2-33.薔薇と剣〈下〉
暗雲と曙光それぞれの頭上に入り乱れ
第二幕これにて終わりを告げること
早朝――
伝令兵のジンをかたわらに連れ、ファリザードはテヘラーンの市壁の上から自軍を見下ろした。
諸侯の連れてきた軍は集められて立たされ、ごちゃごちゃと乱雑に固まっている。彼女を見上げる目には不満があり、行く先への怯えがあり、全体的にあきらめがあった。
どこへ行こうがどうせ負ける、と兵たちの顔には書いてある。
秩序も士気も崩壊寸前の惨憺たる軍――それがこの四万の軍だった。
……ぱっと見にも明らかな人数の目減り具合からして、実数はすでに三万を切っているのではないかと思われた。
「帝都バグダードが落とされ、上帝ダーマードが討たれ、新イスファハーン公イブン・ムラードも処刑された」という噂が、二日前に街道を伝って入ってきた。
そのわずか二日間で、イスファハーン公家軍の縮小はとどまるところを知らなくなっている。
最初に離脱したのは傭兵たちだった。次に徴兵された市民兵たちの脱走が相次いだ。
(最後には諸侯たちが離反しはじめる)
その兆しはすでに見えている。都市ダームガーンの領主、都市ダスケラの領主、都市アリアバードの領主……かれらはファリザードに対し、自領地への帰還願いを出してきていた。
(バグダード陥落は、こちら側が立てた戦略をひっくり返してしまった)
下唇を噛み締める――だがすぐ決然と顔を上げた。
(いまは泣いてはいられない)
長兄イブン・ムラードの死の報は彼女を打ちのめした。
だが、それで終わりとしてはならない。彼女の戦も復讐も、始まったばかりなのだ。
泣いて赤くなった目はすぐには戻らないが、ファリザードは表情から弱気を可能なかぎりぬぐい去って話し始めた。
「噂は事実だ。バグダードは落ちた。
最後に残ったイスファハーン公家の嫡流は、兄エラムとこのわたしだけとなった。
反逆者アーディルはおのれが新帝であると宣している」
彼女のそばにいる伝令兵が彼女の言葉を大声で繰りかえす。軍内に配置されたほかの伝令兵たちが復唱してつぎつぎ軍の後方へと広めていく。
すでにだれもが聞き知っていた噂ではあるが、それをファリザードが公式に認めたことで、全軍に横たわる絶望の影がいちだんと濃くなった。
しかし――
「わたしは伯父を正当な帝とは認めない。あの男は反逆者にすぎない。
わたしたちは正義の軍だ。
戦いは継続する。そして勝つ」
ファリザードの続けた言葉が伝わるにしたがい、戸惑いのざわめきが眼下で起こる。兵の顔には憐憫と失笑がかなりの割合で浮かんでいたが、ファリザードはそれを無視した。
「聞くがいい。反逆者アーディルからは、帝国におけるすべての地位が剥奪される。
五公家のひとつホラーサーン公家の当主の地位もそうだ」
彼女にはささやかな切り札があった。
彼女みずからも刺繍針を通した……使う状況にならないことを望んでいた切り札が。
「あの旗を上げろ」
彼女の命令に、旗を立てる塔に取りついていたジン兵たちが作業にとりかかった。ほどなくして、一辺が二ガズほどの大きな旗が高々と上がる。
その赤地の旗に浮かぶ紋様は、集まった兵たちの目を惹きつけた。
イスファハーン公家の家紋である、金糸で刺繍されて燦然とかがやく“黄金の薔薇”――のみならず、黒糸刺繍の“黒い双剣”の紋章が、一つの旗のうちにある。
それは“薔薇と剣”の旗だった。
「わたしと兄たちを産んだ母は、ホラーサーン公家の出……アーディルの妹だ。
すなわち、〈剣〉ことアーディルがその地位を剥奪されたいま、ホラーサーン公位はわたしたち兄弟の誰かが継ぐ。われらが生得の権利として。
残った最後の兄エラムは、イスファハーン公を襲名する。
それならば、ホラーサーン公位を継ぐのは消去法で一人しかいない」
いつのまにか、兵のだれもが笑いを止めている。
ファリザードは話しながら腕を広げた。
「わたしだ。わたしは唯一の神の御手の定めたまうところにより、ホラーサーン公位を得た。
今日のこの場で宣言する。
わたしファリザード・ビント・ムラード・シャムス・ベン・イスハーク=アル・イスファハーニーは、これより正当なるホラーサーン女公なりと!」
動揺が全軍に走るのがよく見えた。
当然だった。後戻りのきかない宣戦布告であるからだ。〈剣〉の登極を否定し、ホラーサーン公位を奪い、真っ向から〈剣〉に挑戦する名乗りだからだ。兵たちの顔はいまや戦慄に引きつっている。
……だが、溜飲を下げたような表情もところどころに混じり、それはじわじわと多くの兵に広がっていた。
(やはり少しは効果がある)
奪われたことで士気が下落したならば、
奪うことで士気を高揚させることもできるのだ。
(伯父上……この公位はあなたがわたしに与えたのだ)
上帝ダーマードや兄イブン・ムラードが生きていれば、この公位継承のことはおいそれとは言い出せなかった。上位者たる帝や兄君たちを差し置いて出すぎた真似だとされただろうから。
けれど、皮肉にも〈剣〉がその障害を取り去ってしまった。
(あなたはわたしの大切な者たちと、玉座を奪った。
だからわたしもあなたから奪う。まずあなたの公位を。そして)
「ホラーサーン女公の権限をもって、あなたがたに確約する。
伯父を打倒したあかつきには、わたしに最後までついてきてくれた者たちには、可能なかぎりの栄華を与えると。ホラーサーン公領の広大な土地と山のような宝物を、あなたがたに分け与えると。
富を欲する者には金銀宝石を与えよう。地位を欲する者は子孫まで貴族に列しよう。領地を欲する者には領民付きでそれを与えよう。おそらくすべてを同時に与えてやれるだろう」
「バグダードが落ちたことで意気沮喪した者もいよう。
しかし、バグダード包囲戦は一局面にすぎない。戦争の一部である戦闘にすぎない。
兵数も地の利も戦費のたくわえも、四公家の連合がいまだ優位にある」
「だから最後の最後には勝つ。〈剣〉の攻勢の限界点が来て、わたしたちが巻き返す」
「もう一度言う。この“薔薇と剣”のわが旗に誓い、勝利と、一兵卒にいたるまでの厚い恩賞を確約する。
わたしとともに在るがいい、最後にホラーサーンをくれてやる。ゴールの山地をくれてやる。北部シンドをくれてやる。伯父がこれまで治めてきた剣の公家の領地を、残らず奪ってくれてやる!」
激したようにファリザードは胸壁上で一気に言葉を吐ききった。
● ● ● ● ●
少しさかのぼる夜明け前。
その夜、ペレウスが務めさせられている竜への“夜伽”は終わりぎわがすこし違った。
眠ったのちに暗黒の神殿で怪物たちに切り刻まれるのは同じなのだが、明け方も近くなったころ、苦痛に疲れ果てたかれの前に新たな夢がひらけたのである。
ヘラス様式の柱がある回廊を、ペレウスは何者かに手を引かれて歩いていた。その者はサー・ウィリアムの変装のように頭からすっぽりと黒い長衣をまとている。
どこへ行くんだ? あなたはだれ? と前をゆく者にたずねても応えはない。それは長い衣のすそを引きずりながら黙々と先を歩むばかりである。
やむなくペレウスは周囲を自分で観察した。壁にはいくつもの部屋の扉がある。花瓶や彫りこみのある窓枠などしつらえられた調度は、華美と上品を両立させた高級品である。ただ妙なことに、ヘラス様式とファールス様式が統一感など無視して混ざっていた。
(薄暗さからして、夕方ごろの貴人の館みたいだけれど……なんだか、竜の見せるものにしてはあまりに普通すぎる)
途中で何人もの召使の服を着た者たちと出会った……しかしかれらはペレウスと男を一顧だにしなかった。かれらにはこちらの姿が見えていないのだとペレウスは悟った。
廊下の突き当りにひときわ大きな馬蹄形の扉があった。
ペレウスの度肝を抜くことに、黒ずくめは歩みを止めず扉に向かい、そこをすりぬけた。手を引かれるペレウスは否応なく扉にぶつか――ることなく、かれもまた気がつくと部屋のなかにいた。
(あ……)
寝室らしきその部屋には、男女一対の美しい貴人がいた。
人族の青年とジン族の女――ともに横向きに椅子に座りながら、ファールス式チェスを指している。
金縛りにあったようにペレウスはその場に立ち尽くし、二人を穴のあくほど見つめた。
波打つ黒髪の、頑固そうに口元をひき結んで盤面を見つめる青年は、ヘラス式に白い亜麻布を肩からまきつけている。背高く引き締まった戦士の身体をしていた。
頬杖をつくジンの女は、なめらかな褐色の肌を透かす刺繍入りの赤い薄布と、装飾品であろう黄金の鎖を身につけている。
気だるげな手つきで象牙彫りのチェスの駒を進めながら、女は窓を見やった。冷艶な美貌に輝く金色の瞳に、いささか不機嫌そうな光をまじえて。
「騒がしいな。そろそろ無粋に感じてきた」
窓から見える夕暮れの街並みは明かりが煌々とともり、市民の楽しげな声と歌とが流れこんできている。
「市民は祭りまで起こして祝ってくれている。そう言うな」
すぐには駒を進めず長考に入っていた青年が、顔をあげて彼女に応えた。
「へえ。何を祝っているって、あの歌が? 言ってみろ」女が冷たい声を出す。
「……僕らのために作られた歌だ。『砂漠と海の結婚』と題名がある」
「ふうん。ちゃんとわかってるじゃないか」
女の皮肉っぽい受け答えに、青年は眉をひそめたのち、盤面にまた目を落としつつ語った。
「僕らの結婚は新しい時代の境目となった。帝国はヘラスが守ってきた大内海と、ヘラス人船乗りたちの航海技術を穏やかなやり方で手に入れた。これからは外洋への進出もいや増してゆくだろう。陸だけではなく東西の海を支配し、交易を保護する大帝国がこれで出現したことになる。それも平和のうちに。
東や西から持ちこまれた新しい楽器の音が聞こえるだろう? あの詩人たちの歌声は、人々がさらに豊かになる新しい時代を祝福しているんだ。
……君の番だ」
ようやく駒を進めてうながした青年は、
「王手詰みだ」
女がさっさと進めた手を見て絶句した。
うなって盤面をにらみつける青年をよそに、勝った女は背をそらして気持ちよさそうに伸びをした。
張りのある豊かな胸元が、布をはちきれさせんばかりに強調される。官能をくすぐる蠱惑的な肌の香が鼻奥を刺す。細い首にからみつく金鎖が深い胸の谷間に落ちこみ、じゃらと音を立てた。成熟したジンは男女とも肉体美に富む種族と名高いが、とりわけその女の色香は妖気めくほどだった。
「あいも変わらず融通のきかない指し手だな。ふふん、これでわたしの勝ち越しだ」ジンの女は軽やかに嘲笑した。「おまえは堅実に指そうとしすぎるんだ。思い切った手を指してくるときは面白い勝負になるのに」
青年は苦い草を口に突っこまれたような表情になった。
「閃きや勘にばかり頼れるものではない。基礎を鍛えておくことは必要だ」
「おまえは普段からもっと本能で動くくらいでいいんだっ。お堅くあろうとするのもいいかげんにしろ」
ついに苛立った声をあげ、チェス盤を乗せた台を押しやって、ジンの女は青年に近寄った。形良い尻を青年のひざの上に乗せ、ちょこんと横座りになる。
上体をひねって青年を真正面でにらみつけ、相手の両頬をつまみながら女はすねた口ぶりで怨じた。
「ほんとにわかってるのか? 吟遊詩人たちが歌ってるわたしたちの物語は、未来の稼ぎがどうこうより、第一に愛の歌なんだ。市民たちも歌に求めるのは甘い雰囲気だぞ。
そして今日、だれより甘さを求めてるのはわたしだ。
結婚記念日の夜だぞ――夫にそのくらいは求めていいはずだ。ふたりきりなんだから窓を閉めて、チェスも政治談義も後にまわして、甘々にゆるみっぱなしでいようと誘ってるんだぞ、ばか」
最後の「ばか」で顔を青年の耳に寄せ、かぷりと噛みつく。
青年はくすぐったげな表情になって女を抱きとめ、その頬になだめるような口づけをして言った。
「君のお腹に障るかもしれない。だから、しばらく我慢しようというつもりだったのだが。こんなふうに触れていたら、その……はずみというものがあるだろう」
「言っとくがぜんぜん確定じゃないぞ、ちょっと兆候があっただけだ。
まだ結婚して三年目だ。わたしのお腹が膨らんでくるまで確かなことは言えない。ジンは子を為しにくいんだから。
だから、我慢したぶんがまるまる損になるかもしれないんだぞ」
「万が一にも授かった可能性があるなら、慎重であるべきだろう。君の言うとおり十年そこらでは子は無いと覚悟していたところなのだから、授かっていれば望外の喜びというものだ」
それを聞いて、ジンの女は上気した顔でくすくす笑みをもらした。
凄みのある艶かしさをまとった雰囲気が一気にゆるみ、色香が幸福げなふわふわと柔らかいものに変わった。
「ふふ、毎夜ふたりで子宮錠を解く手順をなぞって、あんなに努力してきたんだから、子供ができてないとはたしかに言い切れないな。
でも、そうであったとしてもちょっとくらいは問題ないはずだ。
第一、口づけや睦言ならいくら交わしても害にならない。結婚記念日にそれすらしてくれないのはジンの伴侶として怠慢だろ。かまってくれなきゃ咬んでやる」
「……甘い言葉をつむぐのは苦手だ」
「竪琴の歌をいっぱい知ってるくせに。あれには女たらしの台詞がたくさんあるだろ」
「君に向ける言葉に、他の男が考えた美辞麗句を借りたくはない。僕自身の飾らない本音しか口にしたくない。そうなると結局、どう言おうと『愛している』という意味になってしまう」
「………………じゅ、じゅうぶん恥ずかしいこと言えるじゃないか」
「言えとせっついたくせに憎まれ口か。そうやって肝心なところで照れが入るのは子供のころから変わらないな、君は」
「しょうがないだろ……さっさと慣れて涼しい顔するようになったおまえと違って、わたしの心臓はいちいちはねるんだぞ。不公平だ。ジン族に比べて人族は恋に飽きるのが早すぎるっ」
「誤解だ。君と出会って十年だが、楽しさに慣れはしても飽きのほうは来る気配もないぞ。
どうも僕は、自分の妻に心底惚れているらしい」
ううとうなって真っ赤になった妻の頬に青年は手のひらを添え、からかいの笑みを浮かべた。
「それで、こういう本音では満足できないか」
「……そ、そういうので、いい。……もっと言え」
「わかった。ほかに要望はあるか、ファリザード?」
「…………いつものようにぎゅってして……ペレウス。口づけも」
大人となった自分たちの姿――とっくに気づいていたことが呼称で裏付けられる。
見ていて赤面しそうなたぐいの仲睦まじい光景。
だが、それを見ている少年のペレウスは、緊張で顔から血の気が失せるのを感じていた。
(竜はなんでこんなものをぼくに見せる? なんのつもりだ)
横に立った黒ずくめの者がペレウスの肩をつかんでいる。そいつの手の冷たさが肌に伝わり、爪が食いこんできた。
“妊る胎の月満ちて――”
陰惨な声が耳に届く。
“やがて産まれる子は汝の王国を継ぐことになっただろう……これは幻の汝らの姿……夢にのみ垣間見ることのできる虚像なり”
ささやきながら黒ずくめの者は頭の布を後ろに払う。
そこに身の毛がよだつような怪物がいた。人間の体に三つの蛇頭――本来の頭部が蛇というだけでなく、両肩からも二本の大蛇が生えている。
“汝は捧げよ、この幸福を”
邪竜は言った。
“汝の幸福の芽をおのが手で摘み取り、我に捧げよ”
“引き換えに力をくれてやる”
“力を、力を、力を、力を、滅ぼす力を”
“さあ見ろ――捧げねばならぬのが誰か、もうわかっているだろう”
冷たい爪がますます肩に食いこむ。
だがペレウスはそれは気にならなかった。夜伽と呼ばれる竜に食われる拷問の結果、多少の痛みにはすでに動じなくなっていた――それよりも、竜の言葉のうちに気づいたことがあった。
(こいつ、もしかして)
ある疑念が浮かんだときだった。
「……何だ?」
ジンの女が夫との抱擁をほどき、ふりむいて警戒の声を発した。
「どうした、ファリザード?」
問いかけた夫をとっさに背に守り、「何かよくないものがいるようだ」床に下りた彼女はまなざしを邪竜のたたずむほうに据えた。
緊張した声で言う。
「だいじょうぶだ、ペレウス。
わたしがそばにいるかぎり、おまえに危険なんて近づけさせるものか」
彼女の服から露出した腕、肩、胸の上部、腹部などの肌に、呪印が血の色も鮮やかに浮かんでいく。その呪印を見た瞬間にペレウスの身はすくんだ。直感させられたのだ。
それは力の渦なのだと。
邪竜の首が三つそろって彼女を見返し、敵意をこめて牙の間からしゅうしゅうと音をもらした。
“おお忌々しきかな、次元を隔ててなお感知するか”
“この世界でははや呪印に目覚めたか、女め”
“神々の領分を侵す魔帝の血め”
邪竜が呪詛を吐くとともに、周囲でぐにゃりと空間がねじまがるのをペレウスは感じた。
………………………………
………………
……
目が開いたとき、まだ寝台の上は暗かった。
同室に寝起きするホジャの姿がないのは、夜番がめぐってきたからであろう。兵舎の門を守っているはずである。
いつもの目覚めであれば、その直前までの苦痛の記憶のすさまじさにしばらくは臥せたままである。
しかし、今回は拷問で終わったわけではなかった。むっつりと起き上がってペレウスは呼びかけた。
「“虚偽”、いるか」
〔はあい〕
珍しいことにたちまち頭の中で返事があった。なんにしても好都合であった。
「いましがた竜がぼくに見せたものはなんだったんだ」
〔尋ねられても、まず内容を話してもらわないとなんのことやら〕
「……おまえはずっとぼくの頭の中にいると思っていたんだが、夜のあいだはそうではないのか」
〔あなたが竜の夜伽を務めているときは感覚は共有していないわよ。
それより、なにを見せられたって?〕
先刻体験したことを話すと、“虚偽”は黙りこんだ。ペレウスは大人のファリザードの姿を脳裏に浮かべながら続ける。
「夢にのみ見ることのできる幻と竜は言った。ぼくも終わりごろまでそう思っていたんだ。
でも、最後にファリザードが竜のほうを見た。竜はそれに怒りを示し、神々の領分を侵す者と呼んで……いや、それはあとで詳しく訊く。
いま訊きたいのは、あの世界は幻ではなく、本当に存在するぼくたちの未来だったのかということなんだ」
あのような未来があるのなら、それは〈剣〉を倒したあとのことであるはずなのだ。
そうペレウスは思ったが、
〔……どうでしょうね〕
「違うと?」
〔あなたの見たものはたしかに無数の未来のひとつよ。
でも、この世界から通じている未来とは限らない〕
「……よくわからない」
〔もっと過去の時点から分岐した未来ということよ。わたしたちのいるこの現在からはどんな選択をしてもその未来にはならない。
わたしたちのいる界と隣り合って、同じようないくつもの界が無限に連なっていると言われる。あなたが見せられたのはそのうちの一つだと思うわ。
おそらく、〈剣〉が決起しなかった世界でしょうね〕
「……あの世界の人々がうらやましい。そんな万人が幸運な世界に生きていられたらどんなによかったことか」
〔ま、どんなことになればそんな未来になったのか予想もつかないけれどね。〈剣〉はほぼ確実に決起するはずだったもの〕
「そうか……」落胆を噛み締め、「それで、ファリザードの呪印のことだけれど」
意識を切り替え、今日の目覚めが唐突なものであった理由について言及する。
邪竜が自分から退散したか、ファリザードが力ずくで追い払ったか、いずれにせよ無視していい現象ではない。
あの子の呪印はもしかすると〈剣〉の――
〔待ちなさい〕
“虚偽”の制止は有無を言わせないものだった。
〔その先は、あなたが試練を乗り越えたら教えてあげる。
まずは謎を解いてね。そろそろ答えの糸口くらいはつかめたかしら?〕
そのなぶるような口ぶりに、ペレウスは腹立ちを感じて言った。
「……ああ。だいたい当たりはつけた。竜が教えてくれたも同然だ」
〔あら〕
わざわざ竜はあの世界を見せた。悪意をもって思いこみを植えつけようとする意図をそこにペレウスは感じたのだ。
鮮明な記憶をなぞりながら、ペレウスは断言した。
「あの竜は、彼女を……ファリザードを答えだとぼくに思わせたがっていた。
あからさまにぼくを誘導しようとしていた。
あまりにも露骨すぎて、かえって疑わしくなったんだ。こいつもしかして、間違えさせようとしているんじゃないかって」
〔違うのかしら? あの子はあなたにとって大切な者ではないと?〕
「大切だよ」暗い目をしてペレウスは言った。「大切だから、どのみちぼくには彼女を巻きこむつもりは金輪際ない。彼女は除外だ」
手を伸ばし、枕の下から短刀を二本、取り出す。片方はファリザードから贈られた彼女の親の形見。万感をこめてそれを見つめた――もし外れていても、ぼくだけが犠牲になればそれでいい。
ペレウスはもう一本の短刀を手にとった。
試練のために渡された、心臓を貫くためのどす黒い刃を。
「『ファリザードではない』と思ったとき、目の前の光景には彼女以外にもう一人ぶんの姿があった。
“虚偽”。おまえはたしかに最初から答えを示していたんだな。
……“悪思の鍵”というんだったな、この小刀。そして竜卵は“悪思の扉”と」
〔ええ〕
「竜卵は扉であり、ぼくに同化している。つまりいまはぼくが扉だ。
そして“鍵”は“扉”に差し込まれるものだ」
論理の導くところにより、
「ゆえに、“鍵”の刃を受けるべき者は『ぼく』だ。
唯一無二なる自分自身だ。
これが答えだ。違うか」
ペレウスの問いに、
〔……ふ、ふ〕
「……“虚偽”? おい」
〔うふふふふふふ――〕
ぶつりと笑いの波動を残して、それきり静寂が訪れた。いくら問いかけても、もうその思念は返らなかった。
“鍵”の短刀を持ちながら、ペレウスはおおいに戸惑った。
「どういうことだ! 当たったのか外れたのかくらい――」
毒づく途中で気づき、ぞっとして“鍵”を見つめた。
(そうだ。答えを出すには、これで心臓を貫くんだ)
汗が首筋に流れる。身がぶるっと震える。
奥歯をぎりと食いしばる。
目をつぶって、両手で柄を逆手に持ち、
刃を胸に――
第二章了。