつながりで知り合ったのが矢沢で、もう12年くらいの仲になります。実は25歳のときにもバンドをもう一度始めたいと思って動こうとしたことがあって、そのときも彼を誘っているんです。

矢沢もとはる(B) ちょうど僕が当時在籍していたマイナス人生オーケストラというバンドの解散が決まっていて、そのときは最後の日までバンドをやり切ることしか頭になかったので「ちょっとほかのことは考えられません」とお誘いを断ったんです。一緒に映画を観に行ったりとか、須賀さんからはいろんなアプローチを受けました。

須賀 7、8回誘ったんですけど、全部断られました(笑)。当時「ボヘミアン・ラプソディ」というQueenの伝記映画が公開されていまして。「これを観てバンドをやりたいと思わないやつはいないだろ?」と思い、2人分のチケットを取って、飲みものも買って臨んだんですよ。

矢沢 でも、僕は観終わってすぐ「バイバイ」と別れて(笑)。そういうベタな誘い方からひと工夫した誘い方までいろいろあったけど、バンドが解散するまでの間に須賀さんは舞台が決まったので、その話は自然消滅したんです。

須賀 その舞台で宮城と出会うことになるので、今思えばあの選択は間違いじゃなかったんですよね。

矢沢 それから3年くらい経った頃に、彼が突然Am Ampを始めて。その前後もちょこちょこ会ったりはしていたんですけど、1st EP(2022年8月リリースの「miteyo」)の楽曲のミュージックビデオを観て「なんでここに自分がいないのか」と急に違和感を覚えたんです。「絶対に僕がここに入ったほうがいいのに」と直感で思ったので、須賀さんからお電話をいただいたときに「そろそろ電話が来る頃かなと思ってました」と答えました。

矢沢もとはる(B)

矢沢もとはる(B)

須賀 2023年になって、再びダメ元で電話してみたら「待ってました」と二つ返事で。それ以前に音源を聴いてくれて「いいですね」みたいなことは言ってくれていたので、手応えはあったんですけどね。

──で、最後にJOHNさんに声をかけたと。

須賀 宮城と矢沢に関してはこれまでのつながりから声をかけましたが、ギタリストに関しては知人とかいろいろ聞き回って、気になる人を実際にライブで観てみようと。それで宮城と2人で一発目に観に行ったライブでギターを弾いていたのが彼。

JOHN(G) 当時、女の子ボーカルのバンドにサポートで参加していたんですけど、そのライブを観に来てくれて。スカウトっていうんですかね、そこで声をかけていただいたんですけど、僕はそれまでたくさんのバンドで解散や活動休止を経験してきたから、正直最初は「もうパーマネントでバンドをやる気が起きないな」と思っていたんです。ただ、あの日は体調を崩していて、後日インフルエンザを発症してしまって。ライブ後もお誘いの連絡がたくさんあったんですけど、「今インフルなんて無理です」みたいな返事を繰り返していました(笑)。最初はどんな人かも本当にわからなくて一瞬「怪しいな」と疑いを持っていたんですけど、しっかり熱意を持って話をしていただいて。そこで自分の考えがだんだんと変わっていって、「じゃあやりましょう」とポジティブに受け入れることができました。

JOHN(G)

JOHN(G)

須賀 本当に初見でピンときて、彼を見てしまったらほかを探す気になれなかったんです。これまでの自分の人生において、選択を迫られた大事な時期に彼らと出会えてバンドを組めたことは、僕にとってもAm Ampにとっても大きなターニングポイントだったと思います。

──人間性や人との縁を大切にした結果、この4人が結び付いたと。

須賀 そうですね。JOHNに関してはプレイ要素の比重が大きかったですけど、この1年ちょっと一緒に活動してきて、彼の好きなところがどんどん見つかっている最中です。それぞれ全然違う活動をしてきて、今はAm Ampという家みたいな場所とこの4人が、細くとも強い1本の糸でつながっているんじゃないかなと信じて活動しております。