4-9.仲間たちからの手紙
ぱちぱちと火の音がして、ペレウスは寝台で薄く目を開いた。
高窓から月光が差しこんできている。枕元の香は尽き、夜が訪れているようだった。
見ればいつのまにか室内に陶製の火鉢が持ち込まれていた。炭が赤く熾っていた。
火鉢の前にはルカイヤが立っていた。ゆったりしたシャツを、裸の肩にひっかけるようにして彼女は羽織っている。
彼女のかたわらの小さな卓には、銀の酒瓶と玻璃の杯が、盆に乗せられて置かれている。透きとおった杯には、暗い赤さのぶどう酒が入っていた。
「もういいだろう……ほどけよ」
気だるげにペレウスは、彼女の背に声をかけた。
少年は服を剥かれて、まだ拘束されたままだった。姿勢はあおむけへと変えられ、手首を枕元に結わえ付けられている。
「言っとくけど……こんなことしたって無駄だからな」朦朧とした頭でペレウスは警告した。「体が反応しようと、それだけのことだ……僕はあんたの言うことを聞くようになどならない。だから僕を解き放て。いまのうちなら、すべてなかったことにできる。ファリザードはきっとひどく悲しむ、起きたことを知れば」
ルカイヤは答えなかった。彼女は体ごと向き直って、横たわった少年を見つめかえした。
窓からの月光が、凹凸のくっきりした美女の姿を闇に浮き上がらせた。開いたシャツの前からのぞく裸身は、火照りの余韻にうっすらと汗ばんでいた。ペレウスと同じように。
その一方で彼女のまなざしは、月の光より冴え冴えとして冷たかった。
ペレウスは既視感を覚えた。
故郷で見た、狩りの女神アルテミスの石像が記憶によみがえった。みずからの裸身を見てしまった男を犬に八つ裂きにさせたと伝わる、残酷で美しい女神の像が。あの女神像もまた、冷徹な意志を感じさせる眼と、男を惑わす豊満な肉体を持っていた。
(あ……)
ほどなくしてかれの視線は、ルカイヤの縦長のへその下に釘付けになった。
六芒の星の印が、肌の上でほのかに明滅していた。
――子宮錠。
ペレウスの視線の先に気付き、ルカイヤはちょっと自分の下腹を見下ろした。彼女は言った。
「これは〈子宮錠〉というものだ。遠いいにしえに、スライマーン王がわが種族に押しつけた封印紋だ」
「……それは知ってるけれども」
杯をとろうとしたルカイヤの手が、ぴたりと止まった。
「知っているだと?」彼女はいぶかしげに眉をひそめ、「まさか貴様……すでにファリザード様と同衾したというのではあるまいな」
「ち、違う! 見ただけだ!」
「……肝を冷やさせるな。手遅れでなくてよかった」
ほっとした様子で言ったルカイヤは、続けて、「それでは、なにが不思議なのだ。驚いた様子だったが」
「それは……その、子宮錠って」
ジンの女性が相手を好きになった証だと、ユルドゥズには聞かされたような気がする。
複雑な心境でペレウスはそのことを口にした。するとルカイヤは目を丸くした。びっくりした表情のまま、彼女は首をふった。
「その知識には誤解があるな」
「そ、そうなんだ」ペレウスとしては胸をなでおろす気分である。じっさい好かれても困る。
「たしかにジンニーアがはじめて男に対し『ジンの愛』を抱いたとき、子宮錠は顕れる。ファリザード様が貴様に見せたのはそれだろう。
しかし、『ジンの愛』は、子宮錠が浮く必須条件ではない。
もともとの子宮錠の役割を知っているか? これはジンという種族が増えぬよう、スライマーン王がおれたちにはめた枷なのだ。
子宮錠が顕れるのは、ジンニーアが妊るのを妨害するためだ。すなわち、男と実際に交わる予兆のあるときだ。だから『ジンの愛』を抱き、本能においてその男を欲したとき子宮錠は浮いてくるし……現実の交合の場においても、むろん浮くのだ。『ジンの愛』のあるなしに関係なくな。このように」
彼女はなめらかな下腹の紋様を、指先でつつっとなぞった。意図したのかはわからないが、ひどく凄艶なしぐさだった。ようやく灰になりかけていた情欲の火をふたたび煽り立てられて、ペレウスは唇を噛んで目を伏せた。
(僕は母上を軽蔑できなくなった)
ペレウスはずっと、母のような人間にはなるまいと思っていた。だが、ルカイヤがかれに教えた甘美な夜の調べは、欲望の衝動をかれに植えつけてしまった。
(股のあいだのものを切り落とすのが最善なのかもしれない。この下劣な肉欲から解放されるてっとりばやい道だ)
懊悩するペレウスをよそに、ルカイヤは杯を手にとってつぶやいた。
「しかし、そうか……ファリザード様のおまえへの恋は、まちがいなく『ジンの愛』だ。子宮錠が浮いたのならば」
彼女は嘆息した。
「ファリザード様は、逸脱者になってしまわれた。少年殺しのザフィーヤと同じ種類の、破滅に向かう危険な想いだ。このままふくらませていけばそうなるだろう」
それを聞いてペレウスは苦悩をひとまず放り投げた。ぐっと頭をもたげる。
「あんたに言いたいことはいっぱいある。でもまず、問いただしたいことがある」
「言ってみろ」
「『ジンの愛』についてだ。僕は以前、ジンは自分を愛する者か、愛するようになる者しか愛さないと聞いたことがある。運命に導かれるように、自分にとっての生涯の伴侶を見つけるのだと。でもそれだといくつかおかしなことがある……」
「たとえば?」
「たとえば一夫多妻のハレム制度だ。愛の対象はひとりじゃないとでもいうのか?」
「ひとりだ」
すっぱり断言し、ルカイヤはふっと笑った。
「そんなことが疑問か。貴様は世間知らずだな」
ペレウスはむっとした。
「どういう意味だ」
「人族は愛がなければ結婚できないのか? そうではあるまい。ジンにとっても同じだ。
愛する者にめぐり合うまで結婚しないというのは、ジンにはじつに理想だが、現実は往々にしてそうもいかぬ。ジンとて血を継ぐ子孫を残さねばならぬし、家の結びつきを求めて結婚することもある。運命の相手が現れるまで悠長に待ってはおれないというわけだ。
だから『ジンの愛』を抱くことなく夫婦となり、長い時間をかけて良好な関係を築いていくというのは、そう珍しいことでもない。友情、信頼、夫婦の情……おれたちも、心身を焦がす『ジンの愛』とは別の種類の、こういった穏やかな好意を他人に抱けるのだぞ。そして『ジンの愛』がなくとも、女の側に子宮錠を解錠するという同意があれば、わが種族は子を生せる。
……ただしそのあとで夫婦の片割れが本物の『ジンの愛』をよそのジンに抱きでもすると、かなり厄介なことになるがな。円満な離婚ができればいいが、そうでないなら惨劇の種になる。ことに女側からの離婚は難しい。名家ともなると、迎えた嫁に逃げられるというのは人族とおなじく醜聞だから、なかなか離別を認めないのだ。また、そういう名家は、しばしば何人もの妻を迎えることがある。いま言ったように血を確保するためと、家どうしの結びつきのために。
かくして長い歴史のうちに、名家の場合は、最初から女が禁宮に入ることが多くなっていった。外とは完全にへだてられた、女と宦官奴隷だけの世界に。外の男と会わなければ、なにかの拍子にジンの愛を燃やす機会も来ないからな。
人族の作ったハレム制度は、ジン族の社会においてはこのような形で有用性を認められたわけだ。
疑問は解消されたか?」
「いいや。まだある」
口ごもったのち、ペレウスは意を決してたずねた。
「つまりあんたの結婚も、そうだったというわけか……愛のない結婚だったと。亡き夫に操をたてるほどのものじゃなかったと? 妻がこんな恥知らずな真似をしていても、あんたの夫は寛容だったのか?」
火鉢から、ごうと炎がつかの間立ち上った。
ペレウスは本気で、未亡人が亡夫にいつまでも操を立てるべきだと思っているわけではない。十年以上戦争が続いていたのだから、ヘラスでも帝国でも、夫に死なれた妻は珍しくない。彼女らは嫁げるならば新たに嫁ぐのがよいとされている。みずからの心を癒やすため、生活を困窮させぬため、そして新たに子を産んで減った人口を取り戻すため。ましてルカイヤが夫と死別したのは十年も前だと聞いていた。
だがペレウスはこのとき、ルカイヤが怒ればよいと思っていた。単なる嫌がらせ以上に、彼女の反応からなにかつけこむ要素を見いだせないかと思っていたのである。
しかし……
「わが夫の魂は、おれのことなど見てはいまい」
しばらくののち、ルカイヤは静かに言った。淡々とというよりは、感情が抜け落ちてしまったかのようにうつろに。
「夫のそばにはリンダが……わが妹がいる。それに、かれとおれの間に生まれたまだ赤子の娘も。愛した者たちを、かれはすべて天国に連れて行った」
パチパチと炭が弾ける音がする。ふいに、彼女の傷をペレウスは感じた。深いところにある、癒されることのない傷を。
「おれも逸脱者だ」
ルカイヤは言った。
「少年奴隷を愛したザフィーヤや……貴様を愛してしまったファリザード様とおなじように」
「……逸脱者というのはなんなんだ。人族に『ジンの愛』を抱いたジンのことを逸脱者というのか?」
「違う。わが夫はジンだった。
貴様はそこでも誤解している。逸脱者というのは、通常あるべき『ジンの愛』のかたちから外れてしまった者たちをまとめてそう呼ぶのだ。他種族に愛を抱いた者だけではない。一方通行の、実ることなき『ジンの愛』もまた、逸脱ということになる」
ペレウスは混乱した。
「ジンは実らない恋をほとんどしないんじゃ……」
「ほとんどか。言い方しだいだな。そのような、理から外れた想いを抱えるジンは、五十人中のひとりだろうか。七十人にひとりかも……百人にひとりよりはたぶん多いぞ。ほとんどいないとも、それなりにいるとも言える数だ。
おれはそのひとりになった。愛したが、愛されなかった」
玻璃の杯に満たした赤い酒を、ルカイヤは揺らしてじっと見つめた。
「わが夫には……もうひとり妻がいた。その妻はおれの双子の妹だった。
妹は愛らしくよく笑う女で、おれとはあまり似ていなかった。
だが、やはり双生児という生まれが奇妙に作用したのだろうな。おれたちは、同じ日に同じ場で同じ男にジンの愛を抱き、子宮錠を浮かせてしまった。そのような事態はおれの氏族の歴史においても前例がなかった。
大騒ぎになったが、最終的に妹の言葉ですべてが丸く収まった。『ルカイヤ、いっしょに嫁ぎましょう』妹はおれにそう提案したのだ。『あのひとは、私たちふたりとも娶ることを約束してくれましたから』と。妹は、なんでもおれと分けたがる子だった」
「……それで? うまくいかなかったのか?」
「どうだろう……表面上は問題はなかった。
嫁いでしばらくは男ひとり女ふたりの結婚生活にさほどのきしみはなかった。けれど……やがてそれは変化した。やがて夫が『ジンの愛』をもって応えるようになったのは、妹にだけだったのだ。それが普通なのだ。ジンの愛は、同時にふたり以上の相手に向けることはできない性質のものなのだから。
わが夫は、妻を公平に扱わねばならぬという義務を忘れるような男ではなかった。それでも……否が応でも感じるのだ。おれと妹に対するとき、夫の態度に表面上の差はなかったが、明らかに違いがあった。温かい敬意がおれが夫から受け取ったものだ。情熱をともなう『ジンの愛』は妹の独占するものだった。
おれ自身が夫に対しジンの愛を抱いてさえいなければ、たぶんおれはそれで満足したことだろう。いや、すっぱりと自分だけ離縁してもらっただろう」
ルカイヤの手がかすかに震え、酒の表面にさざなみが立つのをペレウスは見た。
「だが……おれは自分の、抱くべきではなかった愛にこだわり続けた。内心のみじめさをおし殺して、いびつなものとなった三人のつながりを維持した。
夫とのあいだに娘ができたとき、浅ましい喜びを覚えた。まだ妊娠の兆候のない妹に先んじることができたと……
報いはそれからすぐにやってきた。戦争が起きて、西のかなたからヴァンダル人が夫の領地に攻め寄せてきた。夫も、妹も、生まれてすぐのおれの娘も、おれ以外のみんなが黒い死に奪われた。
いまにして思えば、もっと夫と妹をふたりきりにさせてやればよかった……はやく身を引くべきだったのだ、あいつらの邪魔にならぬよう。せめて天国では、おれのことなど気にせず幸せにやってくれるよう願う。そう願わねばならぬ。
だから、おれが仮にほかに男を作れば……むしろかれらは喜ぶだろう。おれの間違った愛から、かれらを完全に解放してやったのだと見せつければ……」
ルカイヤが過ぎ去った時代を話すにしたがい、哀傷、みじめさ、自暴自棄……精神の奥底に沈殿していた澱が浮き上がり、彼女のうつろな声に漏れはじめていた。
ペレウスは困惑しながら聞いていたが、そっと言った。
「僕には……逸脱しているにしろそうでないにしろ『ジンの愛』のことをちゃんと理解はできてないと思う。あなたの事情についても、なんとも言いにくい。
ただ、最初から抱くべきではなかった愛だとまでは思えないけれど……」
言ったあとにかれは後悔した。なんで自分に不埒を働いている相手に、まるで慰めるようなことを言わねばならないのかと。
けれどもそう思ったのは、ルカイヤが呆然と顔をあげるまでだった。かれを見つめる瞳が揺れて動揺を見せた。つかの間、むき出しになった脆い女がそこにいた……だがすぐに彼女は目を閉じ、ふたたび開けたときには冷えて硬いまなざしを取り戻していた。
「いいや。実りにつながらない愛は、ジンにおいては過ちの愛だ。すこし話しすぎたが……貴様の哀れみを求めたのではないぞ。これは、逸脱したジンの愛はなにももたらさないという話だ。
だから、ファリザード様の貴様への愛も、いまのうちに断つべきだとおれは確信しているのだ。彼女がおれのように状況をこじらせる前に」
ルカイヤは杯を唇にあてると一気にあおった。それから寝台のそばに歩み寄り、
「んんー!? んぐっ」
唇を重ねられてペレウスはくぐもった悲鳴をあげた。彼女の舌とともに、妙な味のする酒がペレウスの口内に侵入してきた。鼻をつままれ、舌で舌を押さえられて、息苦しさと自然な反応によって、口移しの酒をごくんと飲み下してしまう。
むせながら怒鳴った。
「また、なにをっ……!」
「憎いはずのおれに、話ひとつで同情するとはつくづく根が甘いやつだ」ルカイヤはかれの鼻をまた軽くつまみ、ほんの一瞬、いたずらっぽくにこりとした。「だが、貴様のその歳相応にたわいもない部分、嫌いではないな」
「僕はあんたがどんどん嫌いになってるよ!」
さっき彼女の唇に噛み付いてやればよかったとペレウスは思った。ルカイヤはそんなかれの頬に手を添えて見下ろし、
「屈辱を燃やしている目だな。
女にいいようにされることがそんなにも嫌か? 悔しいなら、貴様からおれを抱けばいい。おれを組み敷いて、思うぞんぶん怨みを晴らしてみるがいい」
「こ……拘束されるのが嫌なんだ! 何度でも言ってやる、僕をこの部屋から出せっ」
「出してやってもいい。貴様がファリザード様をあきらめたときに」
「こんなことされてるかぎり絶対ない!」
「そうか。堂々巡りだな」
ルカイヤは言った。まったく焦っていない口ぶりで。
「では、お互い少しずつ妥協する必要があるな。まずはいま口に出して求めてみろ。今夜は自分の手でおれを抱きたい。おれが欲しいと」
「だれがそんなこと――」
「そうすれば近いうちにこの部屋から出して外の空気を吸わせてやるが、どうする?」
ペレウスはぐっと唇を引きむすぶ。
突っ張ってはいるが、かれの側でも手詰まりなのだ。目下のかれの希望は、抵抗しているうちに解放の機会が来ることだけだった。ファリザードがテヘラーンに戻ってきてくれるか、別の誰かが閉じ込められたかれに接触するか。それまで耐えるしかできそうにない……しかし、そうなるまでにはどのくらいかかるか不明である。
(でも、部屋から出さえすれば、ずっと早いうちに逃げられるかもしれない。外のジンか人族と接触できれば、保護を求めることができる)
「別に断ってもいいのだぞ」考えるかれを見下ろしてルカイヤはそう言う。「本心では、貴様はこの部屋から出ることを望んでいない。そういうことだと解釈してやる」
「そんな安い挑発に乗るか」
言い返しながらもペレウスは迷った。部屋を出るチャンスをむざむざ逃せば、あとから周りがそう勘ぐる可能性はある。
一方で、うっかり甘言に乗れば、彼女を自分から求めたという既成事実を積み上げられてしまう。
思案するうち、ルカイヤの肩越しに戸口が目に入った。ペレウスは驚愕の声を間一髪でかみつぶす。
(戸が開いている)
扉には薄く隙間ができていた。酒を運び入れさせたあと、きちんと閉めていなかったものと見てとれた。
部屋から出る好機が、目の前に転がっている。
そう思ったとき、かれはとっさに言っていた。
「手の縄をほどいて、あんたを僕の好きにさせてくれるんだな」
「貴様の望むがままに、なんなりと」
「……わかった。から、ほどけよ」
「わかったとは? きちんと言え」
意地悪く楽しむ様子でルカイヤはうながしてきた。ペレウスは赤面して歯ぎしりをこらえた。
(一度手足を自由にしてもらえば、隙をみて彼女を突き飛ばして、この部屋を飛び出せる。今夜のうちに自由の身になれるんだ)
口先ですむなら安いものだと思われた。
「あ、あなたを……抱きたい。だから縄をほどいてくれ」
「いいだろう。ではほどいてやる。ただし起こることをもう一度起こしたあとで」
ルカイヤはしれっと言い、するりと肩からシャツを滑り落とした。手とひざをついて豹のように寝台に上がってきた裸の美女を前に、ペレウスはあわてた。
「約束が違う! 先にほどいてくれないと……!」
「約束したのは、今度部屋から出してやるということだけだ。だいたいいま解き放ったら、貴様、逃げようとするだろう」
(こいつ戸が開いていることを知ってたんだ)とペレウスは血の気を失った。
戸を開けたままで人に見られたらどうする、と言おうとしてさらに気づく。ファリザードに知られたくない既成事実が積み上がって困るのはかれであって、ルカイヤではない。
(罠だった。完全にはかられた)
ふざけるな、さっき言ったことはぜんぶ取り消す――そうあわてて叫ぼうとした。が、突如、ペレウスは舌の付け根にしびれを感じた。
「ふやけうあ、……あえ?」
言葉が急にうまく出てこなくなり、少年は目を白黒させる。
かれに正面からおおいかぶさって、ルカイヤはちろりと下唇をなめた。彼女の瞳はふたたび妖しいとろみを帯び、下腹の子宮錠はぎりぎりと締まって見えるほどに血の色の輝きを強めていた。
「おれが欲しいとはっきり言えたな。褒美に今夜もう一度、神の祝福したもうよろこびを味わわせてやる。
まだ貴様が反抗心を秘めている以上、好きなようにさせてはやれないが……だましたつもりはない。ファリザード様をあきらめたのちであれば、おれを自由にするがいい。貴様のため戦う騎士にでも身を守る番人にでも、婢女にでも女奴隷にでもするがいい。魔石と塔と薔薇と剣にかけて、そして日輪と月輪にかけて、貴様に仕えることを誓うとも」
部屋にひとり残されたペレウスは、服を着直していらいらと歩き回っていた。
まだ夜は明けておらず、暗い壁際には脚の折れた椅子が転がっている。力いっぱい壁に投げつけて壊してしまったのである。罵ることもできなくなった少年は、そうやって怒りを発散したのだった。
声が、出なくなっている。
(あの酒だ!)
ルカイヤに口移しで飲まされた酒。あれを飲んで少し後に声帯が麻痺したのだ。
(なるほど、この状態の僕なら、あとで外に連れ出しても自分の行為を暴露される危険は少ないというわけか。あの女!)
荒れ狂ったあと、かれはふと思い当たってぞっとした。
かれの世話をしに来る、耳の聞こえない、口もきけない女奴隷たちのことを思い出したのだ。
(彼女たちは、ほんとうに最初からああだったのだろうか? 薬でそうされたんじゃないのか? 僕ももしかすると、このまま一生声が出せないのか?)
凍りついて立ち尽くしたのち、かれは首をふった。
ルカイヤはそこまで残酷ではないだろうと思ったのである。あのように思い込みが激しく、穏やかならざる手段をとる女ではあるが……悪人だと感じたことは一度もなかった。
(それとも僕は、そう信じたいだけなのだろうか。まさか気づかないうちに、ほだされでもしているのか?)
苦い思いにため息をついた。そうならいよいよ早く逃げ出さねばならない。
さまざまな理由で神経がたかぶっていたからか、ペレウスはずっと起きていた。だから、室内に手紙が飛び込んできたとき、かれはすぐに気がついた。
(……なんだ?)
高窓の下の床にぶつかり、小さな音をたてたそれへとペレウスは歩み寄った。
(縄? と、紙?)
丸められた紙が、窓から垂れ下がる縄の先に結び付けられていた。ごわごわしたその紙は石かなにかを包んでいる。開くとじっさいに石が出てきた。
(石をおもりにして、窓から投げ入れてきたのか。でもなんで縄をつけてるんだ?)
なにはともあれ、ペレウスは月光の当たる位置で紙を開いた。
目に飛び込んできた文字に、驚きと興奮がこみあげる。
それはヘラス文字だった。
『助けてくれ、ペレウス。われわれ王政都市のヘラス人使節たちは分裂寸前だ』
仲間である少年使節のひとりヒエロンの筆跡だった。
『われわれの盟主であるきみの姿が見えなくなったことで、リュシマコスとポセイドニオスが対立した。リュシマコスは、きみが姿を消した以上、かれが暫定的に盟主の地位につくべきだと主張はじめた。
それに対してポセイドニオスは、セレウコスに対する制裁に加わっていないリュシマコスにその資格はないと言い立てている。かれはきみが戻ってくるまで、自分こそがきみの名代として行動すると宣言した。
セレウコスから奪った印璽を、いま預かっているのはポセイドニオスだ。リュシマコスはそれを渡すよう要求している。
いまのところ印璽を握っているポセイドニオスのほうが有利だが、リュシマコスのいうことにも一理あると考える使節は多いんだ。リュシマコスの都市オリュンピアは、きみの故郷ミュケナイに次ぐ格式だし、かれは最年長だから……おかげで、僕ら王政都市の少年たちはすっかり二派に割れてしまった。
もっと心配なのは民主政都市の連中のことだ。あいつらは僕らに対する反抗心をいよいよ募らせている。いつ反乱を起こすか知れたものじゃない。
きみが必要だ。きみの指示が必要だ。
くりかえすが僕ら王政都市の少年たちの盟主はきみだ。リュシマコスとポセイドニオスを仲裁してくれ、きみの言葉なら争うふたりも聞くんじゃないかと思う。できれば姿を現して、民主政都市のやつらが僕らに逆らわないよう、にらみをきかせてくれ……』
読んでいる最中からペレウスは顔をしかめていたが、読み終えたときとうとう歯ぎしりが漏れた。
リュシマコスとポセイドニオスが、どちらが持つかで争っているという印璽は、ヘラスへの公式な報告書作成のために必要なものだ。
ペレウスはそれを使って、ヘラス諸都市に詳しい状況を伝え、勧告するつもりだったのである。〈剣〉に対抗するためこの戦争に参加してくれと。
それなのに……
(印璽をだれが手にするかで仲違い? なにを考えているんだ、僕の仲間たちは? あれを握ることを権力の証としか思っていないのか。
僕がいなくたってかれらがいまごろ故国に送る報告書を作ってくれてるはずだ、そう思ってちょっと安心していたのに)
このような状況におちいることをペレウスは想定していなかった。セレウコスに私刑を加えたとき、ヘラス人の少年たちは足並みをそろえていた……しかし、死地から脱出したいま、かれらの団結はあっという間にほころびてしまったようだった。
(民主政都市の少年たちもヘラス人なんだぞ。過去がどうあれいまはヘラス存亡の危機だ。僕らは全員が協力しなきゃならない……それなのにこの手紙でヒエロンは、民主政都市の少年たちを完全に敵とみなしている。一度は和解したんじゃなかったのか。いったい、これはなんという馬鹿げた状況なんだ? 『ヘラス人は、結束が苦手』と昔から言われていたという。そう言われるのは当然だ、このありさまでは)
苦々しさをかみしめつつ、ペレウスはもう一度文章を読みなおした。
(――おや)
ペレウスの目は、ヒエロンの書いた文章から離れた箇所に吸い寄せられた。
かれの指で隠れていたが、紙の端にひどく小さな字が書かれている。
“縄を伝って上がってこい”
ヘラス文字だが、ひどく下手な文字だった。わざと崩して書いたかのような。
窓から垂れている縄に目をやって、ペレウスはそれを手にとった。くいくいと引いてみる。はたして、向こう側からも同じように引く手応えがあった。
(そうか、下の庭から投げ込んだわけじゃないんだ。上の階から振り子のように揺らして窓に入れた……)
のどが干上がるほど興奮して、ペレウスはごくりと固唾を飲んだ。
(すばらしい。縄を伝って引き上げてもらえばこの部屋から逃げ出せる)
それまでも高窓から逃げ出すことを考えなかったわけではなかった。だが室内には、裂けば縄に加工できそうなシーツこそあれ、縄をひっかける場所がなかったのである。第一、椅子の上に立って飛び跳ねても高窓には手が届かなかったのだ。
慎重に、ペレウスは縄に手をかけた。手の皮がすりむけそうになるのをいとわず、ぐいぐいと身を上方へ引き上げる。
窓からペレウスはついに出た。とたん、凍えるような夜風が横からかれをあおった。
縄につかまってぶらぶら揺れ、下の庭を見てペレウスは顔をしかめた。
暗くてよく見えないが、高い。おそらく三階以上だろう。
(塔の部屋だったんだ。落ちたら無事じゃすまないな)
アーガー卿の館の隅にくっついた、円塔の一室に監禁されていたのだとペレウスは知った。
上を見る。上の階に張り出した露台があり、人影がそこに立っていた。ぴんと張った縄を両手でつかんでいる。
誰だろうと目を細めて見つめながら、ペレウスはそこまで昇るべくさらに縄をたぐった。
(ありがたい。みんなが仲間割れしていると知ったときは幻滅したけれど、やはり持つべきものは同郷人だ。こうして助けだしてくれる――)
人影は縄から手を離した。
ペレウスは落ちた。