第54話:“空”と“虹”に願いをかけて
リュミエルの住処の周辺は精霊が灯りを灯してくれたので、とても不思議な光景を生み出している。日の光は遠くても暗いとは感じないし、まるで夢物語の世界に迷い込んだような気にもなる。
そんな景色の中で精霊に手を伸ばして佇むユフィの姿は、まるで一枚の絵のように思える。声をかけるのも躊躇うような美しさだったけど、声をかけないとそのまま消えてしまいそうにも見えて不安に駆られる。
「ユフィ」
「……あぁ、アニス様」
声をかければユフィは意識をこっちに向けて振り返ってくれる。その仕草だけで安心してしまう自分がいる。やっぱり不安になるのは精霊契約やパレッティア王国の歴史の裏を知ってしまったばかりだからなのか。
リュミエルはさっさと住処の中に戻ってしまっていて、ここにいるのは私とユフィだけだった。不思議な光景の中、互いに何も言わずに肩を並べる。
何かを言わなきゃいけないのに、それでも言葉が出て来ない。ユフィに私は何かを聞きたいのに、何を聞きたいのかが形にならない。ただ時間が過ぎていく中で、先に口を開いたのはユフィの方だった。
「驚く事ばかりで言葉になりませんね」
「……そうだね」
「でも、知ることができて良かったとは思うんです」
ちらりとユフィの横顔を覗き込む。どこまでも静かで、穏やかな顔。まるで遠くの目標を見定めたような真っ直ぐな瞳。
「正しく知らないといけなかったんです、私達は」
「……ユフィはもう自分の考えを纏めたの?」
「はい。精霊契約は軽々しく望んで良いものではないです。ましてや王となる為の条件に望まれるものとしてはいけません」
「うん、そうだね。私もそう思うよ」
精霊契約によって生まれた王は確かに民が望む王になると思う。絶大な力を持ち、祈りと願いを束ねて夢想を現実にする。それは正しく理想の王様だ。
けれど、その王様は人間ではない。もうそれを望んだり、体現してしまった時点で王は人間としてある事は出来ない。王としてしか生きられない。それは私も望んではいけないものだと思う。
「……精霊契約の真実を公開すれば、きっと世論は割れると思います。それが素晴らしいものだと賞賛する者も、それは恐ろしいものだと忌避する者もいるでしょう」
「そうだろうね」
「それはアニス様の魔学を畏怖する事と何も変わりません。精霊契約も、魔学の成果も、どちらも価値があって、どちらにも恐れるべき面がある。だから私達がすべき事は正しきを知り、それを悪しきものにならないように教え、導く事だと思うんです」
ユフィが私に視線を向ける。静かに、けれど決意を固めた強い意志を込めた瞳で私を見つめる。
どこまでも柔らかくて、どこまでも優しそうに。迷いなどないように笑みを浮かべて、ユフィは言葉を続ける。
「――だからこそ、私は精霊契約を成し遂げて王になりたく思います」
ユフィが告げた宣言に拳を握ってしまった。咄嗟に唇を噛んで、ユフィの目を睨むように見返す。
「……そう言うと思った。なんでだろうね。わかっちゃったよ」
「はい」
「“それでも”なるつもりなの? 自分で言ってるよね。精霊契約で生まれた王は人柱になりかねない。人が真実を知らずにいればただ讃えられ、真実を知れば狂信か畏怖を招く。人の為の王となる為に、人を捨てる事が……それがどれだけ悲しい事かユフィにだってわかるでしょ?」
「はい。これは時代を逆行する、愚かしい真似なのかもしれません。でも私は必要だと思うんです」
「そんなに必要だと思う? そんな王が本当にこの国には必要なの?」
「はい。必要です。だから最後までどうか私の考えを聞いて欲しいのです、アニス様」
強く握りしめた私の拳をユフィが持ち上げて、己の手を添える。
「私も、人の為の王になる為に人である事を捨てるのは本末転倒だと思うのです。確かに王とは王です。けれど人を捨ててまでなるべきかと思えば、そうではないのです」
「だったら……!」
「だけど、それを誰が正しく知るのでしょうか? 過去の栄光こそが正しいと信じる人が、それでもと信じたのであれば新たな王が立てられないとは言えないでしょう? だからこそ今、手綱を放す訳にはいかないのです」
ユフィがこつん、と額を合わせて瞳を閉じながら祈りを捧げるように続ける。
「私が精霊契約で王冠を頂く最後の王となります。そして正しく古い時代を終わらせましょう。精霊契約によって成し遂げられる奇跡に代わるものが生まれようとしていると伝える為に」
「……ユフィ、でも、だからって」
「精霊契約も、魔学も、全ては人の手に委ねられるもの。私達は託すべきなのです。将来、魔学を贔屓する王も生まれるでしょう、精霊契約を望む王も生まれるかもしれません。私達はその全ての可能性を受け入れて、強要するのではなく選べるように整える事が必要だと思うのです」
「だから自分が時代の節目の礎になるって? 自分を犠牲にして?」
「誰かが為さないといけないなら、私はその責務を望んで背負いましょう。誰かが望んだのではなく、私自身の意志で。民の為ではなく、私が望む新しい時代の為に」
そっと、私の手を握っていたユフィの手が頬に添えられる。
「古い時代の全てを受け継ぐのは私が適任なのです。正しく受け継がねば人には伝えられない。精霊に祈り、願い、奉るだけの時代を終わらせる為に。人が自らの意志と力で選び抜く未来を。そして初めて魔学が思想が輝くのです。私から、貴方へ。過去から今へ、そして未来へ。過去も、現在も、その全てを引き継いで、新たな道を民に示すのです。それが私の望む国が歩むべき未来です」
古い時代、精霊契約によって築かれたパレッティア王国の歴史と思想、信仰の全て。
確かにユフィの言う通りだろう。その全てを引き継いだ象徴として誰よりも近いのは紛れもなくユフィだ。精霊と近しい魂を持つと言われ、精霊契約に手が届く才能を持ち、由緒正しい血を受け継ぐユフィは象徴として相応しい。
古き時代をユフィが象徴としての最後の王となる事で終わらせる。そして次の時代へ、新しい展望を示す。既存の概念を打ち崩す為、その概念を背負う象徴となり終わらせる。それは、きっと理想的な話だ。
「だから人間を辞めても良いって? 自分が背負っても良いって? 過去の時代で、それが成功したからって盲信する人達をわからせる為に? 自分がそうなって、でもそれだけが正しい道じゃないって示す為だけに!?」
「はい」
「そんなお節介なんか無くても、私なら国を変えられる!」
「はい。アニス様なら可能でしょう。ですが急激な改革は争いを招くでしょう。貴方は、その責任を痛い程に背負い込むのでしょう。古き時代を終わらせる痛みをただ一身に背負って。それは私が許せないのです」
「だからって、ユフィを犠牲にする事なんか認めたくない!」
どんなにユフィの在り方が精霊に近くても、ユフィは人間だ。人間として生まれたのに、ただ国の為にそれすらも捨てなきゃいけないなんて馬鹿な話を認められない。
本当は犠牲なんて出したくない。結果的に犠牲が出てしまうのは仕方ない。思想が違えば争いになる、それも仕方ない。でも、最初から諦めて仕方ないと呑み込むのは絶対に違う。
「私がそれを犠牲と思っていなくても?」
「……そうだよ、これは私の我が儘だ。ただそう生まれたから、そうならなきゃいけないなんて知った事じゃないよ。人間を辞めさせてまでユフィに国なんて背負って欲しくない」
「なら、これも私の我が儘です。ただそう生まれたのなら、そうなる事で救われる人がいるのなら。それも私なのです。それこそを私は……望みたいのです。私の為に、そして私が愛しく思う貴方の為に」
あぁ、本当に平行線だ。どこまで相手を思っても相手が望まない所まで、まるで鏡合わせ。
「……話し合いで納得出来ると思う?」
「いいえ。私も譲りませんし、アニス様も譲らないでしょう?」
「うん、そうだ。だって本当に気に入らなかったら私は全部振り払ってでも叶えてやる。それが私だ」
「ならばそれを諫め、繋ぎ止めるのが私なのでしょう」
「私を止められると思ってるの?」
「えぇ」
ユフィは笑みを浮かべて、そっと私と距離を離していく。そしてゆっくりと振り返ってもう一度向かい合う。
「私は魔学の価値を認めています。何よりも傍にいて、その可能性も知っています。けれど――まだ、私が勝ちます」
「――……」
「勝たないといけないんです。まだその価値を釣り合わせないといけない。でないと魔法はまた貴方を裏切ってしまう。人を笑顔にする魔法、それは今の魔法では到底叶わないんでしょう。だって精霊に意志がないのなら、魔法とは人の願いの映し鏡でしかない。その魔法が貴方を裏切り続けるのなら、貴方はただ魔法を捨てて、今の世を壊して進む事しか出来ない。なら、私がさせません。私が新しい“魔法”の時代を築きましょう」
ユフィが腰に差していたアルカンシェルを抜く。その刀身をなぞるように触れてから私に向けるように構える。
「古き時代に終わりを。国に新しい時代を。多くの民に幸福を。私達の願いは一致してます。でも今の国が望むのは魔法でしょう、魔学にその先導をまだ譲る訳にはいかないのです。それは私が全てを引き継ぎ、終わらせてからなのです」
その意志の強さを示すように、ユフィの瞳は決意に満ちた瞳をしている。
「貴方の魔学と並ぶ為に、貴方が諦めざるを得なかった魔法で私は貴方の隣に立ちます。だから貴方がその為の方法を認めない、譲らないと言うのなら……互いの“魔法”で決着をつけましょう。今は、まだ貴方が導く時代ではないのです」
……自然と、私の手もセレスティアルに伸びていた。鞘から抜いたセレスティアルを構えて、ユフィの視線を真っ向から受け止める。
「いずれ貴方の時代が来る。貴方が望まれる時代を私が築いて見せます。その時代を一緒に見たいから……――その権利を、私は掴み取ります」
「誰も犠牲にしない。したくない。それがユフィの願いだったとしても、人の為に人を捨てるなんて本末転倒を私は許さない。貴方は私の隣で夢を見てくれるだけで良かったんだよ、ユフィ」
「隣に立つ為には必要なのです。……貴方は、本来は守る為の願いを口にするのに。それを壊す事でしか守れなかった。私は魔学はそういうものではないと、それだけじゃないと示したいのです」
「守れないなら意味なんてない。なら破壊者でも私は構わない」
「なら、私はそれを認める訳にはいかないのです」
「あぁ、本当に」
「えぇ、本当に」
それは喜びで。それは悲しみで。それは怒りで。そして何よりも幸福な感情だった。
互いの願いを否定してでも、互いの幸せを願う程に私達は同じで。でも、違う形だからぶつかり合う。
あの日、手を差し伸べたあの子は私と相対する位置にいて、私の願いを何よりも大事にしてくれている。だからこそ向き合わないといけない。
「負けても文句は?」
「言いません」
「それなら良し」
「言質は取りましたよ」
「言うじゃない」
互いに笑い合う。心はどこまでも安らかだ。曇りなんてない。憂いなんてない。迷いだってない。全部邪魔だ。
だから心は青空のように澄んでいる。これならきっと、どうなっても最後には笑えると思う。
「始めようか。……これは喧嘩かな? それとも決闘?」
「いいえ。もっと相応しい言葉があります」
「へぇ? それは何?」
「“魔法比べ”を始めましょう、アニス様。私がご教授してあげます」
「……言ったなぁ! 天才お嬢様っ!」
互いの魔力が昂ぶり周囲に満ちていく。それに鳴動するように森がざわめいたような気がした。
私達の間に風が吹いて、風に舞った木の葉が間を通り過ぎていく。
その木の葉が2つに裂ける。次の瞬間に、私のセレスティアルとユフィのアルカンシェルが互いの刃を打ち合わせる音が甲高く響き渡った。
* * *
黒の森の奥深くで、人知れずにその魔法比べは熱を高めていた。
深い森の中に出来た広場の中。そこで向き合うのはアニスフィアとユフィリア。彼女達は互いの魔剣で何度も斬り結ぶ。
アニスフィアは竜の刻印から注がれる魔力で身体強化をかけながら一撃を見舞わんと素早くユフィに迫る。それをユフィもまた応じるように身体強化をかけながら弾き返す。
互いの剣を弾き合い、ほぼ同じ軌道を描いて剣を重ねる。剣戟の音は留まらず、甲高い音を響かせながら加速していく。
(ッ、反応される……! でも、真っ向から向かってくるなんて意外!)
この展開は正直、アニスフィアには予想外だった。ユフィリアと言えば多彩な魔法を使いこなす天才だ。なら、その魔法を用いた手を使って来るのかと思えばそうではない。まるで自分に合わせるかのように向かってくる。
それがアニスフィアには意外に思えた。何を考えているのか、何かを狙っているのか。そう脳裏に過れば攻め手が鈍る。隙を見せればすかさず魔法の追撃が迫る事も想像に難くない。だからこそユフィリアの猛攻に応じる格好となる。
(アニス様の反応は速い。身体強化だけでの勝負なら私が劣るでしょう。“だからこそ”迂闊な手は使えない……!)
ユフィは自分の才覚を見誤る事はしない。確かに自分の使う魔法は多彩で選択肢は幾重にも浮かぶ。しかし、それをアニスフィアに使うとなれば選択肢は絞られていくのだ。
アニスフィアの持つ手はユフィリアほど多彩ではない。だからこそ、その1つ1つの練度が高い。速く、鋭く、重い。だからこそ打つ手を間違えられない。ユフィリアにとってそれは薄氷を踏むかの如き戦いだった。
事実、斬り結んでいても一瞬たりとも気が抜けない。少しでも気を緩めれば彼女の魔剣が牙を剥くとユフィリアは嫌でも感じ取ってしまう。浮かんだ汗が肌を伝って落ちていくのが明確にわかる程、体は熱を帯びている。
(今は私が思わぬ動きを見せた動揺があるけど、地力では私が劣ります。いずれは適応されて押し負ける……!)
ユフィリアに浮かぶのは己の敗北のイメージ。瞬時に浮かぶアニスフィアに覆されるイメージを破棄、破棄、破棄。残った可能性を繋ぐ為に反射神経を極限にまで高め、身体強化の精度を高めていく。
決定打になる事はないだろう。それでも時間を稼ぐ為に必要だった。実戦の経験値もアニスフィアの方が優れている。だから、ユフィに出来るのはただ1つ。
(私が、出せる全力を……! 私の出来る事を、いえ、出来なかった事すらも、今ここで極めて見せる……!)
ユフィリアにとって魔法とは散らばったピースを形にする作業だ。1度発動した魔法に魔力を通して、余分なものを削ぎ落とし、足りないものを引き寄せて組み替える。
形成、精査、最適化、補填、再構成、実行。目まぐるしくユフィリアの思考は回る。その度に頭の奥が捩れるような痛みを感じる。目の奧に血が集まり、視界が真っ赤になっていく。
息は上がり、体は疲労を訴える。剣戟を繰り返す腕は衝撃で感覚を失いそうになる。それを治癒魔法を織り交ぜた身体強化で補う。そうすれば体の疲労を軽減しながら更なる身体強化の魔法の道筋が脳裏に描かれる。
脳の奧で何かが焼き切れていくような感覚を引き摺りながら、ユフィリアは一瞬にして自分に施している魔法を組み替えていく。
「あ、ぁッ!!」
「ッ!?」
自分でも驚く獣のような声をあげてユフィが振り抜いた剣閃はアニスフィアの予測を一瞬だけ上回る。互いの勢いが拮抗しているだけに、ユフィの変調がアニスフィアのリズムを崩し、アニスフィアが蹈鞴を踏むように下がる。
その隙をユフィリアは逃さない。僅かに開いた後ろへの距離、アルカンシェルを弓を引くように構え、体の捻りを活かして突きを放つ。その突きを放つ直前、螺旋を描くように風が渦巻く。
「“ウィンドストーム”!」
魔法の練りが甘い、咄嗟の構成では条件付けの設定が甘い。しかし突きと同時に放たれた風はその突きを加速させ、神速の域へと至らせる。
狙いはセレスティアル。あれを弾けば、と。ユフィの思考がよぎった瞬間にアニスフィアは――セレスティアルを手放して身を低く構えた。
(ッ!? しま――ッ!)
目標の位置を違えたセレスティアルは宙を舞い、上に登る。突きを放ったユフィの体は伸びきっていている。そこに身を低く構えたアニスフィアが折り曲げた膝をバネにするように掌底をユフィの腹部へと叩き込む。
ユフィの体が勢い良く弾き飛ばされる。大地に何度か跳ねるようにして転がり、その勢いを殺すようにユフィが膝をつくように起き上がる。
「……ッ……は……!」
胃の中身を全部吐き出してしまいそうな嘔吐感をユフィリアは堪える。咄嗟に生み出した風魔法によるクッションでもアニスフィアの一撃は相殺しきれない。骨を持って行かれなかっただけ良しとする。
アニスフィアの追撃はない。アニスフィアもまたセレスティアルを再び手に収めて、流れ落ちる汗を手の甲で拭う。
(実戦の最中でここまで変わるの? 天才というか、化物じゃないのユフィ……)
アニスフィアに過るのは改めてのユフィリアに対する畏怖だ。ユフィリアが即時、その場で魔法を組み替えているのは肌で感じていた。
それは刃を研ぎ澄ます工程にもよく似ていた。速く、鋭く、無駄を削ぎ落としていく。剣戟を交わす度にユフィが一歩、また一歩と自分に迫ってくるように。これが本当に命の奪い合いであれば、死神の足音と錯覚してしまいそうだった。
「……はぁ……はぁ……!」
息を整え、油断なく構えながらユフィリアはアニスフィアを見る。アニスフィアも気を緩めた様子はない。
目の前にアニスフィアが立っている。そんな中でユフィリアは言い知れぬ感情を心の中に抱えていた。それは鼓動を早め、全身に血を巡らせていく。
(選択肢が潰される。こんなに……こんなに手段があっても、選べる手が減らされていく。これがアニス様……!)
繰り返すようだが、選択肢の多さで言えばユフィリアはアニスフィアを凌駕する。多彩な魔法はそれだけで力となり得る。それがユフィリアの強みだった。今までもそうだった。だから気にした事なんてなかった。
魔法を見ればその対策が浮かんだ。相殺すらも難しくなかった。剣だって人並み以上に扱えた。事前に選択肢が“潰される”という経験はユフィリアにとっては驚きの限りだった。これは父であるグランツに魔法の手ほどきを受けても終ぞ感じた事がない。
(この方は、どれだけ練り上げてきたんだろう。本来は手が届かない頂きに手を伸ばす為にどれだけ)
空を飛びたい。そこから始まったアニスフィアの道筋は探究そのものと言える。魔法を知り、己を知り、足らないものを埋め、愚直なまでに己の強みを練り上げて来た。
対してユフィは探究に挑んだ事などない。最初から多彩な魔法が使え、他者の手を把握し、相殺する。生まれながらの絶対者、それが彼女の在り方だった。
しかしアニスフィアの執念が、ユフィリアの全能を崩していく。自分では自覚なくとも頼っていた全能感が、アニスフィアには通用しない。それをこの短い交錯の間でユフィリアは嫌という程に感じていた。
だからこそ――ユフィリアの心は強く昂ぶっていく。
「並びたいのです……」
どこまでも遠く彼方を見据える貴方と同じ景色を見たい。
与えられたものに留まるだけだった自分を変えたい。在るように在るだけの自分ではなく、世界に留まるのではなくこの世界を歩みたい。
自分が望まれたままに振る舞うのが、自分に出来る最善だとずっと思っていた。そこに自分の我など求められていない。なら、自分も求める必要を感じなかった。
その前提が崩れて、今まで当たり前だった世界が崩壊した時に差し出された手。その先に見た光は、まさしくアニスフィアに他ならない。
この魂は精霊寄りだと言われた。世界はあるがままに。ならば自分も望まれたままに。ただそれを良しとするだけのものだった。でも、そうじゃいられない。このままじゃ終われない。
――この人に、勝ちたい。
何を以て勝ちとするのか。それをユフィリアは明確には自分でもわかっていない。
だからせめて逃げない。同じ舞台で、同じ目線で、ただ向き合い続けていたい。
至るべき場所に辿り着く為に、全てを振り払ってしまいそうな人を1人にしたくない。
そして1人で全てが完結していた自分を置いていって欲しくない。
見て欲しい。認めて欲しい。ここにいると。お互い、何もかもちぐはぐだ。
だからこそ。ただ、この人の為の唯一になりたい。
「王になんて……させない……」
王とは、国の為、民の為にある象徴そのものだ。王になればその自由は失われる。
それがユフィリアには堪らなく嫌だった。アニスフィアは自由だったからこそ辿り着けたのだ。なのに、その自由も奪い、願いも、功績も、何もかも国の為に捧げなければならないなんて認められない。
だからこそユフィリアは認めない。それだけは世界がそう望むのだとしても受け入れられない、と。
奇しくもそれは魔法を使えない事を認めなかったアニスフィアのように。ユフィリアもまた踏み出す。前へ、前へと。
「……ユフィ」
「王になって貴方が悲しむなんて認めません。王になる事で貴方から失われるものがあるなんて耐えられない。誰も認めない中で貴方が築き上げた成果を、ただ皆の為だからと捧げさせるなんて間違ってます」
「それでも、それが私の背負う責務だって言うなら背負うよ。誰かを不幸にしてまで、私は自分の幸せを願えない」
「それでも私は貴方を幸せにしたいのです。笑って欲しいのです、自由でいて欲しいのです。貴方の願いを守りたいんです」
だから王になんてならなくて良い。何度でもユフィリアはそう叫ぶ。
「皆が幸せになるなら――貴方も、幸せにならないといけないんですよ」
「だからって……ユフィが不幸になるなんて認めない!」
「私の不幸を貴方が決めないで下さい!」
「私の幸せをユフィが決めないでよ!」
「じゃあ、嫌なんですか!? 私が幸せにしようとするのは嫌ですか!?」
「……そ、それは卑怯!」
思わぬ追求にアニスフィアが動揺したように口ごもる。
だからユフィリアは呆れ返ってしまうのだ。心に沸き立つ怒りにも似た感情のままに告げる。
「皆の幸せを願うなら、自分の幸せも受け入れてください」
「私は幸せだよ、もう十分過ぎるぐらい幸せだ」
「――私が、それに満足していないと言っているんです!」
欲しい、欲しい、あの人の幸せが欲しい。
それが私の望んだものだと。誰よりも強く望む、愛しい人の幸せ。
なのにもういいよと言う。もういらないよ、と言う。そんなの――もう知らない。知ったことか。
「たった1人で幸せになって、たった1人で不幸になる。そんなの認めない。だから皆がいらないと言うなら、私が貰い受けます。アニス様、もう捨てて良いんです。貴方が王に相応しくないと言うのなら捨てて良いんです」
その王冠は、私が貰い受けますから。
ユフィリアの思いは言葉にならずとも伝わる。アニスフィアは意を決したように構えを取る。
アニスフィアの薄緑色の色彩が薄くなっていく。まるで黄金の月のような瞳。初めて正面から見る瞳だ。色彩の変化は竜の魔力を通した事によるもの。その瞳は宝石のように美しい。
同じくセレスティアルから形成される刃も変化を見せる。薄らと青みがかかった結晶のような刃。全身に纏う竜のシルエットを思わせる光は見る者を畏怖させる。この存在感は確かに竜と呼ぶに相応しい。
「言葉じゃ納得しない。出来ない。――なら、これを受けきれるんだよね!? 退くなら今だよ!? 死んだら許さないし、一生恨む! 私だって譲りたくない! ユフィが絶対苦しむ道になんて進ませたくない!」
「――あぁ、なら絶対に負けませんよ」
根拠があった訳じゃない。打ち破れる自信があった訳でもない。それでもユフィリアは自然と口にした。
躊躇うようにアニスフィアが唇を引き結ぶ。睨むようにユフィリアを見据えて、そして勢い良く跳躍した。
青空を思わせる一撃が天より落ちて来る。昏い空を青空に塗り替えるような閃光の一撃が迫る中、ユフィリアはアルカンシェルを握りしめる。
この一撃は生半可な魔法では打ち破るどころか、防ぐ事も叶わない。即座に判断する。死の足音すら近い。それでもユフィリアの心に迷いも澱みも恐れもなかった。
「集いて、混ざれ」
ヒントはあった。
「混ざりて、成れ」
体の魔力を入れ替える。それはアニスフィアも竜の魔力を行使する際に使う秘技。
「成れば、汝は世界に等しい」
“魔力”を入れ替える。全身の魔力を代価とし、呼び水にして招き寄せたのは周囲の精霊達。
集って混ざった精霊から生まれた魔力を全身に巡らす。その衝撃で思考が飛びかけながらも、激流のように荒れ狂う力をユフィリアは制御する。
その魔力をアルカンシェルへと注ぎ込む。ユフィリアの魔法の補助具としての機能を有した魔剣は呼応するように変化を見せる。
――虹色の結晶のような刃が形成される。
それがユフィリアが取り込んだ精霊の魔力と反応して光り輝く。
精霊とは世界の欠片そのもの。その精霊と共鳴出来るユフィリアが引き出す一撃は、その魔剣の銘と同じく虹を思わせる一撃だ。
空を思わせる極光と虹を思わせる極光の剣閃が重なり、弾け合った。
* * *
虹を見た。
綺麗な、とても綺麗な虹を見た。青空に橋がかかるような美しいソレを。
けれど目を開けば精霊の灯りが灯る昏い森の中だった。さっき見た美しい景色は幻だったのかな。
ふと頭の後ろに柔らかい感触があった。すると覗き込むように私の視界に映り込んできたのは……ユフィだった。どうやら私は膝枕をされているようだった。
「……お目覚めになりましたか?」
「……ユフィ? 私……」
「すいません。一撃を相殺するのが精一杯で、落下の事まで考えてませんでした。あの後、アニス様が頭から落ちてひやりとしましたよ」
「……頭から落ちた? あ……」
記憶が戻って来る。フェンリルを討ち果たしたセレスティアルによる必殺の一撃。あれを放った時、私は勢い良く飛び上がっていた事を思い出した。
それを迎撃したユフィは地上にいて、打ち上げるように虹色の一撃が迫ったのを覚えている。そこで記憶は途切れている。
私は恐らく空中でバランスを崩して、そのまま頭から落下。そして気絶したという事なんだと思う。それにしては頭に痛みはないし、ユフィが治療してくれたんだと思う。
「……凄い綺麗だった」
「はい?」
「……綺麗な虹を見たんだ」
「……あれは精霊の光ですよ」
「……そっか、本当に綺麗だったな」
思わず力が抜けてしまった。ユフィに頭を預けながら奇妙な充足感に息を吐いてしまう。
「……私の負けかぁ」
「……引き分けですよ。ただ運が悪かっただけです」
「うぅん、負けで良いんだ。本当に心の底から綺麗だと思ったんだ」
負けを認められたのは、ただ美しかったから。
負けたら絶対悔しいんだろうなと思ってた。私は負けず嫌いだ。今も少なからず悔しいと思う気持ちは感じる。
それでも美しさに心を奪われてしまった。手を伸ばしてユフィの頬に触れる。
「綺麗だ」
「……少し照れくさいです」
「珍しい。ユフィが照れるなんて」
「今、魔力が不安定で……なんだか、ふわふわしてるんです」
苦笑を浮かべてユフィが頬を赤らめて見せる。それがまた可愛らしくて、私は思わず笑ってしまった。
本当に完敗だな。少なくともこの場では。王を賭けた戦いではどうしようもなく私は負けてしまった。
「……あぁ、もう。悔しい気持ちも萎んじゃうな」
「はい。だって、勝っても負けても貴方は損はないんですから。そして私は負けたら死ぬほど悔しくて、多分泣いてしまいますから。だから負けたくなかったんです」
「……ユフィの泣き顔はちょっと見てみたいかも」
そう言うと困ったようにユフィに苦笑された。すると、ユフィはそっと指を這わせて私の唇をなぞる。
「きっと王になったら、嫌でも泣きますよ。貴方の前だけで」
「うん」
「許してくれますか?」
「許すよ。泣く事も、私から奪う事も、全部、全部」
「貴方を、幸せにしたいです。それも許してくださいますか?」
「……馬鹿、聞かないでよ」
恥ずかしくて舌を噛みそうだったのでそっぽを向こうとする。するとユフィの手が私の頬を押えて、ユフィの顔が迫る。
息を奪われる。溺れるように呼吸を求めて手を伸ばして抱き締めれば、酸欠になりそうな程に深く落とされる。苦しくなってユフィの後頭部をぺしぺしと叩くも簡単には離さない。解放された頃にはすっかり頭がクラクラしてしまった。
「ぷはっ。……この、キス魔ッ」
「どういう意味ですか」
「軽率にしすぎ!」
私の抗議を聞いているのか、聞いていないのか。ただユフィは満足げに微笑むだけだった。