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3-5.蟲使い〈下〉

アークスンクル、蟲使いサードと対峙すること

 間合いに侵入してきたサソリを鞭が潰した。

 それが何百匹目なのか、アークスンクルはもう数えていない。


(多すぎるな、この毒虫ども)


 原野に黄昏が迫るなか、円陣をかいて(むし)たちが人々を取り巻いている。その数は万を超すかと思われた。

 サードがどうやってかあちこちの石の下から這い出させてきた、サソリや毒蜘蛛やひきがえるや毒蛇――集まった有害な小動物たちが人を包囲してうごめく光景は、気の弱い者ならそれだけで卒倒しかねないものである。

 蟲の円陣の外で座りこんで何かやっているサードが、顔をあげて嬉しげに笑った。


「が、がんばるねえ。でも、俺の集めた蟲たちはすぐにおまえを呑みこむよ」


「そう思うなら、おまえの蟲どもを一斉に突進させてきてみるんだな。サードとやら」


 鞭を握り直す――柄にすべり止めの溝をつけておいてよかったと思いながら。手のひらはとうに汗でぐっしょりである。

 じつのところ挑発は賭けだった。


(すべての蟲が押し寄せてきたら対処できるか?)


 アークスンクルは幼い頃から鞭の修練をこなしてきた。いまではアンズの木に背を向けて立ち、背中越しにその実だけを短時間で叩き落とせる。

 その技量をもってしても、全方位から蟲が殺到してくればすべてを薙ぎ払えるかどうかはおぼつかない――まして動けない仲間とヘラス人合わせて六人を守りながらでは。

 幸いにも、蟲を操っているジン、サードは即時の一斉攻撃を否定した。


「そんな力任せのやり方は、しゅ、趣味じゃあないね。

 焦らずとも、こうやって“蟲壁(こへき)陣”をひたひた少しずつ狭めていけば、おまえはち、力尽きる……それに、まもなく夜がやってくる。人族はや、闇では視力が衰える。だろう? 一斉突撃はそのときにやればいい。かわいい蟲たちをあまり死なせずにす、すむ」


「嬲り殺しが趣味か。ジンといえば過激か陰険かだが、サード殿は後者のようだな」


 減らず口を叩きながらアークスンクルは胸を撫で下ろした。

 サードに気取られないように左手をひそかに背後に回す。すぐ背後に横たえられた体にだけはこの位置からでも触れるのである。

 アークスンクルは癒す相手に顔を向けないまま“治癒”の力をこんこんと注ぎこむ。こうやって、さっきから隙を見ては後ろに手を回し、味方を一人治療していたのだ。その甲斐あって相手は徐々に回復しているようである。


(俺自身も少しずつ楽になってきた……もう少し時間があれば、この一人を戦える程度にまで回復させられるな)


 だがサードの言うとおり、時間をかけすぎて夜が来ればおしまいである。急がねばならなかった。

 そのとき、後ろに回していた手がぎゅっとつかまれた。

 やっとそこまで回復したか、と欣喜したのもつかの間、


「なぜ俺を助ける……」ロスタムのか細いうめき声が聞こえた。


 おいおいなんの冗談だ――アークスンクルのほうがうめきたい。なぜよりによって、こちらをはめて殺そうとした相手を癒すはめになっているのだろう。

 無言のアークスンクルの背に、ロスタムが言葉を吐きつけた。


「俺は〈霊薬王〉の門人どもに情報を渡し、あんたを陥れようとしたのだぞ。俺自身もこんなざまだが……

 そうか、俺を自分の手で殺したいのか。そうならばさっさとそうしろ。いちいち回復させずともこの毒は死に至るものではない……」


「いや、ロスタム殿、別にそんなつもりで助けたわけではないが」


 微妙に歯切れ悪くアークスンクルは答えた。一番近くにいた相手を癒したらたまたまあんただったとは言いづらい。


「じゃあなぜだ! なんのつもりだ。恩になど着ないぞ。ほっといてくれればよかったものを……」


 ロスタムの声に屈辱がこもっているのを聞きつけ、アークスンクルの気分は急速に改善された。そうなると調子のいい言葉がすらすら出てくる。


「もちろん共闘してもらうためさ。

 恩に着なくてもいいがこれは貸しだ。俺の指揮に一回従ってもらえば、それで貸し借りなしということでいい」


(考えてみれば悪くない。この男は優秀な戦士だし、恩に着ないと口では言っていても義理堅いからな)


 ロスタムの返事を待たず、続けてクラテロスとリュシマコスという二人の少年を小声で呼びつける。


「ヘラス人ども。おまえたちにも手伝ってもらおう。背面を任せるから、そちらから蟲が来たら一匹残らず潰せ」


 あいにくアークスンクルが聞いた返事はかんばしくないものだった。震える声を出し、ヘラス人の少年たちは尻込みした。


「いや、しかし……僕らには武器がないし……」


「動けない俺の部下たちのものがあるだろう。勝手に取って使え」


「そんな……簡単に言うが、蟲に近寄ったら毒にやられるかもしれないじゃないか。そうなったら死んでしまう」


 少年たちはすっかりちぢみあがって思考停止した様子である。アークスンクルは安心させるために理を説いた。


「ヘラス人たちよ、おまえら二人は〈霊薬王〉(アル・イクシール)の薬を水に溶いて飲まされているらしい。

 魔具による毒さえ無効化する究極の薬だ。しばらくはどんな蟲の毒もおまえたちに致命傷を与えることはあるまい。

 だいたい、蟲に立ち向かわなければじきに蟲のほうから殺到してくるぞ」


「け、けれど」


「ヘラスでは支配階級であろうに、戦場での身分に恥じない振る舞いを誰からも教わってこなかったのか?

 連れ去られたミュケナイのペレウスであれば、言わずとも率先して剣を拾っていただろうにな」


 わざと蔑みをあらわにして鼻を鳴らす。

 もちろん、アークスンクルもわかっている。たかだか十五そこらの子供、戦場での沈着な勇気など求めるほうが間違っている。あのペレウスのほうが異常なのだ。


(わかっているが、立って動けるこいつらを最大限に使わない法はないからな)


 挑発されたことで多少の勇気を掘り起こしたのか、少年二人がそろそろと剣を拾おうとする気配があった。

 しかしながらこのとき、うつむいて手元の小刀で何かやっていたサードが顔をあげた。


「出来上がり、と。

 な、投げ矢をおまえの得物ではたき落とせるかな、その鞭でさ」


 木の枝を削って作った五、六本もの投げ矢――サードが見せつけるようにかかげた即席の飛び道具を、アークスンクルは無表情になって見つめた。

 内心ではしまったと舌打ちしている。胸がせわしない鼓動を刻みはじめていた。

 蟲で囲まれ、鞭の間合いの外側から飛び道具で狙われるというのは、控えめにいっても極めてよろしくない状況であった。


「ただ夜を待つだけというのも芸がないからねえ。

 くふふ、矢の先端にはビーシュ草(トリカブト)の毒を塗っといてやろう。か、かすっただけで死ぬぞ。全部はたき落とすようがんばりな」


 投げ矢の一本をつまんだサードが、腹帯の中から出した小瓶のふたをとって矢の先端を浸す。

 完全に遊び気分のそのジンにむかっ腹を立てながらも、アークスンクルは考えた。

 唐突にひらめいたことがあった――なぜもっと早く思いつかなかったのかと自分を罵りたくなるような。


「ヘラス人ども」


「え?」


「俺の前に立て」


 クラテロスとリュシマコスは「そこの毒虫をどれか一匹つまんで食べろ」と命じられたかのような恐怖の表情を浮かべた。


「じょ――冗談じゃない!」


 二人の抗議を聞き流し、アークスンクルは無慈悲に急かす。


「奴には絶対に投げさせないから安心しろ。腹案があるんだ。

 いいから並べ、おまえらには毒は効かないといったろ。だが防いでいる俺が死んだら一同そろって惨死なのだぞ」


 怯えて泣きそうな二人を壁にしたアークスンクルに対し、サードが呆れた声を出した。


「矢盾扱いか。な、なりふりかまわない奴だねえ。

 だがねえ、その奴隷どもの飲んだ霊薬はち、ちょっぴりだ、解毒作用はそろそろ消えてきたはずだよ。

 死ぬかどうかさっそくこの矢で試してみようじゃないか。その肉の盾がなくなったらいよいよおまえの番だよ」


 そう言って投げ矢の狙いをつけはじめたサードに、アークスンクルは嗤笑(ししょう)を放った。相手が思わず動作を止めるほどの大声で。


「あはは、サード殿、その台詞を吐くということはこの逃亡奴隷たちの来歴を知らなかったのだな?」


「……ヘラス人の奴隷の来歴がどうしたと?」


「ミュケナイのペレウスと同じ使節なのだ、この二人は」アークスンクルは事実を告げた。

「この二人はサマルカンド公家が集めているヘラス人使節のうちの二人だ。こいつらは連れて帰らなきゃまずいのだろう?」


 サードの薄ら笑いがゆっくりと消えていった。


「嘘だ。よくもそんな出まかせを言えるね。た、たまたま拾った奴隷だぜ、そいつらは」


「ただの逃亡奴隷としか思わず引き回していたのだな? ヘラス語を解すればこの二人の正体を知ることができただろうに。互いの言葉が通じないというのは不便だな!

 どうする? こいつらを死なせたりすれば、師である〈霊薬王〉に咎められるんじゃないのか?」


 アークスンクルの言葉が真実であることを直感で理解したのかサードは黙りこみ、それから別の小瓶を取り出した。


「じゃあこ、こっちを使えばいいだけだ」


 アークスンクルはすかさず釘を刺した。


「投げ矢に塗る薬を麻酔薬(バンジ)に換えても結果は同じことだぞ。

 そっちが矢を投げてきたら、俺は短刀で眼の前にあるこいつらの腎臓を刺して殺すからな。死なせたくなければ攻撃は控えるんだな……

 おっと、問題ない問題ない。交渉はたいへんうまくいっている。安心して立っていてくれ」


 最後の一言はファールス語からヘラス語に切り替えてにこやかに言う。ちらちら不安そうに振り向くクラテロスたちを安心させる言葉である。

 なんの悪びれも見せないアークスンクルの脅しに、サードは呆れも極まったという表情になった。


「おまえ、き、狐みたいな悪党だなあ」


「身内がとりあえず優先でね。

 こうしよう。俺たちを逃してくれたらこいつらは引き渡す。サード殿はこいつらを〈霊薬王〉のもとに連れていき、一人で得点を稼ぐといい。どうする?」


「ふうむ」とサードがうつむいて考えこむ。それを見てアークスンクルは手に汗を握った。

 息詰まるような沈黙の時間が流れていく。しばしののち、蟲使いのジンは顔を上げた。


「まあ、いいや――」


 アークスンクルの胸に芽生えた期待はその次の台詞で摘み取られた。


「――奴隷どもの身分は聞かなかったことにして予定通り全員殺そう。ば、万事解決だ」


 あらためてサードが毒矢を投擲する姿勢に入る。

 ファールス語はわからずとも遊び抜きの殺意は感じたらしく、リュシマコスがウサギのような速さでアークスンクルの後ろに逃げた。アークスンクルは逃げ遅れたクラテロスの体をがしっと確保し、肩の経穴(ツボ)を押さえて動きを封じる。「話が違うじゃねえかああ」と泣き叫ぶ少年を無視してサードに訴えかけた。


「待て待て、おい。短絡的な判断はよせ。

 サマルカンド公や〈霊薬王〉の怒りが怖くないのか、サード殿」


「ど、毒を使う手口を見た者を生かしておくほうが、尊師の怒りを買うんだよ。

 それになあ、この場にいる俺以外の全ての者が死ねば、だれがそれを尊師たちにほ、報告する? 死人は告げ口できないよ、狐」


 そう返されて、アークスンクルは思わずヘラス語で愚痴をこぼした。


「なんてこった。どうしてジンというのはこうも残酷な奴らが多いんだ」


「あんたも大概だよ!」盾にされているクラテロスがいよいよ泣きわめく。「助けて! だれかこの人殺しどもから助けてくれ!」


 助けを求める少年のヘラス語の叫びが、暮色濃い原野を渡っていく。

 それは無駄にはならなかった。

 まず片眉を上げて西の方角を見たのはサードだった。馬蹄の音が、続いてアークスンクルの耳にも入った。


 落日の残照のなかを、替えの馬を並走させる騎影がひとつあった。それはアークスンクルたちが対峙している場から少し離れたところで下馬する。

 ざすざすと若々しい足取りの音が砂を踏んで近づいてくる。

 そして男の声がファールス語で響いた。


「いまの声はヘラス語に聞こえたが、もしかしてペレウスか?」と。


 闖入(ちんにゅう)者は頭から黒布をかぶり、背高く痩せ型だった。

 ぽかんとしている一同を見渡す瞳は空色。その瞳が、アークスンクルに捕まっているクラテロスを捉えていた。ついでリュシマコスをも。しかし、目を凝らして少年たちの顔を見定めたとき、男の面には失望が浮かんだ。


「……違ったか」


「違ったかもしれないがすぐ背を向けたりはしないでくれよ」アークスンクルは口をはさんだ。この絶体絶命の状況をなんとしてもひっくり返さねばならないのである。どんな些細なものであれ変化は望ましかった。

「ミュケナイのペレウスを探しているのか、あんた?」


 黒ずくめの男はその名に反応し、うなずく。


「あいつの行方を知っているのか。おれはペレウスを追ってきた者だ」


(そういえばこの男は西から来たな)とアークスンクルは気づいた。もしかするとテヘラーンからの追手かもしれない。

 アークスンクルはちょっと考え、胸を張った。


「あんたはペレウスの何だ。ちなみに俺はアークスンクル、あいつの親友だ」


 それを聞くと暫時ためらったのち、男は答えた。


「おれは騎士(サー)ウィリアム。俺もあいつの友人だ……あちらがまだそう思ってくれているかは知らないがな」


「そうか。友の友なら俺たちも友ということだな、ウィリアム。以後よろしく」


(ウィリアム……ヴァンダル人の名だな)と思いつつもアークスンクルは鷹揚にうなずいた。ヴァンダル人が噂通り呪われていようと悪魔の下僕だろうと、友人呼ばわりくらいどうということはない。告死天使が降臨間際のこの苦境に一石を投じてくれるならば、本物の悪魔相手だろうと口づけも辞さないところである。


「ところで物は相談だが友よ、ぜひ助けてもらえないか。俺たちの状況は見てのとおりだ、そこのジンに殺されかけているところさ」


 蟲に囲まれたアークスンクルの図太い要請に、サー・ウィリアムと名乗った男は首をかしげた。

 と、「ヴァンダル人よ、狐の口車に乗らないほうがい、いいぜ」とサードがせせら笑った。


「そこの狐に肩入れしたら命日の到来にしかならないよ。だいたい友などと、は、恥ずかしげもなく言えるもんだよ。その狐こそがミュケナイのペレウスという小僧を――」


「くそったれの〈霊薬王〉(アル・イクシール)の弟子は黙ってろ」サー・ウィリアムが突然、口調を汚いものに変えて吐き捨てた。「この気色悪い毒虫だらけの光景を見りゃわかる。貴様は“蟲使い”のサードだろう。どのみちおれにとってはてめえは敵だ、あのくそ外道の門下だからな」


 そのヴァンダル騎士が〈霊薬王〉の名に向けたすさまじい嫌悪の念に、アークスンクルは舌を巻いた。


(〈霊薬王〉を嫌うのは珍しくないが、いきなりその門人に罵倒を叩きつけるとは危なっかしい御仁だな)


 〈霊薬王〉はサマルカンド公家の食客となっている怪人である。

 医者としても武人としても凄腕と名を馳せているが、武人としてはやり口が陰険悪辣であり、暗殺がお手の物という輩であった。

 霊薬などと名乗っておきながら、そのじつ毒物の大家であり、敵には巧妙なやり方でむごい毒を盛って苦しめ抜く。サマルカンド公領やイスファハーン公領で起きる毒殺の半分以上に〈霊薬王〉かその門人が関わっていると言われていた。

 だれもがかの毒使いの一門を忌み嫌いながらも、敵に回すことを恐れ、面と向かって罵ることは避けてきたのだった。


 だがこのヴァンダル騎士は、怖れる色もなく平然と〈霊薬王〉を罵ったのである。

 サードの瞳が危険な色を宿してすっと細まった。「……なんだ、自殺志願かよ」

 相手の剣呑なつぶやきを一顧だにせず、サー・ウィリアムはアークスンクルに話しかけてきた。


「おれはなるべく早くペレウスを追いたい。

 アークスンクルとやら、助けてやるが本日の行動については包み隠さず教えてもらうぞ。特にペレウスの行方についてをな」


 相手の鋭い眼光にひやりとする。


(このヴァンダル騎士、俺があいつを拉致した者だと気づいている)


 矛先をそらすべく、アークスンクルは何のためらいもなくサードを指さした。


「ペレウスはあのジンの仲間に連れ去られたのだ」


「……おい、そいつは知りうるかぎり最悪の情報だな。〈霊薬王〉の一門にだと?

 まあいい。それならサードをとっ捕まえて案内させてやる」


 大剣の鞘をゆっくりとサー・ウィリアムが払う――

 その肉厚の剣の両刃の刀身は黒く、ダマスカス鋼であることが一目でわかった。


 同時にサードが立ち上がっている。「ぺっ」と大地に唾を吐き、冷たい怒気をにじませながら。


「愚か者のヴァンダル人、どういう毒でし、死にたい? 蛇かサソリか、ムカデか蜘蛛か?」


 砂漠の土地では日が沈めば急速に暗くなる。闇が一瞬ごとに濃度を増し、緊張もそれにともなって高まってゆく。

 たん、とサードが地面を蹴った。砂煙とジンの速さで、あっという間にその姿が目で追いきれなくなる。

 ぴくっと反応したサー・ウィリアムが首をかたむけた。間髪をいれず頭のあった空間を飛来物がしゅっと音をたてて通過する。


「おお、かわしたね」


 投げ矢をかわされたサードが足を止めてわざとらしく拍手した。


「矢が尽きたら俺のむ、蟲使いの本領を見せてやるよ。それまで死ぬなよ、ヴァンダル人。俺のかわいい子たちのど、毒牙で殺してやるつもりだからさ。

 それにしても」


 サー・ウィリアムの大剣を一瞥し、サードは馬鹿にしたように肩をすくめた。


「大仰な武器だねえ……長くて重そうだ。それともだ、ダマスカス鋼なら軽いのかな?

 どっちにしても何かやるなら完全に暗くなる前に仕掛けてきたほうがいいよ、ヴァンダル人。や、闇じゃあジンには勝てないよ」


「そりゃご心配どうも。もう終わった」宙で素振りしたサー・ウィリアムが不可解なことを言った。

「ほほう。やっぱり“使役”の紋様だな、そこそこ珍しい呪印だ。これが蟲を使う型か」


 騎士は大剣に張り付いていた何かを手で剥がし、目の前に広げた。

 固唾をひそかにのんで見ていたアークスンクルは片眉をあげた。それが何かとっさに判別できなかったのである。ぽたぽたと粘ったしずくを滴らせるその薄べったいものは赤い紋様を浮き上がらせた――


「ぎ、」


 サードのあげた妙な軋り声が耳に届いた。顔面をこわばらせ、目を見開き、ゆっくりとサードは口を大きく開けて、


 苦悶の絶叫を炸裂させた。


 足踏みするサードが背中に手を回して体をそらし、かと思えば前かがみになる――その上着の背にじわっと大きく血のしみが広がるのが、夕闇のなかでも見えた。

 がくりと片ひざをついてあえぐサードの前方で、サー・ウィリアムが手にしたものを投げ捨てた。

 それが何かよく見ようとアークスンクルが身を乗り出したとき、クラテロスが悲鳴を上げた。


「蟲が! おい、蟲が近づいてくるぞ!」


 見れば蟲たちの包囲網が崩れ、四方八方に散らばりだしていた。


「ちがうから落ち着け、ヘラス人。あれは攻撃じゃない、統制を失っただけだ」


 安心を与えてやりながら、サー・ウィリアムが投げ捨てたものがなにかアークスンクルは悟った。近づいてくる一部の蟲たちを鞭で叩きつつ、戦慄の念を騎士へと向ける。


(あれは“使役”の呪印が浮かんだサードの背中の皮か。だが、いつ斬ったのだ?)


「きさま、いったい……いったいどうやって俺をき、斬った……」


 四つん這いで流れる汗を砂に落としているサードが、痙攣する眼球でサー・ウィリアムを見上げた。

 ジンの呪印を皮ごと削ぎ落して無力化した騎士は、血に濡れた大剣を肩にかつぎ、酷薄にサードを見下ろしていた。


「幸い、闇のなかならこっちも地獄にまします大悪霊野郎(アンラ・マンユ)のくそな加護があるんでな。

 太陽が沈んだあとじゃ、たいていの奴はこの剣に勝てねえよ」


 敵を圧倒したことを誇るでもなく、こんな戦いには名誉も面白みもないと言いたげなつまらなさげな口ぶりで。


「夜におれが振るえば、この〈夜の歌い手〉(ナイトシンガー)は間合いを消す。だいたい百歩以内の距離ならば、おれは相手を好きなように刻める。相手が遠ざかろうが動き続けてようが関係なくだ。

 ……こんな武術が意味なくなるような魔具には頼りたくなかったが、今回は一刻を争うんでプレスターのくそ野郎に借りてきた。

 さてと、立て。ペレウスをどこへ連れ去ったか案内してもらおう。おかしな動きをしたら手首を切り飛ばすからそう思え」


 ところが、騎士が言い終えたときサードが跳び上がった。

 くぐもった叫びをもらし、地面をのたうちまわってのどをかきむしりだす。目が飛び出さんばかりに剥かれ、先程の絶叫すら生ぬるいような痛苦の咆哮を放った。唖然としているサー・ウィリアムの前でびくんびくんと断末魔の痙攣を起こす。

 そして、その口からずるりと巨大なムカデが這いだして逃げていった。


 一同は驚愕して声も出ない。


「あ……ああそうか」


 ぽんと手を叩いてアークスンクルは視線を集めた。


「サードの奴、のどに大ムカデを仕込んでいたから、使役の呪印を失ったとたん食道を噛まれたんだ。よほどすごい毒をもった個体だったのだろうな、この悶死の有り様からして」


 サー・ウィリアムはしばし呆然とサードの死に様を見ていたが、やがて首を振って嘆いた。


「なんてこった。道案内役が消えたぞ」


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