Another Story:廃嫡王子と狼少女 03
「食事に不満はないか?」
「……ない。見てわかるでしょ」
アクリルがアルガルドの住まう洋館に盗みに入ってから数日が経過していた。
あれからというもの、アクリルの食事の席にはアルガルドが同席するようになった。アルガルドがアクリルの食事を持ち込み、毒味をしてからアクリルの分を出すという事をしていたのだが、いつしか食事を一緒に囲むようになっていた。
最初はスープがメインの食事だったが、アクリルが問題なく食事を取れる事がわかってから普通の食事が出されるようになった。どの食事も食べた事がない程に美味しくて、がっついて食べていたアクリルだったが、最近は大人しく食べている。
最初こそ空腹を満たすだけの食事だったが、空腹にもならずに食事を取れるという余裕がアクリルに人の視線を気にさせるようになっていた。
アクリルががっつく目の前でアルガルドが綺麗に食べていた、というのも原因の一つだ。アルガルドの食事の所作は容姿に違わず美しく、思わず見惚れてしまったのだ。それからアクリルもがっつくのを止め、アルガルドの見よう見まねで食事を取るようにしている。
「それなら良い」
「……これでアルの興味が満たされてるの?」
ここにいる条件としてアクリルの事を知りたいと言ったアルガルドだが、まだアクリルにもわかるような行動は起こしてはいない。
そんな疑問から出た言葉だったが、アルガルドは食事の手を止めて布巾で口元を拭う。
「そうだな。アクリルも大分緊張も解けたようだしな。まずは……」
餌付けか、と思わずアクリルの眉が寄ってしまう。言われてから自分が食事に釣られた事に気付いてしまったのだ。
それでも食べたものは戻らない。逆らわなければ餓える事はないのだ。そんな思いから、アクリルは何を言われても驚かないと、今度こそ身構えたのだが。
「勉強をして貰おうか」
「……勉強?」
「あぁ。パレッティア王国の公用語からだな」
意味がわからずにアクリルは首を傾げてしまった。何故、自分が勉強する話になっているのだろうか、と。
「意味がわからない、と言う顔だな」
「……」
「そもそもだ。私達はお互いの事を詳しく知らない。言葉は通じるが、国が違えば文化が異なるのも当然だ。その為にはお互いに認識を摺り合わせる必要がある。その前提として、意思疎通しやすくする為にこちらの言葉を学んで貰おうというだけの話だ」
「だから、私に言葉を教えるって……?」
なんでそこまでするんだろう。
アクリルの胸に浮かぶのはそんな疑問だ。アルガルドは至って真面目に言っているようで、それが逆にアクリルの困惑を深めてしまう。
「最後には私が得をするのだ。殺されても勉強したくない、と言うなら無理強いはしないが……」
「し、したくない訳じゃない!」
「そうか。なら食後の休みを取ってから本日の分の授業を始めよう。部屋にいても退屈だろう。宿題も用意しておいたから、暇つぶしにはなるだろう。言葉を覚えれば本を読む事だって出来る。アクリルにも損はない話だと思うが?」
「本、って……そんな高級品持ってるの……?」
「ん? まぁ、確かに本というのは些か高価なものだが、平民でも手が届かないという額ではないぞ。それがこの国での一般的な話だ。……これからはどうなるかはわからないが、な」
「……?」
最後にアルガルドが俯き、自嘲するように小声で呟いた。アクリルの耳はそんなアルガルドの呟きすらも拾ってしまう。
それが気になったが、アルガルドが今まで見た事もない表情を浮かべているのに怖じ気づいてアクリルは口を閉ざしてしまうのであった。
* * *
「アクリル、とはこの国の字でこう書くんだ」
「これで……私の名前?」
「そうだ。練習すればもっと綺麗に書けるだろう」
ペンを走らせ、アルガルドがお手本を見せてアクリルに書き取らせる。
言葉は通じるので、簡単な単語からアクリルに翻訳しながらアルガルドが意味を教え、書き取らせる。発音も合わせながら書き取らせる作業を繰り返していく。
アクリルは勉強出来る事が楽しいと言った様子でペンを走らせている。その耳と尻尾が機嫌良さそうに動いているのを隠せておらず、アルガルドは自然と口元を緩ませる。
「楽しいか?」
「うん!」
アルガルドの問いかけにアクリルが勢い良く答える。すると、アクリルがはっとしたようにアルガルドを見上げる。アルガルドの視線の微笑ましさを感じて、アクリルは顔を赤くして目を逸らす。
そんなアクリルの様子にアルガルドは堪えきれないように笑い声を漏らしてしまう。
「わ、笑わないでよ!」
「すまない。……なぁ、アクリル」
「もう……何よ?」
「少し今後の話をしても構わないか?」
「……今後の話?」
アルガルドが笑うのを止めて、表情を引き締めた。そのアルガルドの表情の変化を見たアクリルもまた表情を引き締めた。
先程までの穏やかな空気は消え去り、息を呑むのも喉が引き攣りそうな緊張感が満ちていく。
「これからアクリルがどうするか、という話だ」
「…………」
「私はお前を客人として招いた、というのが建前だが。お前がどうしたいのか、それを聞いておこうと思ってな」
「どうしたいって……」
「私はお前がここに盗みに入った事情を知らない。何か切羽詰まった事情があるとは見ているがな」
アルガルドの言葉にアクリルは唇を引き結んで沈黙を選ぶ。
アクリルの沈黙を気にした様子もなく、アルガルドは続ける。
「幸いにもここは辺境だ。穏やかな生活を望むというのならここにいれば良い。どこか行きたい場所があるなら、その場所を目指す手助けぐらいはする」
「……どうして、そこまでしてくれるの?」
「そうだな……。その理由を話しても、私達はお互いの事情を知らない。育った環境も違う。話した所で意味がないと私は思っている」
「……知らないから話すんじゃないの?」
「互いに理解出来るかわからないのにか?」
アクリルの問いかけにアルガルドの目が細められる。その真紅の瞳に見据えられればアクリルの息が詰まりそうな程に苦しくなる。
「全てを話せば理解出来るなど、それは幻想だ。どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ思いを語ろうとも、その全てを重ねる事は人には出来ない。どうしてそこまでするのか、という問いには、それをするだけの理由が私にはあるという事だけを君は知っていれば良い」
「……貴方が最後に私を裏切らないなんて保証もない」
「他人を裏切らない人などいない。自分すらも裏切るのが人だ。……だが」
アルガルドの手がアクリルへと伸びてくる。咄嗟の反応でアクリルは身を固くしてしまう。アルガルドの伸びた手には、殺気も、敵意もなかったからだ。
ぽん、とアルガルドの手がアクリルの頭の上に乗せられる。そのまま優しい手付きで頭を撫でられて、アクリルは目を瞬かせる。
「裏切りたくない、と。そう思いながら行動する事は出来る」
「……」
わからない、とアクリルは思う。アクリルにはアルという男がどういう人なのか判断する事が出来ない。彼が語らない事情というのを知れば理解が出来るのかもしれない。
信じる理由はない。口で裏切らない、騙さないとは言える。言うだけなら、良い顔をするだけなら誰にだって出来る。
(それでも……アルなら、騙されてもいいかな)
この優しい手が嘘だと思いたくない。この温かな時間を手放す事はアクリルには出来なかった。
「アル。聞いて欲しいの。私の事、貴方に」
「……あぁ、是非聞かせて貰う」
アクリルが表情を引き締めて告げた言葉に、アルガルドは大きく頷いて見せる。
アルガルドが頷いたのを見て、アクリルは大きく息を吸い、呼吸を整えてからゆっくりと語り始めた。
「私は、アルが言うカンバス王国という所から来たのかわからないの。私は里から出た事がなかったから」
「里?」
「私達は自分達の事をリカントって呼んでいた。人狼、人と魔狼が交わって生まれたって語り継がれているわ。真実かどうかはわからないけど……」
興味がなかったから、と語るアクリルの口は重いままだ。ぽつぽつと普段の声量よりも小さな声で語られるアクリルの事情にアルガルドは腕を組んで聞いていた。
「私達、リカントは森で暮らしていたの。獣や魔物を狩って、森の恵みを集めて、それで暮らしていたわ」
「では、リカントは外部と交流があった訳ではないのか?」
「外の人と関わるのは良い事ではないとされていたわ。迷い人がいれば追い返すか、森で見かけても何もしない。私も里を出るまで関わらなくて良いと思ってた」
「……だが、現に君は外に出ている」
「攫われたのよ、人間にね」
アクリルは自らの体を抱き締めるように回しながら呟く。攫う、という言葉にアルガルドは眉を寄せた。
「それがアルの言うカンバス王国なのかはわからない。でも、たくさんの人がいたわ。そこには私の他にも色んな種族が集められてた」
「色んな種族? それは、つまりはリカントと同じような……」
「そう、人間達は私達の事を亜人と呼ぶけど。……そこで、人殺しを強要させられたわ」
「人殺し……」
「毎回じゃなかった。でも、何度も戦う為の力を求められたわ。拒否すれば、鞭で打たれたり、食事を抜かれたり……何度も死ぬかと思ったし、いっそ殺してくれとさえ思ったわ」
アクリルの脳裏には自分の体験した過去が鮮明に蘇っていく。
里に迫った人間を追い返そうとして、逆に返り討ちに遭って捕まった事。それからは粗雑な牢屋に入れられ、戦う事を強要される毎日。
その中には人殺しを望まれた事もあった。殺さなければ自分が鞭で打たれる。それどころか相対した人間に殺されそうになった事もあった。
「もう逆らう気力もなくなって、周りの皆も次第に口を開く事も無くなって……地獄だった」
「……それで逃げ出せたのか?」
「逃げ出した時、私達はどこかに運ばれる所だった。檻には入れられたけど、人はいつもより少なかった。私が率先し暴れたけど、私が暴れた事で他の子達も暴れて、混乱に乗じて森の中に逃げ込んだの」
「それで、ここに辿り着いたと?」
「……そうよ。何日かもうわからないぐらい彷徨ってね」
アクリルは全部言い切ったと、そう言うように深く息を吐いた。
アルガルドは暫し、顎に手を当てて考え込むように黙り込んでいる。
「……追っ手の心配は考えられるか?」
「っ、わからない……」
「そうか……」
息を吐くアルガルドに、アクリルは息を呑んでいた。ここにいて、食事を与えられて、落ち着ける場所にいて気が緩んでいた。だが、自分が追われるかもしれない可能性はまだ消えていなかった。
もしかしたら、とアクリルの脳裏に想像が浮かぶ。もしかしたらアルは自分を追い出そうとするかもしれない、と。
「……心配するな」
「え?」
「放り出したりはしない。これも何かの縁だ。それに言っただろう?」
表情を和らげてアルガルドは安心させるようにか、笑みを浮かべて続ける。
「アクリルの事を知りたいと。リカントという種族についても、アクリル個人についてもな。つまり私にとって君は客人として招くに値する価値がある。だから、……あぁ、そうだ」
アクリルの頬を撫でて、アルガルドは困ったように眉尻を落として続ける。
「君を守ろう」
「……っ……!」
その言葉に、アクリルは自分が思うよりもずっと激しい衝撃を伴って心を揺らされた。
里から攫われ、望まぬ事を強要され、命からがらに逃げ出した先で彷徨い、ここに辿り着いた。
温かな食事に脅かされる事のない寝床、優しい言葉を投げかけてくれるアルがここにいる。それは間違いなく幸福な事だとアクリルには思えた。
救われたのだと、そうアクリルは思った。それが無意識にもアクリルを縛っていた恐怖の枷を解いていく。
「……私、ここにいていいの?」
「君が、そう望まれたいなら。私が君にここにいて欲しいと望もう」
それはアクリルにとって、何よりも望んだ言葉だった。
ここにいて良いのだと。そう認めてくれる人がここにいてくれる。
最早、言葉にならない。ただ目の奥が熱くなって涙を次々と零していく。
頬に手を添えていたアルガルドが、アクリルの背中に手を回す。片手で抱き込むように添えられた手のぬくもりにアクリルは寄りそうように額をアルガルドに預けた。
言葉もなく泣き続けるアクリルを、アルガルドはただ背中を労るように撫で続ける。アクリルが泣き疲れて眠るまで、ずっと。