2-31.薔薇と剣〈上〉
帝都バグダードの人々のこと
帝都バグダード包囲戦
防衛側――二万五千の上帝直属軍
攻撃側――三万のホラーサーン軍
交戦期間――攻撃側が包囲を完了して一ヶ月、総攻撃開始からは十日
帝都バグダードの大円城――その防衛施設
堀――三重の同心円状である城の外周部をとりまき、幅二十五ガズ
外城――基部の厚さ二十ガズ、高さ十二ガズ
主城――基部の厚さ五十ガズ、高さ三十四ガズ
内城――基部の厚さ九ガズ、高さ八ガズ
円塔――連携して互いに守り合う城壁の塔、その数百十三
包囲戦終了後
炎上した塔の数五十六
北西部「シリア門」ついで北東部「ホラーサーン門」より城壁大破
城壁強襲による防御側死者一万名余、攻撃側死者六千名余
結果――攻撃側勝利
上帝ダーマード一世、市民に扮して落ちのびる途中で討たれる。
ホラーサーン公アーディル、入城し、上帝アーディルを名乗って玉座につく
● ● ● ● ●
「筆がない。だれか貸してくれ」
「くず入れに何本も上等のやつが捨てられているだろう。その筆を拾え」
「あんな見ているだけで胸がむかつくものはこの先の生涯、決して使わん」
そろそろ正午になろうという時刻、イスファハーン公イブン・ムラードは、文書庁で部下の書記官たちの妙な会話を耳にしている。
父の死によって急きょ公位を継ぎはしたが、もともとかれは宮廷内で書記長を勤めていた。
帝都が落城してよりまだ二日、仕事はいくらでもあった。死んだ帝ダーマードの名における文書を新帝の名に変えてあらたに発行するだけでも悲惨な量である。
……勝者のホラーサーン軍が都市のそこかしこで狼藉をはたらいている状況であれば、書記官たちも仕事どころではない。
だがあいにく、〈剣〉の軍の綱紀厳正なること、兵個人の盗みひとつも起こらないほどであった。どころか治安を守る兵を街角に配置し、残りはいまだ都市外に野営して傷病兵の治療に専念している有様である。戦の狂躁にとりつかれて押し込みや殺人、強姦に走ったならず者は、かえって守備兵や一般市民のほうに多く湧いた。これらの犯人たちは現在ホラーサーン軍によって裁かれ、手や陰茎や生皮などの肉片が広場に晒されている。
これが遊牧部族の寄せ集めとして悪名高いサマルカンド公家軍であれば、都市を攻め落としたあとは景気づけとして略奪強姦を兵に推奨するくらいだが……しかし、通常は都市陥落後というと、どちらかといえばサマルカンド公家軍のふるまいのほうが普通なのである。
ともかく常軌を逸したホラーサーン軍の規律のおかげで、市内はまずまず平和、どころか陥落前より鎮まっていた。各政庁の官僚たちは〈剣〉に服従を誓わせられたあと、心置きなく仕事に戻り……戦後処理に忙殺させられているわけである。
「変なこだわりはやめろ。あの筆はまだ新しいのだろうが。買ったときはさすが東方舶来の品、指に心地よい持ち具合だと自慢していたくせに」
「こだわらずにいられるか。あれがこの帝都を落としたんだぞ」
「落としたのは〈剣〉だ。竹の筆じゃない」
会話を耳に受けながらイブン・ムラードは筆を走らせている。膨大な雑務を部下に任せ、かれが書いているのは戦いの記録であった。
“いまになって実感するところ、みなが伯父の軍を見くびっていた”
だれもが帝都はすぐは落ちぬと信じた理由のひとつには、攻め手のホラーサーン軍に攻城用の大型兵器がないことがあった。
投石機、城壁からの矢を防ぐ大盾、城壁に矢を浴びせる攻城やぐら――こうした兵器がたとえあっても、バグダードを守る三重の城壁、相互に守り合う百十三もの数の円塔、物資をじゅうぶんに蓄積した倉庫、それらに支えられた二万五千人の守備兵を倒すことは決して簡単ではない。いわんや攻城兵器を欠くならば、と楽観を抱いていたのだ。
そうとも、攻城兵器をすぐ大規模に用意できるはずがない。いかにホラーサーン軍がバグダードに沿うティグリス・ユーフラテスの両大河の下流を押さえたといっても、その流域は木が極端に少ない不毛の地である。そして家々はレンガと泥で造られている。大型兵器を急造するために必要な物資のひとつが「木材」だが、それを集めにくい状況ではどうしようもない。
またバグダード側も、帝都包囲戦に先立って痛みを伴う英断を下していた。河口の港を奪われたとき帝都まで避難してきていた船を、軍船民間船問わずありったけ下流に送り出し、川床に沈めた。これはホラーサーン軍の輸送船の遡上を妨害するものであった。
仮にホラーサーン軍が船を分解するなりどうにかして木材を確保できたとしても、陸上輸送で重い木材を運んでくるならばそれだけ時間がかかる。攻城兵器を組み立てる手間はいうまでもない。
時間は稼げたはずであった。
“その胸算用にもかかわらず、上をいかれた”
そこで手を止め、イブン・ムラードはくず入れに目をやり、そこに捨てられた何本もの筆を思った――大陸を渡ってこの国に入ってきた、とある素材を柄に使った筆。
“シンドの竹の存在はだれもが知っていた。
それでいながら、愚かにも筆の柄のしゃれた材料くらいにしか認識していなかった、この目でホラーサーン軍の竹の使い方を見るまでは。
建築資材としてはきわめて粗悪と聞いていたものが、戦場で使い捨てとなるとレンガや木材より役に立つとは思わなかったのだ”
ホラーサーン公家は以前から、河口の交易都市バスラに奇妙なものを交易船で送ってきていた。
シンドから運んだ竹という見慣れぬ資材――それを収めた倉庫ごとバスラをホラーサーン軍に奪われたことが帝都の命運を決してしまった。
現在、バグダード郊外の、煙がくすぶる城壁沿いには、在るはずのない攻城やぐらやはしごが並んでいる。
竹製の。
“包囲戦中に調べたところでは、東の国々では、竹は戦の重要な物資だという。
わが帝国に入ってくるのはほとんどが小さな工芸品であったゆえに、戦に使えるものだという知識がなかった。それが、自領が東に接しているため東方の戦を知る〈剣〉に遅れを取ったゆえんであった”
帝国の東のシンドという地に生える植物、竹は、どうやら同じ強度ならば木材よりもはるかに軽く、かさが少ないらしい。ゆえに木材を竹で代用すると、輸送の負荷は大幅に軽減され、輸送速度は格段に増すのだという。
さらに重要なことに、竹ならば攻城兵器を即席で造れた。なにしろ、適当な長さに切って革ひもで固くくくるだけでも即用しうる資材であった。ましてホラーサーン軍のジン兵の多くは良質な工兵を兼ねる。いずれもその長い寿命と訓練ゆえに、人族であれば熟練者と呼べる程度の腕を持つにいたった者たちである。城壁上の防衛側の眼前で、恐るべき速度で大盾や攻城やぐらやはしごが組み立てられた。完成品に鉄板や獣皮などほかの素材を組み合わせて防御力の倍加作業まで手早くほどこされる様は、防衛側に最初の絶望感をもたらした。
“しかし口惜しい。乱が起きて早いうちに、われらはホラーサーン公家名義の倉庫をすべて接収するか火をかけたはずだった。
にもかかわらず都市バスラにはホラーサーン軍が海路で運んできた竹が大量に残っていた。
内通者がいて、そやつら名義の倉庫にも蔵されていた可能性がある。この反逆が以前から計画されていたことは明白である”
具体的に、“サマルカンド公家には注意せねば”と名指しして書くべきかと考え、イブン・ムラードはけっきょくやめた。
“いっそバスラを急襲されたとき、あの港町のすべてを焼くべきであった。
そうしておかなかったために、竹によってわれらが焼かれた”
竹を利用した新兵器さえも投入されていた。
「水槍」と呼ばれる、それはシンドよりさらに東にあるという国の器械であった。太い竹の節をぬいて長筒をつくり、これに押しポンプをつけて水を撃ち出す。もとは消火用具であるというそれは、つまるところ巨大な水鉄砲であり、簡単な原理ながら大力のジン兵が扱えばかなりの飛距離を持つ。
ホラーサーン軍は短期間で大量に製造したそれに、帝国の地に古来より湧くナフサ、すなわち燃える水を組み合わせた。やぐらの上にまで「水槍」を載せて連日連夜、城壁や塔の上にナフサを浴びせかけ、つづいて火矢をうちこんだのである。
ナフサをかけられると、石の城壁でさえしばらく燃えるのだ。
防衛側からもむろん竹の攻城やぐらや「水槍」めがけて嵐のように火矢が集中したが、ホラーサーン軍が兵器に貼った牛や羊の生皮は炎を防いでしまった。城壁上からの投石機による反撃や熱湯浴びせは一定の成果をあげたが、大型兵器を破壊しても兵士をどれだけ殺傷しても、ホラーサーン軍はひるむ色もなく、兵器を新造し陣容を立てなおして強襲を繰り返してきたのだ。
終盤には、風上の方角である北の城壁に敵の攻撃は集中した。周辺の塔群を炎で沈黙させられてしばらくしてから、轟音とともに破城槌のような何かが北西の門、次いで北東の門を突き崩し、それが包囲戦の終わりとなったのである。
“北風に乗って燃える水のしぶきと火矢が深く届き、夜も昼も炎が城壁を焦がす。その黒煙と火の影にまぎれて、あらゆるところからはしごが城壁に立てかけられる。その次にはホラーサーン軍のジン兵が手を使わず駆け上がる勢いではしごをよじ登ってくる。城壁の上のバグダード防衛軍は消火と迎撃を同時に行わねばならず……”
そこまで書いたとき、礼拝の肉声が高らかに響き渡った。
(正午の礼拝の時刻か)
イブン・ムラードは書きかけの記録をふところに入れ、文書庁を退出することにした。
だれも声をかけてこないのは、かれの近寄りがたい雰囲気のゆえである。
かれは以前は父親と同じくふっくらした面立ちを持ち、温和な人柄と評されるジンであった。だがイブン・ムラードがイスファハーン公を襲名して以来、その顔は見る影もなく頬が削げ、極端に目付きが鋭くなっている。
こうして退出する際も部下たちが声をかけるのをためらうほどに。
帝都を落としたかれの伯父に顔が似てきたと言われるほどに。
内心が険悪なのも事実であった。理由はもちろん、となりの礼拝堂から響く朗々たる唱和である――といってもイブン・ムラードが神を敬わぬからではない。
「唯一なる神と預言者とスルターン・アーディルの御名において。御代に永遠なる栄えあれ」
ただ、この礼拝の新句がひたすら耳障りなのだった。「スルターン・アーディルの御名において」の部分だ。市内の礼拝堂では昨日から、まもなく即位式を行う新帝への言祝ぎを礼拝時に流すようになっている。
聞きたくないし、ともに唱和する気はもっとない。玉座の間において昨日行われた仇敵への忠誠の誓いだけでたくさんだった。
(だが、それは甘いのだろうな。明日からは率先して唱和に参加するくらいでなければ。
これからは〈剣〉の忠臣のような顔をせねばならぬのだから)
帝都バグダードの中央部には美しい樹木が生い茂る。木々のこずえのはざまに宮殿や礼拝堂や庁舎の屋根が見える、緑あふれる敷地である。その森のなかをイブン・ムラードは足を止めず進んだ。
木の陰から硬質の澄んだ声をかけられる瞬間まで。
「悪夢であり茶番ですわね、イスファハーン公?」
「ライラ様」
イブン・ムラードは向き直り、うやうやしくその先の上帝ダーマードの娘に頭を下げた。ライラは薄い服のすそと長い白銀色の髪をなびかせ、婚約者であるイブン・ムラードに優雅に歩み寄ってきた。
優雅なのは足取りだけで、美姫の口調も表情もたっぷりの毒がこもっていたけれども。
「なにが永遠なる栄えでしょうね。
簒奪者めの御代が今日明日にも終わることを神に祈っておりますわ、わたくし」
「一部の廷臣や聖職者を情けないと憤っておりますか」
「こぞって勝者に媚びへつらう様を示す者たちをなぜ唾棄せずにおれましょう。下民ならばいざ知らず、一度でも君の禄を食んだ高官ならば、せめて節度を示し、沈黙を保ってしかるべきではないでしょうか」
歯噛みしながらライラはイブン・ムラードの服の胸に手のひらを添えてきた。
「イスファハーン公、昨日の玉座の間でのことは聞きましたわ。
なんでも、簒奪者アーディルみずからが即位式を簡略化して行えと命じたそうではないですか。そこへ廷臣の一部が『日を待ち、典礼にのっとって、アーディル様の格にふさわしい荘厳な式をあげるべきでございます』などとおもねったと。本当のことですか?」
本当どころではない。口にしたのはイブン・ムラード自身であった。察するところ、ライラはそれを知っているようである。彼女は激憤を隠そうともしなかった。
「それが真実なら、もとよりの簒奪者陣営も及ばぬほど簒奪者を持ち上げようとする勢いではありませぬか。
アーディルめが『勅はすでに下した。以後、すぐ実行にかかろうとせぬ者は斬刑とする』とその者を黙らせたと聞いたときは、わたくし、不本意にも気分がすっきりいたしました――いかがでしょう、この本末転倒。これを茶番といわずなんというのでしょうか」
「すこし声を落としてください。
……われらは帝都に残り〈剣〉に降った身でございます。われらはわが伯父の機嫌を損ねぬよう振舞わねばなりませぬ。どこでだれが聞いているか知れぬのですから、このような会話は」
「あなたがそうでも、わたくしはかれらと同じではないわ。降ってここにいるわけではありませぬ。
……とはいっても誇れたことではありませんわね。落ちのびる途中で捕らえられて引き戻されたのですから。兄や弟妹たちまで捕まらなかったのは幸いですけれど」
「ご子息方を別々に移動させるようはからったダーマード様の叡慮のたまものでございます。ライラ様は今回は武運に恵まれませなんだが、そのぶん他のごきょうだいの方々に運を振り分けたと思し召せ」
「そうはいっても帝の子らのうち、ただひとり捕虜となった屈辱はぬぐいがたいのです。それもホラーサーン将のうち、よりによって人族のカーヴルトの軍などに捕らわれるなんて!
ふふ、鈍な女と笑うならば笑うがよろしいわ」
「まさか、そのような。誰もライラ様をそのようには思っておりません」
「いいえ。現に簒奪者めは監視を付けることすらせずわたくしを放置しております!
念入りに確かめましたけどいませんのよ、監視。これってわたくしを侮っている証だと思いませんこと?」
あなたに見つかるほどホラーサーン兵の監視が甘くないだけでは――イブン・ムラードはひそかに困惑した。
たしかに帝都を占領してよりこっち、ホラーサーン軍の監視網は奇妙なほどに薄い。市内の要所に兵を置いてはいるが、要人拘束はしないのだ。ライラの話と合致する状況だが、イブン・ムラードの胸にはかえって疑心がつのっていた。
(油断はできない。泳がされているだけとも考えられる。いずれにせよ、これ以上彼女に話しかけられるのは困るな)
どうすればこの感情をむき出しに絡んでくる婚約者をやんわりと追い払えるだろうか。かれが本気で頭を痛めだしたとき、ライラが顔を寄せてきた。ひそめられた妙なる声音がかぐわしい柔息にのってつむがれる。
「本当のことをおっしゃって。
あとから考えてみて理解しましたのよ。長い準備期間を必要とする豪壮な即位式を行おうと簒奪者に進言したのは、簒奪者の軍の足を一日でも止めようとしたからでしょう? あなたたちはまだお父様の忠臣のはずだわ」
「……ライラ様」
「そうだと言ってください、イスファハーン公。
わたくしは、自分の婚約者が、お父上である先代イスファハーン公の仇を討つ気概もなくしてしまった惰弱者と思いたくはありませんわ。
お父様を殺されてわたくしは理解しました。血の復讐を求める衝動というものを……あなたはわたくしと同じ立場のはずだわ」
ライラのとび色の瞳に怒り、悲哀、懇願の色が千々に乱れて浮かんでくる。
「それとも、あなたはほんとうに簒奪者の足元にひれ伏してしまったの? そうならばわたくしの敵意をこのまま簒奪者に告げなさい。わたくしは殺される覚悟はできております。
おっしゃってくださいな。どちらなのですか」
言葉はどこまでも勝ち気であったが、父親を殺された姫の声音は震えていた。おそらくは不安を解消するため味方を確保したいのだろうな、とイブン・ムラードは推測した。それならば婚約者にそれを求めるのは普通だといえる。もとが愛情ゆえの婚約ではなかったにせよ。
そうと悟りながらもイブン・ムラードは顔をそむけ、そっけなくきびすを返した。
「じっとしておいでなさい、ライラ様。わが伯父は疑いようもなく苛烈なジンですが、かつての背信帝ムタワッキルではない。捕虜として相応にふるまうかぎりあなたの身は安全であり、礼節は守られるでしょう。
失礼します」
やんわりとなどと虫のいいことを考えず、ライラを傷つけようともさっさと離れるべきであったと悔やみながら遠ざかる。
かれは上帝の居所である金門宮を目指す。裏門前の大理石の階段をのぼり、雪花石膏のアーチ路の下をくぐり抜けて、門番に扉を開けてもらう。
先導の侍従のあとに付いてたどり着いたのは金門宮の一室、宮内長官の部屋であった。
「遅くなりました、閣下」
「いや、ちょうどだよ。座りなさい……いかん、間違えた。君がいまや宮廷序列でも私より上だということを忘れてしまう」
火鉢のそばの椅子に座ってなにやら紙を見ていた長官は、顔を上げて苦笑した。
「どうぞ向かいの席に、イスファハーン公。
それと、この部屋は音が洩れぬように造られている。なにを話すも自由というやつだよ」
「それでこそ気心の知れた友と気兼ねなく語れるというものです」
イブン・ムラードが座るやいなや、宮内長官は手にしていた紙をかれに見せた。素早く目を通したイブン・ムラードの頬がゆるむ。
「ほう……ムンズィルからの生存連絡ですか。しぶといやつだ」
御佩刀持ちのムンズィルは近衛隊の一人であり、イブン・ムラードの旧友であった。長官がうなずいた。
「かれは市内に潜伏している。かれを含めるといまのところ、心を一にした同志は十二人といったところだ。宮廷内では六人。大宰相や財務長官もわれわれの同志だ。時間をかければもっと増えるだろう。君も信頼できる者に声をかけてみてはどうか」
そう言われてライラのことが一瞬頭に浮かんだが、
「あまり増やすのは考えものです。ばれる危険がそれだけ高まります」
手にしていたムンズィルの手紙をぐしゃっと握りつぶし、おのれの“妖火”をもって手のなかで灰に変える。イブン・ムラードは灰を火鉢に放りこんで手を払った。
(もしこの〈剣〉に対する陰謀が明るみに出れば、われわれの生皮がまとめて晒されることになる。ライラ様を引きこむ必要はない)
「そうか……〈剣〉を暗殺するという誘惑に抗しがたい気分なのだがな。十二人ではあやつに対して心もとなかろう? ムンズィルや君が手練の妖士といえども、な。だからもっと仲間を集めたいのだよ」
そう言われ、イブン・ムラードは片眉をあげた。
「人数がいてもできないでしょう、そんなことは。ホラーサーン兵があやつの身辺を固く守っているのでは」
「そうでもない。一昨日から見ていたが、〈剣〉には意外なほど隙が多いぞ。
やつはよほど腰の双刀を振るう腕に自信があるのか、衛士もホラーサーン軍の側近も置いていない。いまのところは」
たしかに誘惑的な情報であった。イブン・ムラードの血がにわかに沸き立つ。
以前の金門宮の防衛態勢は崩壊している。近衛隊のほとんどが戦死するか散らばったためである。
〈剣〉が玉座を奪ってより数日、当然のごとく近衛隊の抜けた穴はホラーサーン兵が埋めるものと考えていたが、そうでないとなれば……
イブン・ムラードは考えこんだ。難しいところだ。〈剣〉がしばしば護衛を遠ざけるというのは、みずからも強者であるがゆえの驕りのあらわれであろう。だが、
(本当にそれを驕りといってすませられるのか。仲間全員が返り討ちにされる可能性が大いにある)
可能性どころか、理屈ではない部分でイブン・ムラードは確信している。
十二人が百人であったとしても、伯父に刃を向ければ確実に殺されるだろう、と。
(暗殺の成功がおぼつかないならば、やはり地道に〈剣〉に対する闘争を進めていくべきではないか。
そうだ、まだ〈剣〉は完全な勝利をおさめてはいない。ヒジャーズ公家やサマルカンド公家は無傷であるし、ダマスカス公家も当主を失っただけで軍は健在だ。
それら〈剣〉の敵に内部情報を流すことをはじめ、バグダードからやれることはいくらでもある)
腕を組んで考えこむイブン・ムラードを長官は見つめていたが、やがて「まあ、よい」と言った。
「暗殺についてはゆっくり考えることにしよう。
難しいことはわかっている。こと武に関するかぎりは、軍の長としても個人としても、〈剣〉はとうにこの国の頂点にいた男であったからな」
「だからといって上帝として適格とは思いませんが」
そう言いながらもイブン・ムラードは心中で相手の言を認めた。認めざるを得ない。
なんとなれば間近で見たこのたびの包囲戦こそは、大陸規模の戦いであったからだ。
東西を融合させた――他国の新素材とさらに他国の新技術を帝国のナフサと組み合わせた新兵器を投入した。大陸交易の十字路であるファールス帝国ならではの戦術であった。
(やはり、〈剣〉をいますぐにも殺すことを試みるべきだろうか? かれの失策を根気よく待っても無駄かもしれない)
イブン・ムラードの迷いを見ぬいたように長官が言葉を添えた。
「〈剣〉はおそらく帝都をすぐに出ていくだろう。即位式を早く終わらせようとしているし、明らかにこの都を軽視している。われわれへの監視の甘さは驚くほどだ。
暗殺を決意するなら早いうちに心を決めることだな」
ホラーサーン軍の要人監視がゆるい――ライラと宮内長官の意見が一致している。
イブン・ムラードは「……いま思い出しましたが」と話を変えた。
「ライラ様のことですが、冷静さを失っておられるようです。先ほどそこでダーマード様への忠誠を確認されましたが」
「君も声をかけられたか」宮内長官が微妙な表情をした。
「ええ。あれは困ります。われらの先帝への忠誠は言うまでもないことですが、それを外で軽々しく公言していい状況ではないというのに。それも、精神を乱してどこで何を口走るかわからぬ小娘を安心させてやるためなどに」
「正しいが、そこまでは言わなくてよいな」
「……そのとおりです。口が過ぎました。
とにかく、彼女が思い余ればどんな行動に出るか予想がつきません。余計なことをせぬよう、気分が落ち着くまでこちらで保護しておくべきやも」
「そうだな、やむをえない。今日のうちに手配しよう……しかし、理解してやってほしい。
ダーマード様を討たれ、きょうだいたちとは引き離されてまだ三日なのだ。おいたわしいことだ」
宮内長官は深々と嘆息し、自身も父と兄弟を失ったイブン・ムラードの心の傷を知らず刺激した。“あなたはわたくしと同じ立場”よみがえるライラの声を、イブン・ムラードは目を閉じてやり過ごそうとした。
そのとき部屋の扉が乱打された。
あわや浮きかけた腰を沈め、とっさに二人は平静をつくろった。
扉を開けてほっとしたことには、それは金門宮内の同志のひとりであった。
「肝が冷えたぞ。走ってきたようだな。なにがあった」
「この程度で冷えたなどと言いなさるな。ライラ様が玉座の間に槍をひっさげて乗りこみました。百官の前で〈剣〉に刃をつきつけ、反逆の罪状を事細かに糺しているところです」